Part10 貴方の隣に

*ノゾミ*


 そよ風が優しく、頬をくすぐった。


 ノゾミが目を開けると、自分が薄暗い森の中に立っていることに気付いた。


 辺りに生えている木々は、明らかに熱帯雨林のものではない。


 ついさっきまで、どこか違う場所に居た気がする。

 ここはどこなのだろう。

 どうして私はここに居るのだろう。


 そんな疑問は、かすかに聞こえた泣き声に掻き消された。


 ノゾミがよく知っている誰かの泣き声だった。


 前に向かって歩き出す。


 方向までは分からなかったが、この先に"彼女"がいるという確信があった。


 行かないと。

 今、あの子の涙を拭ってあげられるのは、きっと私しかいないから。


 迷うことはなかった。


 森の外へは細い道が導いてくれる。

 時折風が運んでくる泣き声が、方向が正しいと教えてくれる。


 道の終点にある木が作った天然のアーチをくぐった時、ノゾミは思わずその名を叫んだ。


「マリィ!」


 目の前に広がるのは果てしない青空と一面緑の丘。


 その頂上に居る誰かがこちらに意識を向けるのを感じた。

 自分の存在に気付いたのかもしれない。


 丘に向かって一気に駆け出した。

 全身の感覚がひどく研ぎ澄まされている。

 自分の全てが、マリィを探すためだけに機能している。


 何故か溢れ出した涙を袖で拭い、頂上を目指して斜面を駆け上る。

 傾斜は緩いとは言えなかったが、苦しさは感じない。

 どこまでも走っていけそうな気がした。


 テーブルと椅子が置いてあるのが見える。


 反統合海軍の制服を着た誰かが椅子の一つに腰掛け、膝を抱えてうずくまっていた。


 近付いていくにつれ、長いブロンドが揺れるのが、時折肩が震えるのが見えてくる。


 もう間違いない。彼女は――


「……マリィ」


 ノゾミは草原を渡る風のように優しく、その名を呼んだ。


 椅子に蹲る女性が、ゆっくりと顔を上げ、ゼンマイ仕掛けの人形のように首だけでぎこちなくノゾミの方を向いた。


 周りを赤く泣き腫らしたグレーの瞳は、間違いなくマリアンネ・ガブリロワの、マリィの瞳だった。


 ノゾミは少しだけ逡巡する。

 今、彼女にどんな言葉を掛けてあげるべきなのか。


 だがすぐに思い直す。今、私がすべきことは、言葉を掛けることではなく、マリィの言葉に耳を傾けることだと。


「……ノゾミ……許してくれ……」


 長い沈黙の後に、ようやくマリィが口を開いた。

 ノゾミは何も言わず、ただマリィの目を見つめ返す。


「わたしは何も成し遂げられなかった。兄さんの所へ逝くことも。ノゾミの所に帰ることも」


 その頬をまた涙が伝い落ちる。


「こんなところに来てしまったのはきっと罰なんだ。復讐なんてくだらないことのために、狂った組織の一員になって、何もかもを犠牲にしたわたしへの。おまけに大切な人まで、ここに呼んでしまって……」


 マリィがやっと本心を喋ってくれたのを、ノゾミは嬉しく思う。


「それでも、私はここに居るわ。マリィ」


 自己嫌悪に陥りかけているマリィを宥めるように言った。


「私は、アーガスに入ったことを後悔なんてしていない。貴方に会うことができたから。何もかも終わった時、隣に居たいと思える貴方に。ここへ導いてくれたのは貴方だけど、ここに来たのは私自身の意志よ。例え私達を引き合わせたのが憎しみだとしても、この気持ちだけは誰にも否定させないわ」

「でも……」


 まだ何か言いたげなマリィの言葉を遮り、繰り返す。


「私は、アーガスの一員になったから、貴方に会えたって言っているの! "エキドナの子"への憎しみがあったから、私達は会えたって言っているの! 貴方と私がここに居るのは、復讐したいって気持ちがあったからなの! それなのに、それなのに、くだらないなんて言わないで……!」

「…………」


 ノゾミの思わず感情をあらわにして捲し立てる姿に、マリィが思わず押し黙った。


 その背後に回り込み、まだ震える身体を椅子の背もたれごと抱き締める。


「これが罰だっていうなら、私も一緒に受けてあげる。貴方の隣に居られるなら、私は何も辛くないわ」


 涙の跡に頬を寄せながら、彼女の耳元に囁く。

 その言葉を聞いたマリィが、小さく息を呑んだ。


 後ろから回され、胸の前で重ねられたノゾミの両手を、自らの手で愛おしげに包み込む。


「ああ、全く、ノゾミには敵わないな……」


 そう呟く彼女の口から出たのは、安堵のため息だった。


 もう、マリィから自己嫌悪を感じることはなかった。


 暫くの間、ノゾミとマリィは互いの鼓動と息遣いに耳を傾けていた。


 貴方がここに居て、私がその隣に居る。

 それだけでいい。

 それ以外、もう何もいらない。


 身を寄せ合ったままどれだけ時間が経っただろうか。

 ほんの数分だったようにも思えるし、数時間はそうしていたようにも思えた。


 何も告げずノゾミは腕を緩め、マリィの背を離れた。


 マリィも何ら抵抗せず、ノゾミの手を離した。


 分かっているのだ。

 自分の許から居なくなるわけではないと。


 ノゾミはマリィのすぐ隣にある椅子に座った。

 その背もたれには、"シンドウ・ノゾミ"と刻まれていた。


 そうだ。

 私はいつだって、貴方の隣に居る。


 マリィの方に視線を向けると、マリィもこちらを向いてくれた。


 その顔に、少し困ったような笑顔が浮かぶ。


 貴方の笑顔を見れてよかった。

 ノゾミは素直にそう思った。


 自然と自分の口角が吊り上がるのが分かる。


 今の願いはただ一つ。

 マリィと共に心ゆくまで笑い合うことだけだ。


 胸の中を暖かいものが満たしていく。


 大切な人と同じ気持ちを分かち合うことが、こんなにも幸せなのだということを、ノゾミは知った。


 二人の笑い声が丘を下り、麓に響き渡っていく。

 残る椅子はあと4つ。

 座るべき人達は必ず来る。


 ずっと笑っていよう。

 これから来るはずの人達を笑って出迎えられるように。


 ノゾミとマリィはいつまでも、いつまでも笑っていた。


(Chapter5 おわり/Chapter6へつづく)

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