第11話*理由を知りたい

その日も時間を見計らうと、成孔はテーブルのうえに置いていたスマートフォンを手に取った。


着信履歴から美都の名前を見つけると、指で画面をタップした。


スマートフォンを耳に当てると、

「ただ今、電話に出ることができません。


電源をお切りになっているか電波の届かないところに…」


アナウンスが聞こえたので、当てていたスマートフォンを耳から離した。


「今日もか…」


成孔は呟くと、息を吐いた。


5日前から美都と連絡が取れなくなっていた。


毎朝に送っていたメッセージも返信がないと言う状況である。


仕事が忙しくて電話やメッセージを返すことができないのだろうか?


それとも、

「俺、何かやったのかな…?」


そう呟いて心当たりを考えてみるものの、これと言ったことは特に思い浮かばなかった。


「お兄ちゃん」


その声に視線を向けると、3歳下の妹の和香だった。


風呂から出てきたばかりの彼女はパジャマ姿で、バスタオルで短い髪を拭いていた。


「お風呂が空いたよ」


和香はそう言うと、勝手知ったる様子でキッチンへと足を向かわせた。


「あいよー」


成孔は返事をすると、スマートフォンをテーブルのうえに置いた。


和香は冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出すと、それをコップに注いだ。


「ねえ、お兄ちゃん」


「んー?」


「今日も例の彼女と連絡が取れないの?」


そう聞いてきた和香に、

「うん、今日もね」


成孔は答えると、シャツのボタンを外した。


「…何かやらかした?」


和香がジロリとした目つきを自分に向けてきた。


「それが俺もよくわからないんだよ。


これと言った心当たりが何にも思い浮かばない」


成孔はどうしたもんじゃろかと言うように腕を組んだ。


「ふーん」


和香は返事をすると、コップに口をつけた。


こうして兄妹水入らずの時間を過ごすのは久しぶりだ。


ファッションデザイナーとして世界中を飛び回っている妹が日本に帰ってくるのは、年に2回ほどである。


日本に帰ると彼女は決まって自分の家を訪ねてきてはホテルのように利用している。


「ホテルだと高いもん。


それに日本にいるのは7日とか10日くらいなんだし、それくらいいいじゃない」


毎度のことながら妹に論破される自分が情けない。


正直なことを言うと、美都には情けない自分のこの姿を見せたくないと思っている。


「お兄ちゃんってさ、相手を大切にし過ぎている部分があるよね?」


そう言った和香に成孔は我に返った。


「よく半年も手を出さずに我慢できたよね」


「おいおい、それは俺の高校の時の話だろ。


あの時は初めてでどうすればいいのかわからなかったんだ」


20年以上も前の恋を掘り返された成孔は頭が痛いと言うように人差し指でこめかみを押さえた。


「その後に出会ったのが、今つきあっている例の彼女なんだよね。


20年近くも片思いするなんて、我が兄ながら健気だわ」


和香はうんうんと首を縦に振ってうなずいた。


「け、健気って…」


妹相手にタジタジになっている情けない自分の姿を美都にだけは見せたくないと心の底から思った。


「片思いをしていたと言えばしていたけど、美都以外にもつきあった女は何人かいたよ」


成孔は言った。


「でも結婚までには至らなかったんでしょ?」


「…まあね」


痛いところを突かれた。


「20年経っていたらどんな姿になっているかわからないのに、よく片思いを続けられたよね?


つきあっている相手がいるかも知れないのに、ましてや結婚しているかも知れないのに」


やれやれと息を吐きながら言った和香に、

「美都がどんな姿になっていたとしても、俺の思いは変わらないよ。


相手がいたらあきらめようと思ってたけど」


成孔は言い返した。


「はいはい、大切にしていますね」


和香は空っぽになったコップを洗うと、水切りカゴの中に置いた。


「毎度のことながら聞くけどさ、お前には相手はいないのか?


仕事が楽しいのはわかるけど、40近くになっても独身でいるって言うのは…」


「あー、はいはい」


成孔から逃げるように和香はキッチンを出た。


「おい、和香…」


「お兄ちゃん、その話を始めると長いんだもん。


私は私で仕事をしながら相手を見つけますから大丈夫でーす」


あっかんべーと言うように舌を出すと、和香は早足でゲストルームに逃げたのだった。


「ったく…」


また逃げられたと、成孔は呟いた。


「何が“仕事をしながら相手を見つけます”だ。


じゃあ、早いところ相手を見つけて身を固めてくださいな」


ゲストルームに逃げ込んだ和香に向かって呟くと、成孔はバスルームへと足を向かわせた。


 *


2人の間に何が起こったのかはわかった。


「わかりやすいですね」


コソッとささやくように声をかけてきた由真に、

「わかりやすいわね」


沙保もコソッとささやくように返事をした。


いつものように仕事に取り組んでいる美都と律だが、彼らの間に流れている空気は気まずいものであることは誰から見ても明白だった。


何かあるたびに美都に言い寄っていた律も彼女と口を利くことはおろか、近づくこともしなかった。


美都のことをあきらめたのかと思ったけれども、どうも違うようである。


「何があったんですかね?」


由真は聞いたけれど、

「それが私もわからないのよ。


美都に何があったのかって聞いたんだけど、何も答えてくれなくて…」


沙保は困ったように答えた。


昼休みになった。


「美都」


カルボナーラを食べている美都に、沙保は声をかけた。


「魚住くんと何かあった?」


そう聞いてきた沙保に、

「またその話なの?


何度も言ってるけど、魚住くんとは何も起こっていないから。


もう魚住くんも私のことをあきらめたんじゃない?」


美都は答えると、ストローでレモンティーをすすった。


「あきらめたって…私はそんな風には見えないんだけど」


「沙保ちゃんこそ、玉村さんとはどうなっているの?」


「話を変えようとするな」


断固としても口を割ろうとしない美都に沙保は言った。


「もう魚住くんに言い寄られることもなくなったし、それでいいじゃない」


そう言った美都に、

「美都はそれでいいかも知れないけど、周りが困るのよ」


沙保は言い返した。


「あんたたちの間に何が起こったのか、誰から見ても明白よ。


それが気になって仕事に集中したくてもできないんだから」


そう言った沙保に、

「気にしなければいいじゃん」


美都は言い返した。


「それができたら苦労しないから問いつめているんでしょ。


魚住くんに聞こうとしたら逃げられるし」


沙保は呆れたと言うように言い返した。


「…今は言いたくない」


美都は呟くように言った。


「はっ?」


思わず聞き返した沙保に、

「今は言いたくないの」


美都はもう1度言った。


「どうして?」


「私が理由を言ったら沙保ちゃんはどうするの?」


「いや、どうするって…」


美都は食べ終わったカルボナーラの容器とプラスチック製のフォークをコンビニの袋に入れた。


「ごめん、1人にさせて」


美都は沙保にそう言うと、ゴミ箱に袋を捨てた。


「美都…」


レモンティーを手に持って休憩所を去って行く美都の後ろ姿に声をかけた沙保だったが、彼女は振り返ってくれなかった。


非常階段に続いているドアを開けると、そこには誰もいなかった。


1人になりたい時は必ずここへと足を運んだ。


新入社員だった頃、仕事で上司に怒られた時はよくここに1人できては泣いていたっけ…と、懐かしく思いながら美都は小さく笑った。


ズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、美都は画面をタップした。


『おはよう、美都


仕事、そんなにも忙しい?


電話をかけても出ないし、メッセージをしても返してくれないし…


もしかしてとは思うけど…俺、美都の気に障るようなことをした?』


毎朝のように届く成孔からのメッセージを返さなくなって、今日で6日目を迎えた。


(気に障るようなことをしたんじゃなくて、私が成孔さんに顔をあわせる自信がないんです)


美都は心の中で呟くと、スマートフォンをズボンのポケットに入れた。


律に触れられたことやキスをされたことを言ったら、成孔はどうするのだろうか?


(魚住くんを殴るなんて言う物騒なことはしないと思うけど…)


美都は息を吐くと、階段に腰を下ろした。


「軽蔑されちゃうかな…?


それとも、別れを告げられちゃうかな…?」


どちらにせよ、嫌なことには変わりはない。


――君が欲しかった


そう言って顔を近づけてキスを交わしたあの日のことを今でも覚えている。


成孔が愛用している香水の甘い香りに包まれてのキスだった。


「ーーあの香りを嗅ぐたびに、私は成孔さんのことを思い出すんだろうな…」


美都は呟くと、膝に自分の顔を埋めた。


「お先に失礼しまーす」


「はい、お疲れ様です」


6時に仕事を終えると、美都はオフィスを後にした。


その後で、

「お先に失礼します」


律もデスクから腰をあげると、美都の後を追うようにオフィスを出たのだった。


「やっぱり、何かありましたね」


そう声をかけてきた由真に、

「そうね」


沙保は返事をすることしかできなかった。


「待ってください!」


律がそう叫びながら自分を追ってくるのがわかった。


それに対して美都は足を止めることなく、ビルを後にした。


「美都さん!」


律が目の前に現れたので、美都は驚いて足を止めた。


「何の用ですか?」


そう聞いてきた美都に、

「謝りたいんです」


律が言った。


「もう美都さんのことはあきらめます。


だけども、後味が悪いままで仕事をしたくないんです」


続けて言った律を美都は無視すると、彼の横を通り過ぎた。


「もう仕事以外では美都さんに近づきませんし、声もかけません。


美都さんが望むなら会社も辞めます」


それでも追ってくる律に、

「会社は辞めなくていいから。


私のせいで辞めたなんて周りに思われたくないし、魚住くんも次の就職先を探したくないでしょ?」


美都は言い返した。


「美都さん、謝らせてください!」


律が通せんぼをするように美都の前に立った。


「謝っただけで美都さんの心の傷が癒えないことはわかっています。


僕のことを許してくれなくてもいいです。


だから…」


「――美都?」


律をさえぎるように名前を呼んだその声に、美都の躰がビクッと震えた。


声のした方向に視線を向けると、

「成孔さん…」


そこにいたのは成孔と黒髪ショートカットの女性だった。


「えっ、“成孔さん”ってまさか…?」


その名前に聞き覚えがあった律は呟いて彼の方に視線を向けたが、すぐ隣にいた女性に目を奪われた。


「So beautiful!」


突然叫んだ律に、美都は何が起こったのかよくわからなかった。


「う、魚住くん…?」


彼の視線が成孔の隣にいる女性に向けられていることに美都は気づいた。


律は彼女のところに駆け寄ると、

「僕、あなたのことが好きになりました!」


そう言って、彼女の手を握った。


「はっ…?」


彼女は訳がわからないと言った様子で聞き返すと、キレイに整っている眉を段違いにさせた。


「…君、妹のことを気に入ったの?」


突然の状況に戸惑いながら、成孔は律に聞いた。


「はい!」


それに対して、律は元気よく返事をした。


(そう言えば、妹がいるって言ってたな…)


そんなことを美都は思った。


「僕の理想のタイプなんです!」


そう言った律に、

「和香、頼んだ」


成孔はポンと妹の肩をたたいた。


「えっ、お兄ちゃん!?」


和香がどうすればいいんだと言うように兄の顔を見つめた。


「俺は今すぐに彼女と話がしたいんだ」


そう言って成孔は和香から離れると、美都の隣に歩み寄った。


「ああ、その子が例の彼女なのね…」


それに対して和香は納得をしたと言うように、首を縦に振ってうなずいた。


「わかったわ」


和香は返事をすると、美都の方に視線を向けた。


「あなたの身に何があったのかはよくわからないけれど、気が済むまで兄と話をしてね」


そう言った和香に、

「はい…」


美都は条件反射と言うヤツで返事をしてしまっていた。

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