第8話*新人には気をつけて
9月に入った。
まだまだ厳しい残暑が続いているが、美都は特に気にしていなかった。
その日もいつものように電車に乗ってカバンからスマートフォンを取り出すと、
「あっ、きてる」
成孔からメッセージがきていた。
『おはよう
まだまだ暑い日が続いてるね
夏バテしてない?
この季節は特に体調を崩しやすいから気をつけてね』
彼からのメッセージに美都はフフッと笑うと、いつものようにメッセージを作成した。
『おはようございます
夏バテしていないです、大丈夫です
成孔さんも体調を崩さないように気をつけてくださいね』
「送信、と…」
メッセージが画面に表示されたことを確認すると、美都はスマートフォンをカバンの中に入れた。
誕生日の夜に成孔と結ばれてから数日が経っていた。
駅を出て会社に向かっていたら、
「おはようございます」
高崎に声をかけられた。
「おはようございます、高崎さん」
美都はいつものようにあいさつを返した。
「美都さん、今日は新しく社員がくるそうですよ」
高崎さんが言った。
「この時期に新入社員ですか?」
美都は聞いた。
「ええ、いわゆる中途採用と言うものですね」
「どんな人がくるんですか?」
そう聞いた美都に、
「それは、会社についた時のお楽しみですよ。
今日の朝礼で紹介されますから」
高崎は微笑みながら答えたのだった。
(女の人かな?
でも、男の人って言う可能性もあるか)
どちらにせよわからないけれど、新入社員と仲良くなることができたらいいなと美都は思った。
「初めまして。
今日から働くことになりました、魚住律(ウオズミリツ)です。
よろしくお願いします」
彼を一言で言うならば“男”と言うよりも、“男の子”だなと美都は思った。
ココアブラウンの髪はさわってみたら、とても柔らかそうだ。
二重の切れ長の目に小さな鼻、少しだけ大きな唇は少しだけエキゾチックな感じがした。
身長は160センチと言ったところで、体型は華奢だ。
「なかなかよさそうな子ね」
コソッと沙保が美都に声をかけた。
「うん、そうだね」
それに対して美都は首を縦に振ってうなずいた。
朝礼が終わると、律は彼の指導を担当することになった先輩の元へと行った。
「さて、やろう」
美都は長い髪を左の方に寄せると、愛用しているバナナクリップで留めた。
「森坂さーん、ちょっといいー?」
「はーい、今行きまーす」
上司に呼ばれたので美都はデスクから離れた。
「資料室に行って取ってきて欲しいものがあるんだけど」
「はい、わかりました」
上司から資料が書かれている紙を受け取ると、美都は資料室へと足を向かわせた。
資料室に足を踏み入れると、
「あっ…」
そこにいたのは、律だった。
彼も資料を探しにここへ訪ねてきていたみたいだ。
「どうも」
律が会釈をしてきたので、
「お疲れ様です」
美都は会釈を返すと、資料探しを始めた。
「えーっと、この資料は…」
「あの、森坂さん…ですよね?」
資料探しをしている美都に、律が声をかけてきた。
「そうですけど、何か?」
美都は首を傾げた。
「松尾さんに3年前のファイルを持ってきて欲しいと言われたんですけれども、場所がよくわからなくて…」
松尾とは、彼の指導係である先輩の名前だ。
そう言った律に、
「ファイルはこっちの方だよ」
美都はファイルが並んでいる棚へと彼を案内した。
「この棚にファイルが並んでるから」
「ありがとうございます。
あっ、あった!」
嬉しそうにファイルを取り出した律の様子に美都は満足した後、自分の仕事に取りかかった。
「じゃあ、先に戻ってますね」
「はーい、わかりましたー」
資料室を後にした律を見送ると、美都はプリントに書かれてあるいくつかの資料を手に取った。
「えーっと、これで全部かな」
手元にある資料とプリントを確認すると、美都も資料室を後にしたのだった。
昼休みになった。
2階のファミリーマートで昼ご飯を買った美都と沙保は休憩所で食べていた。
「美都、魚住くんと話したの?」
親子丼弁当を食べながら沙保が話しかけてきた。
「うん、資料室で会ったから少しだけね」
美都はカップパスタを食べながら返事をした。
「どんな感じだった?」
そう聞いてきた沙保に、
「ど、どんな感じって何が?」
美都は訳がわからなくて聞き返した。
「例えば、いい子だったとか」
「そうだね、少なくとも悪い子じゃなかったよ。
愛想もよかったし」
「ふーん、そうなんだ」
沙保は返事をすると、スプーンで親子丼をすくうと口に入れた。
「魚住くん、かわいい系の顔立ちをしてるよね」
「うん、そうだね」
美都は首を縦に振ってうなずくと、エビカツサンドをかじった。
「ところでさ」
沙保は思い出したと言うように話を切り出すと、
「いつになったら、その“成孔さん”と言う人を私に紹介してくれるのかな?」
ピシッとスプーンで美都を指差した。
「えっ、見たいの?」
そう聞いてきた美都に、
「見たい」
沙保は首を縦に振ってうなずいた。
「沙保ちゃんには玉村さんがいるじゃないの」
美都は言った。
沙保は先月から成孔の会社の社員である玉村と交際するようになったのだ。
「でもどんな人か見てみたいの。
お父さんかお兄ちゃんみたいな人と結婚したいが口癖だった美都を口説き落とした“成孔さん”と言う人が見てみたいの」
「く、口説き落としたって…」
ズイッと顔を近づけてきた沙保に、美都は苦笑いをすることしかできなかった。
「すみませーん、お昼ご飯をご一緒してもいいですかー?」
そこへ現れたのは律だった。
「沙保ちゃん、いいよね?」
「どうぞ」
美都と沙保が返事をしたことを確認すると、律は椅子に腰を下ろした。
律はハンカチに包まれた弁当箱をテーブルのうえに置くと、それを広げた。
「あら、彼女の手作り?」
弁当を見て聞いてきた沙保に、
「いえ、自分で作りました」
と、律は答えた。
「魚住くんは1人暮らしをしているの?」
続けて聞いてきた沙保に、
「はい、大学進学を機に1人暮らしを始めたので基本は自炊をしています。
外食だとお金がかかっちゃいますし、栄養も偏っちゃうので」
律は苦笑いをしながら答えると、たまご焼きを口に入れた。
美都は律の弁当に視線を向けた。
鶏そぼろが乗った白いご飯にたまご焼き、鮭の塩焼き、煮豆、小松菜のおひたしと色鮮やかな弁当だった。
「でも本当は彼女に作ってもらいたいなー、なんて」
律はそう言うと、フフッと笑った。
「森坂さん、僕のためにお弁当を作ってくれませんか?」
「…へっ?」
何故か自分に話を振ってきた彼に、美都は訳がわからなかった。
「えっ、何で美都なの?」
沙保も訳がわからないようで、美都と律の顔を交互に見つめた。
「だって、森坂さんは僕の理想とドンピシャなんです」
そう答えた律に、美都の手からエビカツサンドが落ちそうになった。
「黒髪でかわいい顔の美人が僕の理想なんです」
嬉しそうに言った律に、
「確かに…」
と、沙保が小さな声で呟いた。
「それに、“ミツ”と“リツ”ってよく似てる名前だと思いませんか?
もう運命じゃないですか!」
律はパンと手をたたいた。
(いや、似てると言われましても…)
それは偶然と言うものではないかと、美都はツッコミを入れたくなった。
「あー、でもさダメだから」
沙保は言った。
「えっ、どうしてですか?」
訳がわからないと言うように聞き返した律に、
「この子ね、最近彼氏ができたから」
と、沙保は答えた。
「さ、沙保ちゃん…!」
天の助けだと、美都は親友に心の底から感謝した。
「そうなんですか?」
確認するように聞いてきた律に、
「そうですよ」
美都は首を縦に振ってうなずいた。
自分に彼氏がいると言うことがわかったら、さすがに手を出さないだろう。
「へえ、なるほどねえ…。
でも、最近つきあい始めたんですよね?」
律はニヤリと笑った。
「えっ、ええ…」
その笑みに美都は背中がゾクッとなったのを感じた。
人の笑顔を見て寒気を感じたのは、今回が初めてだった。
「じゃあ、うっかり魔が差したなんて言うことがあるかも知れませんね」
「は、はい?」
何を言われたのか、美都は全くわからなかった。
「じゃあ、僕にもまだ脈があるって言うことですね♪」
「みゃ、脈…?
あの、魚住くん…?」
彼は一体何が言いたいのだろうか?
そう思っていたら、
「僕、その彼氏から森坂さんを奪いますから」
自信を持って、律が宣言した。
「ちょっ…ちょっと、何をバカなことを言ってるの!?」
あまりの宣言に絶句している美都の代弁をするように、沙保が言った。
「森坂さん」
そんな沙保を無視すると、律は美都に顔を近づけた。
(あっ、肌がキレイだ…)
きめ細やかな彼の肌に、美都はどんな手入れをしているのだろうかと思った。
「森坂さんのこと、“美都さん”って呼んでもいいですか?」
「べ、別にいいですけど…」
そう答えた美都に、沙保は情けないと言うように額に手を当てた。
「じゃあ、そう呼びます。
よろしくお願いしますね♪」
律は近づけていた顔を離れると、フンフンと鼻歌を歌いながら弁当を食べ始めた。
「ちょっ…ちょっと、美都!」
沙保はグイッと美都の腕を引っ張って立たせると、早足で休憩所から連行した。
オフィスを後にすると、
「あんた、何をやってんのよ!?」
沙保は呆れたと言うように美都に怒鳴った。
「な、何が?」
沙保の剣幕に美都は聞き返した。
顔立ちが端正な分、迫力はものすごかった。
「ちょっとは嫌がりなさいよ!
しかも、彼氏がいるくせに何をやってんのよ!?」
「沙保ちゃん、怖いよ…」
鬼も泣いて逃げ出しそうな剣幕に美都はガタガタと震えた。
「あのヤロー、絶対に許さないわ…」
そう呟くと、沙保はどうしたもんじゃろかと言うように腕を組んだ。
「美都、間違っても魚住には近づいちゃダメよ。
私もなるべく美都を1人にしないようにするから」
「う、うん…」
「それから由真ちゃんにも高崎さんにも美都を1人にさせないようにと、お願いしなきゃ」
沙保はブツブツと口の中で呟いていた。
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