Part5 愛の証

*ハイド*


 パイロットスーツに着替えたハイドが立ち上がると、リーナがアタッシュケースを持ってくれた。


 もう迷わない。

 リーナとの対話の中で、自分の中の怒りを確かなものにできた。

 今度こそ、ハーキュリーズに乗って飛び立つのだ。


 更衣室を通って廊下に出る。


 無機質なコンクリート製の通路が放つ冷気が、シャワーの湯で熱された身体には丁度いい。


 途中兵士や避難民とすれ違う。

 ハイドを軍関係者だと思ったのか、ある兵士は軽く敬礼をくれ、ある避難民は不安げな眼差しを向ける。


 廊下の両端でシェルターの各階を繋いでいるのは、螺旋状の緩いスロープだ。


 スロープを上るハイドとリーナを、荷台を連結した小型トラクターが追い抜いていく。

 地上の兵士に何か届けるところらしい。


 直進になったスロープからゲートをくぐり外に出ると、地上は完全に夜の闇に閉ざされていた。


 だが町の方角を見れば、夜を拒むように未だ炎が赤く明るく空を照らしている。


 リーナを伴って、再び丘の裏手に向かう。


 防水シートと鉄パイプを利用した簡易格納庫インスタントハンガーの前で、ディシェナが銃を持った見張りの兵士と共に待っているのが見える。


「わたし、消されちゃうのかな?」


 不意にリーナが立ち止まり、夜空を見上げながら呟いた。


 の出入り口となる、めくれる切れ目の前でのことだ。

 隙間からハーキュリーズの足が僅かに見える。


 リーナと心を通じ合わせることができた喜びで、完全に忘れていた。


 "エキドナの子供達"は存在自体が軍事機密。

 こうして外を歩き、他人と触れ合えるのは、軍がハイドの人格を尊重し、また日夜証拠の揉み消しに奔走してくれているからに他ならない。


 だがそれでも、ハイドがその一人であることを知ってしまった以上、ただで済むとは到底思えない。

 口止め料で済むならまだしも、薬物と催眠による一歩間違えれば廃人の記憶操作か、命を奪われるか――最悪の事態ばかりが頭の中に浮かぶ。


 図らずもリーナを再び危険に巻き込んでしまったことに気付き、ハイドは思わず凍り付く。


「心配ならいらないわ」


 声を掛けてくれたのは、ディシェナだった。


「母さん!」


 ハイドに軽く目配せを送り、穏やかな表情でリーナと向き合う。


「リーナちゃん。貴方のことは軍上層部に『ハイドラ・エネアの精神安定に必要不可欠な存在』として報告するわ」

「それって……!」


 リーナの表情が明るくなった。


「ハイドに、私の息子に良くしてくれてありがとう。今日、貴方と話して確信したわ。きっと貴方なら、ハイドを幸せにできると」

「これからも、ハイドと一緒に居ていいってことですか!?」

「ええ、貴方がそう望む限りね」

「やったあっ!」


 感極まったリーナが、アタッシュケースを落として、ハイドに飛びついてきた。


 彼女の身体に染みついた煙の臭いの中に、花のような甘い香りが混じっているのを、ハイドは確かに嗅ぎ取った。

 リーナの体臭を意識したのは、これが初めてだった。

 その時ハイドは、自分のリーナへの"大切"の意味を理解できた気がした。


 僕はリーナを、一人の女性として愛しているんだ。


 このまま抱き締め返し、髪の毛の中に鼻をうずめ、その匂いを肺一杯に吸い込みたい衝動に駆られる。

 だが、僕にはまだやるべきことがある。

 リーナを愛しているなら、共に生きていきたいと望んでいるなら。


 彼女のために戦うことこそが、ハイドの紛れもない愛の証だ。


 ヘルメットを持っていない右手をリーナの肩に乗せ、引き離す。

 「どうして」と言いたげに顔を上げる彼女に、ハイドは口を開いた。


「僕らの町をあんな風にした奴らを倒しに行く」

「それって、必要なことなの? 今すぐやらなきゃいけないことなの?」


 リーナが消え入りそうな声で訊く。


「ああ」


 ハイドは即答する。


「奴らの狙いは僕だ。いつまでもここに留まっていれば、また攻撃を仕掛けてくるだろう。そうなる前に打って出る。僕を敵に回したことを後悔し、二度と手を出す気を起こせないほどに、奴らを叩きのめす。僕は――僕は君と一緒に居たいから!」


 自然と出た最後の言葉に、ハイドは戦う理由をもう一つ見出した。

 リーナのための復讐だけじゃない。自分の過去を清算し、愛する人と共に新たな未来へ進むために戦うんだ。


「だったら……だったらわたしも連れて行って! 何もできなくてもいい。側に居れればそれでいい! あなたの戦いを、見届けさせて!」


 リーナが今度は絞り出すような涙声で叫ぶ。

 だがハイドの合理的な思考は、共に行きたいという感情を呆気なく上回り、リーナの願いを拒絶する。


「ダメだ。ハーキュリーズは強化人間用の機体。常人の君が乗れば、僕達は全力で戦えなくなる」

「なら……」


 リーナは震える手で黒縁眼鏡を外した。

 テンプルを畳み、右手で包み込むように握ってハイドに差し出す。


「これは一体……」

「なら、私の気持ちだけでも連れて行って……!」


 レンズを介さないブラウンの瞳が、ハイドを射抜く。

 まなじりの垂れた優しい眼つきに似合わない、鋭い光。


「あなたが帰ってくるまでは、目を閉じて、あなたのことだけを想ってる。だから、必ず帰ってきて……ハイド……」


 その目から流れ落ちようとするものがあったのは、きっと気のせいではない。


 ハイドはもう何も言わず、眼鏡を受け取った。


 リーナ・アンダーウッド。小柄でか弱げな文学少女。

 だがその小さな胸の内に、ひた向きなまでの情熱と、溢れんばかりの愛を秘めた少女。

 彼女にこんなにも想ってもらえる僕は、おれは、本当に幸せ者だ。

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