第10話*唇に挑発を刻む

「美都さん、ちょっといいですか?


どうしてもわからないところがあるんですけど」


律が書類を片手に美都のデスクへやってきた。


「魚住くん、君には松尾さんと言う指導役の人がいるじゃないですか」


高崎が美都と律の間に割って入った。


「だって、松尾さんはトイレに行っていていないですもん」


口をとがらせて言い返した律に、

「トイレだったら帰るまで待てばいい話でしょう。


美都さんも君の相手をしているほどヒマじゃないんです。


おや、そう言っていたら松尾さんが戻ってきましたよ」


高崎はそこに視線を向けて、律に行くようにとうながした。


「はーい」


律はいじけたように返事をすると、仕方がないと言った様子で離れた。


昼休みになった。


「美都さーん、一緒にお昼に行きませんかー?」


パタパタと走ってデスクにやってきた律に、

「あたしも同行を希望してもいいですか?」


由真が美都の後ろから顔を出して律に聞いた。


彼女の顔は口元だけは笑っているが、目は笑っていなかった。


「か、構いませんよ、はい…」


そんな由真の怖い笑顔に、律はコクコクと首を縦に振ってうなずいた。


沙保が中心となっている“魚住律の魔の手から美都を守ろう大作戦”は、今日も進行中である。



午後の休憩時間、美都は沙保と一緒に給湯室にいた。


「沙保ちゃん」


レモンテイーで渇いた喉を潤すと、美都はコーヒーを淹れている沙保に声をかけた。


「どうしたの?」


そう聞いてきた沙保に、

「ちょっとやり過ぎだと思う。


魚住くんがかわいそうだよ」


美都は言った。


「かわいそうも何も、あいつは隙を見て美都に近づいてきているのよ?


松尾さんが担当なのに、あいつったら何でもかんでもいろいろと理由をつけて美都に近づこうとしているじゃないの。


美都もそんなヤツに同情をする必要なんてないわよ」


沙保は論破する勢いで言い返すと、コーヒーを口に含んだ。


「と言うか、それ以前に自分の身は自分で守りなさいよ。


彼氏がいるから気持ちに答えることができませんって言えばいいだけなんだから」


「それはそうだけど…でも、魚住くんとは毎日顔をあわせる訳だし」


「呆れて何も言えないわ…」


美都のその態度に、沙保は心の底から呆れることしかできなかった。


「とにかく、あいつが美都のことをあきらめるまで続けるから」


宣言するように言った沙保に、美都はやれやれと思いながらレモンティーを口に含んだ。


時間は夜の8時を過ぎたところだった。


その日のうちにどうしても片づけたい仕事があったので、美都は久しぶりに残業をしていた。


「それじゃあ、お先に失礼しまーす」


「はーい、お疲れ様でーす」


同僚を見送ると、ここにいるのは自分1人だけになった。


「遅くても9時には終わらせないと…」


カチャカチャとキーボードをたたきながら、美都は呟いた。


手元の資料を確認しながらパソコンの画面とにらめっこをしていたら、

「お邪魔し…あっ、美都さん」


聞き覚えのある声が聞こえたので視線を向けると、律だった。


彼は6時を過ぎたくらいに帰ったはずだ。


「お疲れ様です」


会釈をして言ってきた彼に、

「はい」


美都は返事をすると、パソコンの画面に視線を向けた。


「ああ、あったあった」


その声が聞こえたので目玉だけ動かして視線を向けると、律はスマートフォンを手に取っていた。


どうやらデスクのうえに置いていたスマートフォンを忘れたので、それを取りにきたようだ。


「美都さん、もう遅いのに仕事をしているんですか?」


そう聞いてきた律に、

「どうしても今日中に片づけたい仕事があるんです」


美都は答えた。


質問にちゃんと答えたのに、律はそこから1歩も動こうとしなかった。


「忘れ物を取りにきたんじゃないんですか?」


その様子に美都が聞いたら、

「いえ、美都さんの仕事が終わるまで待ちます。


女1人を置いて帰るほど、僕は薄情じゃありませんから」


律が答えたかと思ったら、隣のデスクから椅子を引いた音が聞こえた。


その音に視線を向けると、律が隣に座っていた。


当然のことながら、この場には沙保もいなければ由真も高崎もいなかった。


つまり、自分の身を守ってくれる人は誰もいないと言うことである。


「もう少しで終わるし、戸締りもしないといけないから早く帰ってください」


そう言った美都に、

「いえ、待ちます」


律は言い返すと、カバンから文庫本を取り出した。


文庫本を読み始めたその姿に、彼に帰る気がないことを理解した。


(早いところ終わらせよう…)


美都は気づかれないように息を吐くと、パソコンの画面に向かってキーボードを動かした。


「美都さん」


律が名前を呼んできたけれど、美都はそれを無視した。


美都が自分に構ってくれないことを理解したのか、律は何もしようとしなかった。


ようやく仕事が片づいたのは、もう少しで9時になるところだった。


「――やっと、終わった…!」


美都は保存を済ませてパソコンの電源を切ると、うーんと両腕をあげて伸びをした。


「終わりましたか?」


その声で、律がそこにいたことを思い出した。


「ええ、終わりました。


魚住くん、もう帰っていいですよ。


私は戸締りをしてから帰りますので」


スマートフォンをカバンの中に入れて他に忘れ物がないかどうかの確認をしながら、美都は言った。


「美都さん」


律が名前を呼んだかと思ったら、顔を覗き込んできた。


(近い…)


美都は近過ぎるこの距離に嫌悪を感じていることに気づいた。


この距離感は成孔と何度も経験をしているはずなのに、律が目の前にいると思ったら嫌だと感じている。


これ以上ない嫌悪感に、美都は律から目をそらした。


「美都さん」


律の両手が頬に触れたかと思ったら、彼の方に向かされた。


彼に触れられたせいで、ゾクッ…と背筋が凍ったのがわかった。


「――や、やめて…!」


これ以上自分に触れて欲しくなくて、美都は頬をさわっている律の手を払った。


「どうして僕を見てくれないんですか?」


そう聞いてきた律に、

「――あなたは、嫌なの…」


美都は震える声で、その質問に答えた。


「成孔さん以外の男の人に近づいて欲しくないし、さわって欲しくない…」


美都がそう言ったら、

「彼氏の名前、“成孔さん”って言うんですね。


と言うか、本当に彼氏がいたんですね。


てっきり貝原さんのジョーダンかと思っていました」


律はやれやれと言った様子で息を吐いた。


「沙保ちゃんがジョーダンを言う訳ないじゃない」


親友を侮辱されたことに腹が立って言い返したら、

「でも、僕は言いましたよ」


律が言った。


「例え美都さんに彼氏がいても、僕はあきらめない…って。


必ず僕の方に振り向かせるって、そう言いました」


そう言った律に、

「嫌なものは嫌だからやめて。


と言うか、もう本当にあきらめてよ。


彼氏がいる相手に固執する理由がわからない」


美都は言い返した。


「美都さんは僕の理想の人なんです。


絶対にあきらめませんから、美都さんを必ず僕のものにしますから」


言い終えた律の手が頬に触れたかと思ったら、その顔が近づいてきた。


その手と顔から逃げようとした時にはすでに遅く、美都の唇は彼の唇と重なっていた。


何が起こったのか理解ができなかった。


重なった唇から感じたものは心地よさではなく、嫌悪だった。


背筋が凍って行くその感覚に、美都は吐き気を感じた。


「――やめて!」


ドン!


美都は力をこめて律を突き飛ばした。


「――ッ…」


律が驚いたと言うように自分を見ている。


(どうしよう…)


美都は律と重なってしまった自分の唇に指を当てた。


成孔以外の男とキスをしてしまった。


胃がムカムカとしていて気持ちが悪い。


胸の辺りに吐き気がこみあげてくるのが自分でもよくわかった。


唇に刻まれたその感触を洗い流したい衝動に美都は駆られた。


(成孔さん…)


彼に対しての罪悪感が胸にじわじわと広がってきて、美都は声をあげて泣きたくなった。


「――美都さん…」


呟くように名前を呼んだ律の声を無視すると、美都はカバンを手に持って逃げるようにオフィスを後にした。


苦しい…。


胸が苦しくて仕方がない…。


ビルを後にすると、

「――ッ、ううっ…」


美都は両手で隠すように顔をおおって、その場に泣き崩れた。


好きな男の人以外とキスをしてしまった。


「――成孔、さん…」


成孔にあわせる顔がなかった。


(私はどうすればいいんだろう…?)


このような状況になったのは初めてなので、どうすればいいのかわからない。


何が正解で、何が不正解なのかわからない。


今は成孔以外の男に触れられたうえにキスをされてしまったから、彼の顔を見たくないと言う気持ちだけが胸の中にあった。

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