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【十年後】
小学生の頃、人助けをしたことがある。
「道を教えた」とか、「重い荷物を持ってあげた」とか、「転びそうになったところを支えてあげた」…とか…、そんなちっぽけなものではない。僕は、今に消えそうな人の命を救ったことがあったのだ。
ピコン! と、ポケットの中に入れていたスマホが鳴った。
人通りの少ない路地を歩いていた僕は立ち止まり、電柱の方に寄っていって、スマホを取り出す。『お金のことで相談があります』という内容のメッセージを受信していた。
差出人は、僕の母親。
「ったく」と、僕は舌打ちをうつと、返信せずにスマホをポケットの中にねじ込んだ。
そして、また歩き出す。
ピコン! と、またスマホが鳴った。
「………」
僕は立ち止まる。また見ると、母親から「返信ください」というメッセージを受信していた。
僕はスマホを壁に投げつけたい衝動を抑えながら、「今、外出中。またあとで連絡する」と返信した。スマホをポケットにねじ込む。
また歩き出す。
ピコン! と、またまたスマホが鳴った。
無視しても良かったのだが、僕はA型なんだ。メッセージを受信したらすぐに確認しないと、なんかこう…、落ち着かなかった。
見ると、「お返事待っています」と書いてあった。
僕は何も返信せずに、スマホをポケットに入れた。
そして、もう何も受信しないように祈りながら、ゆっくりと歩き出した。
※
小学生の時、僕は急病に犯された母親を助けたことがあった。
病名は今となっては覚えていない。って言うか、聞かされていない。でも、今すぐに手術して、高い薬を投与しないと、明日の朝日を拝めるかどうかわからない状況だった。そう、お医者さんが言っていたような気がする。
父親と離婚して、親には勘当されて、母さんには頼れる人間がいなかった。僕も学校では孤立して、近所の人間に邪険に扱われていたから、もう八方塞がりだった。
当時はまだ、母親に対して「屑親」という印象を抱いていなかった僕は、どうすればいいかわからず、母親が死ぬことへの恐怖から、ただ泣きじゃくっていた。わんわんと泣いていた。
そんな時、僕はあの女に出会った。
錯乱して病院を飛び出し、訳も分からなく走った僕は、気が付くと、僕は神社の裏手にある林道を歩いていた。
冷えた秋風がざわざわと木々を揺らしている。
振り返るとそこに、女が立っていて、僕に言うのだ。
「未来を売ってみませんか?」と。
黒いマント、華奢な身体。銀色の髪の毛に、透き通るような肌。
まるで絵本の中の魔女をそのまま切り取って、この世界に配置したかのような姿に、僕は全身が粟立つ感覚がした。そして、思わず尋ねた。
「ねえ、誰?」
僕の質問に、女は「おっと」と言って、口をしなやかな指で、上品に抑えた。
「これは失礼…、私は『未来の売買人』です」
「みらいのばいばいにん?」
頭の中に「?」が数十個浮かんだ。
女は上品な笑みを浮かべながら続けた。
「お母さんが死にそうなんでしょう?」
そう言われて、肌にピリッとしたものが走る。「どうしてそれを知っているの?」という疑問と、「ああ、そうだ…、早くなんとかしないと」という焦りが同時に湧き上がってきて、僕の頭の上を、自分の尻尾を追う猫のようにぐるぐると回った。
女が僕に言う。
「お母さんを助けたいと思いませんか?」
「………」
僕は少し間を置いて答えた。
「た、助けたい…」
答えた後、すぐに首を横に振る。
「でも、ダメなんだ…、お母さん、手術して、薬を呑まないと助からないんだよ…。お、お金が足らないんだ…、誰も貸してくれる人がいないんだ…」
そう言うと、女は微笑んだ。
「貴方…、お金が欲しいの?」
「お金が無いと、母さんを助けることができない…」
「だったら、未来を売りませんか?」
今思えば、その言葉は、「悪魔の囁き」だった。だけど、当時、何としてでも母親を助けたいと思っていた僕には、「神様のお導き」に聞こえたのだ。
僕は涙をボロボロと流しながら、女に詰め寄った。
「お、お金が手に入るってこと?」
「ええ、お母さんを助けても余るくらいの、たくさんのお金が手に入りますよ」
「み、未来を売ったら、お金がもらえるんだよね!」
当時、僕はゲームボーイアドバンスで、ポケットモンスターをプレイしていた。そして、母さんはよく「質屋」に行ってガラクタを少量の金に変えていた。だから、「ものを売ってお金を手に入れる」という行為に、何の疑問も抵抗も抱かなかったのだ。
「未来を売る」という行為が、どれだけ愚かなことかもわからずに。
「う、売るよ! 未来! 売るよ! それで母さんが助かるなら!」
そう言った瞬間、女の口元が口裂け女みたいに、にやっと笑ったのを覚えている。
悪意のある笑みを浮かべながら、でも、声は慈愛に満ちた女神のような声で、女は言った。
「では、売ってしまいましょうか、未来」
「うん! 何処で売れるの?」
「大丈夫、ここで全部終わりますよ」
女はその場で、改めて説明した。
この世界には「運命」というものがある。
運命という存在を簡単に説明すれば、それは「神様の筋書」だ。
「偶然」ではなく「必然」。
本能寺の変で、明智光秀が織田信長を裏切ったのも、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したのも…、第二次世界大戦が起こったのも、日本が負けたのも、バブル崩壊が起こったのも、すべて起こるべくして起きた事象…、つまり、「神様の手のひらの上」なのだ。
まあ、神様が本当にいるかどうかはわからないのですが…、と言って、女は続けた。
女の仕事は、「未来の売買」。そのまんまの意味だ。他者から未来…、つまり運命を買取り、その未来を別の誰かに売りつける。人生を一冊の「本」として例えるなら、そこから一部のページを切り取って、他人の本の間にねじ込むのだ。
未来を売ったからと言って、寿命が縮まるわけではないから安心してください。
そう、女は言った。
「では、どうしますか? 未来、売りますか?」
一通りの説明を終えた女は、風に靡く銀色の髪を鬱陶しそうに撫でながら聞いてきた。
僕は少しだけ迷った。そして、怖くなって聞いた。
「僕の、未来は…、どんなことになるの?」
「それは教えられません」
女は唇に指を押し当てた。
「他者の人生を見ることができるのは、私たち、『未来の売買人』だけ。人間がそれを見ることは『禁忌』なのです」
禁忌。の意味はわからなかったが、とにかく未来を教えてくれないことはわかった。
女はくすっと笑った。
「これだけは教えましょう。『未来』には『価値』があります。人がどんな人生を歩んだかによって、それ相応の『価値』が与えられる…。例えば、事業で大成した人間には莫大な価値があり、年中パチンコで時間を浪費するような人間には、大した価値が与えられない…」
口元がにやっと笑う。
「あなたは、前者ですね。あなたの『未来』の価値は、素晴らしい…」
「…………」
僕の身体の血が、指先から凍り付くようだった。
未来を売れば、たくさんの金が手に入り、母さんを助けることができる。
だけど、それは同時に、僕の未来を潰すということだった。
漠然としてはいるが、僕の未来には価値がある。きっと、お金に囲まれた華やかな日々が待っているに違いなかった。
「どうしますか?」女が急かすように言った。「お母さん、助けたくないのですか? 助けたいでしょう? あなたを産んでくれた女性ですからね。死んでしまえば、悲しいでしょう?」
それに…、と言って、女は続けた。
「母に死なれたら、あなたは一人になってしまいますよ?」
「……」
その言葉に、はっとした。
父親はもういない。祖母祖父には勘当されている。学校の友達はいない。ご近所さんも、僕のことをよく思っていない。もし、母さんに死なれたら…、僕は…、一人?
僕は途端に怖くなった。足ががくがくと震え、その場に立っていられなくなる。
ガクッ! と膝を折ってその場にしゃがみ込んだのを、女の冷たい手が支えた。
女が耳元で囁く。
「…売りませんか?」
「………」
病院で、無料のミネラルウォーターを呑んだばかりだというのに、喉の奥がどうしようもなく乾いた。秋の風が、指先から体温を奪っていく。
僕は小さく頷いた。
女が笑う。
「決まりですね」
顔を上げると、女はどこからともなく、黒いジュラルミンケースを取り出して持っていて。
それを、にこっと笑いながら僕に差し出す。
持った瞬間、重すぎてケースを土の上に落とした。
女は言った。
「それが、あなたの未来の価値です」
「これが…、僕の…」
「簡単でしょう?」
女はすっと僕に顔を寄せると、僕の額にキスをした。その拍子に、銀色の前髪の間から覗いた、金色の目と視線が合う。
女はマントを翻して踵を返した。
「あなたの未来…、確かに頂戴しました。そのお金はあなたのもの。お母さんを助けるなり、貯金に費やすなり、好きにしてください」
首だけで振り返る。にやっと笑う。
「空虚な日々に、幸があることを祈っています」
風が強く吹き付ける。舞い散った木の葉と土に、僕は思わず目を閉じた。
ふたたび目を開けた時、そこには誰もいなかった。
僕は足元に落ちている、重くて重くてたまらないジュラルミンケースを持つと、病院へと向かった。
この時から、僕の未来は変わった。
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