第7話*誕生日の夜に

自分の気持ちを伝える――そう宣言をしたのはいいが、簡単に行動に移すことができなかった。


毎朝の定番と化してきた成孔からのメッセージを返信するために、美都はカバンからスマートフォンを取り出した。


『返事はいつでも構いませんので、もしよろしかったら話をしませんか?』


指で画面をタップして本文を作った…のはいいが、美都は首を横に振った。


(ダメだ、できない!)


美都は本文を削除した。


『おはようございます


今日も朝から暑いですね』


そう書くと、成孔に向けてメッセージを送信した。


美都は胸にスマートフォンを抱えると、息を吐いた。


「無理だ…。


恥ずかし過ぎて無理だ…」


美都は自虐的に呟くと、熱が出たと言うように額に手を当てた。


結果がわかっているとは言え、いざ前に進もうと思ったら勇気が出てこなかった。


(成孔さんのストレートな性格がうらやましい…)


勇気のない自分に美都は泣きたくなった。


最寄り駅から会社へと向かっていたら、

「おはようございます、美都さん」


高崎に声をかけられた。


「おはようございます、高崎さん」


美都はあいさつを返した。


「ずいぶんと浮かない顔をしているみたいですけど、何かありましたか?」


そう聞いてきた高崎に、

「あー、はい…」


美都は自分の頬に手を当てた。


彼に指摘されるくらい、自分は相当なまでに悩んでいたみたいだ。


「よろしかったら相談に乗りますよ」


微笑みながらそう言った高崎に、

「…相談できることなのかどうかはよくわからないんですけど」


美都は話を切り出せばいいのかどうか迷った。


「結果がわかっているのに、それに対して自信を持つことができないなって…」


呟くように打ち明けた美都に、

「結果ですか?」


高崎は聞き返した。


「もちろん、いい結果ですよ」


美都はすぐに答えた。


「いい結果が出ているならば大丈夫ですよ。


自信を持って、ちゃんと向きあえば心配はありません」


高崎は励ますように美都に言った。


「向きあえば、ですか…」


「ええ、美都さんは魅力的な人ですから相手もちゃんと答えてくれますよ」


さすが上司だと、美都は思った。


部下のことをよく見ているうえに理解しているなと、美都は高崎を尊敬した。


「ありがとうございました」


美都は高崎にお礼を言った。


「高崎さんのおかげで自信がつきました」


笑顔で答えた美都に、高崎は満足そうに首を縦に振ってうなずいた。


その日の夜。


美都が風呂からあがって自室に入った時、スマートフォンの画面がチカチカと点滅していることに気づいた。


画面をタップして確認をすると、成孔から電話の着信があった。


成孔に電話をかけると、

「もしもし?」


彼はすぐに電話に出た。


「美都です、こんばんは」


そう言った美都に、

「こんばんは」


成孔は言った。


「何か用事ですか?」


そう聞いた美都に、

「オランジェットありがとう、とても美味しかったよ」


成孔が答えた。


「そうですか、ありがとうございます」


手作りのオランジェットを褒めてくれたことが嬉しくて、美都はお礼を言った。


「それでオランジェットのお礼がしたいんだけど…」


そう言った成孔に、

「えっ、お礼ですか?」


美都は驚いて聞き返した。


「うん、お礼がしたい」


成孔が言い返した。


「お、お礼って…あれは、夏祭りにつきあってくれた私のほんの気持ちなので、お礼は…」


「ダメかな?」


美都をさえぎるように、成孔が言った。


「…ダメではないですけど」


そんなことを言われてしまったら、どうすることもできない。


成孔と話をするたびに、成孔の声を聞くたびに、心臓がドキドキと脈を打っている。


(聞かれていないよね…?)


美都はギュッと、スマートフォンを握りしめた。


「8月27日なんだけど」


成孔が言った。


「8月27日、ですか?」


その日を言われた美都は驚いた。


何故なら、その日は美都の誕生日だからだ。


「その日、空いてるかな?」


成孔が聞いた。


まさか、その日が自分の誕生日だと言うことを成孔は知っているんじゃないだろうか?


そんなことを思った美都だったが、彼に誕生日を教えたことがないことをすぐに思い出した。


「…空いてます」


呟くように答えた美都に、

「よかった、嬉しいよ」


成孔が言った。


嬉しそうに笑っている彼の顔が頭の中に浮かんだことに、美都は驚いた。


(もはや、重症かも知れない…)


好きな人の顔が頭の中で映像のように出てきたことに、美都は額に手を当てた。


「その日、美都を迎えに行くようにって雑賀ちゃんに頼んでおくから」


「えっ?」


何故だか雑賀の名前が出てきたことに驚いて、美都は聞き返した。


「さ、雑賀さんに頼むんですか!?」


彼女の登場に美都は驚くことしかできない。


「本当は俺が迎えに行きたいんだけど、その前にどうしても外せない用事があるんだ。


だから雑賀ちゃんにお願いしておくから」


「は、はあ…」


自分の秘書とは言え、そこまでするものなのかと美都はツッコミを入れたくなった。


「じゃあ、待ってるから」


「あ、はい…わかりました…」


電話が切れたことを確認すると、美都はスマートフォンを耳から離した。


「雑賀さんと何を話せばいいんだ…」


美都は両手で頭を抱えた。


キレイな彼女を相手に、自分はどう対応すればいいのだろうか?


「あっ、どこに行くか聞いていない…」


成孔が誕生日のその日に何をするのか聞いていなかったことを美都は思い出した。


「ま、いっか…。


当日までのお楽しみだと思うことにしよう…」


美都は自分にそう言い聞かせると、スマートフォンを充電した。


 *


誕生日当日を迎えた。


「それじゃ、お先に失礼しまーす」


「お疲れ様でーす」


無事に仕事を終えると、美都はオフィスを後にした。


オフィスを出ると、

「森坂美都さん」


名前を呼ばれて振り返ると、赤い眼鏡をかけた女性がいた。


「さ、雑賀さん…」


恐る恐ると言うように名前を呼んだ美都に、彼女はペコリと頭を下げた。


彼女はカツカツとヒール音を立てながら美都の前に歩み寄ると、

「有栖川の秘書の雑賀真生と申します」


そう自己紹介をした後でシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出すと、そこから取り出して美都に差し出した。


「あ、ありがとうございます…」


控えめだがキレイなネイルが施されている彼女の手から名刺を受け取った美都はお礼を言った。


「えっ?」


美都は驚いた。


「どうかされましたか?」


そう聞いてきた彼女に、

「雑賀って、名字なんですか…?


私、てっきり名前の方かと思って…」


美都は言った。


「…聞きなれない名字ですから、そう言われてもそれは仕方がありませんね」


真生はやれやれと言うように息を吐くと、眼鏡をずりあげた。


(有栖川は彼女のどこを好きになったと言うのかしら…?)


確かに容姿は人形のように愛らしくて整っていて、体型は小柄で華奢だ。


真っ直ぐに伸びたストレートの黒髪は同性の視点から見たらとてもうらやましいくらいだ。


(だけども、性格の癖がとてもすごい…)


成孔から彼女の家庭事情を多少聞いたと言えば聞いたのだが、思った以上の性格のすごさに真生は戸惑うことしかできなかった。


「あの…」


美都に声をかけられて、真生はハッと我に返った。


「では、参りましょうか」


一瞬でも彼女のペースに飲み込まれそうになったことを反省しながら、真生は歩き出した。


美都はそんな真生の背中を追った。


(一体、私をどこへ連れて行くつもりなんだろう?)


真生に話しかけたいところだが、声をかけるなと言うオーラが彼女から出ているような気がして仕方がなかった。


彼女の後を追うようにビルを後にすると、その前に1台の車が止まっていた。


「どうぞ」


真生が車のドアを開けて、美都に乗るようにとうながしてきた。


「…ありがとうございます」


美都はお礼を言うと、車に乗った。


自分が乗ったことを確認すると、その後で真生も乗ってきた。


「では、出発してください」


真生が運転手に向かってそう言ったら、車が発車した。


一体、どこへと向かっているのだろうか…?


美都は窓の外の移り変わる景色に視線を向けた。


「あまりしゃべらないんですね」


真生が話しかけてきたので、美都は彼女に視線を向けた。


「えっと…」


いきなり話しかけられた美都は何を返事すればいいのかよくわからなかった。


「別に緊張なさらなくても、ちゃんと有栖川の元へ届けますから大丈夫ですよ。


その前に寄り道するところはありますが」


「は、はあ…」


(寄り道って、本当に私はどこへ連れて行かれるんだ!?)


真生の返事に美都は戸惑うことしかできなかった。


そう思っていたら、車が停車した。


「降りますよ」


真生に声をかけられて、美都は彼女と一緒に車を降りた。


「えっ…?」


目の前の店を見た美都は訳がわからなかった。


(ここって、セレクトショップだよね…?)


寄り道とはここを指差しているのだろうかと、美都は疑問に思った。


「入りますよ」


真生にうながされて、美都は目の前のセレクトショップへと入ることになった。


「いらっしゃいませ」


店内に入ると、店員にあいさつをされた。


真生は店員に歩み寄ると、

「有栖川です、彼女に例のものを」

と、言った。


(れ、“例のもの”って何のことを言ってるの?)


美都はますます訳がわからなくなってしまった。


「はい、かしこまりました。


それでは、どうぞこちらへ」


店員は笑顔で恭しく頭を下げると、美都に奥の方へ行くようにと言ってきた。


美都はそれに従うように、店員と一緒に奥の方へと足を進めた。


「あの…何があるんですか?」


美都は店員に声をかけた。


「有栖川様があなたにどうしても着せたいドレスがあると言うことなので」


そう答えた店員に、

「ど、ドレスですか?」


美都は驚いて聞き返した。


「洋服じゃダメなんですか?」


続けて聞き返したら、

「特にダメと言う訳ではありませんが、周囲への配慮もありますからねえ」


店員は苦笑いをしながら答えた。


「は、配慮ですか…」


本当に彼は自分をどこへ連れて行くつもりなんだと、美都は不安になった。


「それに、有栖川様曰く“このドレスは彼女によく似合いそうだから、ぜひとも着て欲しい”と」


「そうですか…」


実際に見た訳じゃないので、店員にどう返事をすればいいのかよくわからなかった。


「どうぞ、お入りください」


試着室のカーテンを開けて店員が入るようにとうながしてきた。


美都は靴を脱ぐと、試着室に足を踏み入れた。


「わっ…!」


目の前にかけれらていたドレスに美都は声をあげた。


スカイブルーのミディアム丈のフォーマルドレスだった。


Aラインのフレアスカートにお腹の辺りにリボンがついているのがとてもかわいらしかった。


「これ、本当に私が着るんだ…」


成孔が自分に似合うと言うことで選んでくれたそうなのだが、恐れ多いなと美都は思った。


「キレイ過ぎるんですけど…」


美都はそう呟いてドレスを手に取ると、自分の躰に当てた。


驚いたことに、サイズがピッタリだった。


(どこで知ったんだろう…?)


彼には自分のスリーサイズはおろか、身長も体重も教えていないはずだ。


美都は着ていた服を脱ぐと、ドレスを身につけた。


(ドレスを着たこと自体が初めて過ぎてどうやってリアクションをすればいいのかよくわからないや…)


そう思いながら試着室のカーテンを開けると、

「とてもお似合いですよ」


店員が笑顔で声をかけてきた。


「あ、ありがとうございます…」


美都は呟くようにお礼を言うことしかできなかった。


「そちらのドレスはこちらの靴にあいますので」


店員はそう言って、美都にスカイブルーのパンプスを履くようにと勧めてきた。


美都は仕方がないと言った様子でドレスと同じ色をしたパンプスを履いた。


「お待たせしました」


店員と一緒に真生の元へ戻ると、

「こ、これは…!?」


美都の姿に、真生は驚いたと言うように眼鏡越しの目を大きく見開いた。


「へ、変ですか…?」


真生の様子に、美都は呟くように聞いた。


「いえ、とてもよくお似合いです」


真生はすぐに美都の質問に答えた。


(有栖川、どんだけセンスがあるんだ…)


予想以上に似合い過ぎている美都のドレス姿に見とれてしまったなんて、とてもじゃないけど言えないと真生は思った。


「髪型ですけど、どうしましょうか?」


店員が真生に聞いた。


「そうですね、ハーフアップの方がバランス的にはいいんじゃないかと思います」


そう答えた真生に、

「では、早速」


店員は美都に椅子に座るようにとうながしてきた。


椅子に腰を下ろした瞬間、それまで留めていたバナナクリップを外された。


サイドで留めていた髪はハーフアップになっていた。


「行きましょうか」


真生に声をかけられて、美都は椅子から腰をあげた。


店を後にして車に乗ると、

「今度は有栖川の元へ送り届けますから」


真生が声をかけてきた。


「ありがとうございます…」


美都はお礼を言うと、窓の外に視線を向けた。


窓に映っている自分の姿に驚いたが、それは一瞬のことだった。


(成孔さん、似合うって言ってくれるかな?)


誕生日にドレスアップして彼の元へと向かっていることに、自分の中が期待でいっぱいなことに気づいた。


「到着しましたよ」


真生に声をかけられて車を降りると、ホテルのエントランスだった。


(ここって、『エンペラーホテル』だよね?)


高級ホテルとしてテレビや雑誌で紹介された有名なその場所に美都は戸惑った。


「中で有栖川がお待ちです」


美都の後で車を降りた真生が声をかけてきた。


「は、はい…」


美都は返事をすると、ホテルの中に向かって足を踏み出した。


まさか、高級ホテルに足を踏み入れる日がくるとは夢にも思っていなかった…。


自動ドアをくぐって中に入ると、黒いスーツに包まれた成孔がいた。


(あっ、眼鏡をかけていない…)


いつもはしているはずの眼鏡がないことに美都は気づいた。


スーツ姿のうえに眼鏡をかけていない彼の姿はとても新鮮で、別の人かと思ってしまった。


成孔はフッと微笑むと、美都に歩み寄った。


「雑賀ちゃん、送ってくれてありがとう。


今日はもう帰っていいから」


「はい、ではお先に失礼します」


真生はペコリと頭を下げると、自分の役目は終えたと言わんばかりにその場から立ち去った。


その後ろ姿を見送ると、

「俺の予想通りだった」


成孔が言った。


「えっ?」


美都が成孔の方に視線を向けると、

「美都に似合うと思ってそのドレスを選んだんだけど、予想以上に似合ってる」


成孔がフフッと笑った。


彼に褒められて、美都の心臓がドキッ…と鳴った。


(重症だ…)


それほどまで、自分は成孔に恋をしているのだと思った。


「な、成孔さんもよく似合っています…。


眼鏡もかけていなくて…一瞬、誰なのかと思ってしまいました」


美都は言った。


「えっ、そう?


それは嬉しいな」


成孔は笑いながら言った後で、美都に手を差し出した。


「行こうか?」


そう言った成孔に、

「はい」


美都は返事をすると、自分の手を彼の手のうえに重ねた。


成孔と一緒にエレベーターに乗ると、最上階のレストランへと向かった。


夜景がよく見える窓側のテーブル席に腰を下ろすと、美都は周りを見回した。


店員の言う通り、客のほとんどはドレスやスーツで着飾って食事をしていると言う人の方が多かった。


「美都はお酒飲める?」


そう聞いてきた成孔に、

「はい、飲めます」


美都は答えた。


「シャンパンを頼んでもいい?」


「どうぞ」


美都が返事をしたことを確認すると、成孔はウエイターにシャンパンを頼んだ。


ウエイターがその場から立ち去ったことを確認すると、

「美都と一緒に今日を過ごすことができて、とても嬉しいよ」


成孔が言った。


「えっ?」


彼の言った意味がわからなくて、美都は聞き返した。


「私と一緒にって…この間も、その前も一緒に過ごしたんじゃないかと思いますけれど…」


美都がそう言い返したら、

「俺は今日が1番嬉しいんだ。


好きな女の子と一緒に誕生日を過ごしてるから」


成孔が言った。


「た、誕生日なんですか!?」


美都は驚いて聞き返した。


「うん、誕生日なんだ」


成孔は首を縦に振ってうなずいた。


「そ、そうならそうと言ってくれれば、何かプレゼントを用意しましたのに…」


美都が呟くように言ったら、

「俺は美都と一緒に過ごすことが1番の誕生日プレゼントだと思ってるから」


その呟きが聞こえたと言うように、成孔が言い返した。


今日が成孔の誕生日だと知ったことに驚いたが、彼と誕生日が一緒だと言うことが嬉しかった。


「私もです」


美都は言った。


「私も、今日が誕生日なんです」


そう言った美都に、

「えっ、そうなの?


言ってくれればプレゼントを用意したのに…」


成孔は信じられないと言った様子だ。


「先ほどの私と同じことを言ってますよ」


美都はクスクスと笑いながら言った。


「でも、そう言うのは言って欲しかったよ」


成孔は仕方がないと言うように息を吐くと、

「来年の誕生日は用意するからね」

と、言った。


「お待たせしました」


ウエイターがシャンパンを持ってやってきた。


テーブルのうえに並んだグラスに薄い金色の液体が注がれた。


「それじゃあ」


成孔と美都はシャンパンが入ったグラスを手に持つと、

「お互いの誕生日を祝って、乾杯」


そう言って、カチンと美都と一緒にグラスをあわせた。


コース順に運ばれてきた料理はどれも美味しかった。


会社の人たちとは飲みに行くことはあるけれど、こうして男と2人で食事をしたのは初めてだ。


「嬉しかった」


デザートのブルーベリーソースがかかったパンナコッタを食べていたら、成孔が言った。


「えっ?」


美都が聞き返したら、

「好きな女の子と誕生日を一緒に過ごせることも嬉しいけど、その女の子と誕生日が一緒だったと言うことも嬉しかった」


成孔が答えた。


(私もです、成孔さん)


心臓がドキッと鳴ったのを感じながら、美都は心の中で呟いた。


食事を終えてレストランを後にすると、

「今日はありがとう」


エレベーターを待っている間、成孔にお礼を言われた。


美都は微笑むと、

「私もありがとうございました。


素敵な誕生日になりました」

と、成孔にお礼を言った。


きたばかりのエレベーターに一緒に乗ると、成孔は1階のボタンを押した。


(このままで終わる、訳ないよね?)


頭のうえに表示されている階数を見ながら、美都は心の中で呟いた。


成孔の好みでドレスアップをして、高級ホテルで食事をしたこの時間は、まるで夢のようだった。


好きな人と一緒に誕生日を過ごしたことはもちろんのこと、好きな人と誕生日が一緒だったことも嬉しかった。


(酔いに任せて…と言えば、成孔さんは許してくれるかな?)


美都は成孔の腕に向かって、自分の手を伸ばした。


「美都?」


成孔が自分の名前を呼んだ瞬間、美都は彼を自分の方に向かせた。


「――ッ…」


チーンと、エレベーターが1階に止まったことを告げたのと同時に、美都はすぐに重ねていた唇を離した。


エレベーターのドアが開いた。


(――や、やってしまった…)


自分から成孔にキスをしたいと思った。


チラリと横目で彼に視線を向けると、何が起こったのかわからないと言う顔をしていた。


そこから目をそらすように、美都は先にエレベーターを降りた。


その後で思い出したと言うように、成孔が後を追うようにエレベーターを降りたのだった。


ちゃんと歩いているだろうか?


不自然な動きになっていないだろうか?


今の自分の顔は、赤いかも知れない。


ホテルを出ると、

「美都」


成孔に声をかけられた。


それに答えるように、美都は彼に視線を向けた。


「さっき…」


「――好きなんです!」


成孔の言葉をさえぎるように、美都は言った。


「成孔さんのことが好きなんです…。


好きだから、あなたにキスをしたくなったと言うか…」


酔いに任せると言うのは難しいことなんだと、美都は理解した。


「ああ、そうなんだ」


成孔が返事をしたかと思ったら、美都は彼の腕の中にいた。


甘いお菓子のようなあの香りが美都の躰を包み込んだ。


「えっ、あの…?」


「嬉しい」


戸惑っている美都に、成孔が言った。


「美都が俺を好きになってくれて、とても嬉しい。


もしかしたら、俺は世界で1番の幸せ者かも知れない」


「…それは言い過ぎかと」


そう呟いた美都の顔を成孔は覗き込むと、

「本当にそう思ってる」

と、顔を近づけてきた。


「――ッ…」


一瞬だけ唇が触れて、すぐに離れた。


「どうしよう、今すぐにでも美都を俺のものにしたいかも」


「も、ものって…!?」


そう言った成孔の言葉の意味は、恋愛に疎い自分もすぐに理解した。


(いわゆる、“そう言うこと”をするんですよね!?)


顔立ちと身長から幼く見えるのは仕方がないが、頭は年相応だと自分では思っている。


「ジョーダンだよ」


顔を真っ赤にして慌てている美都に向かって成孔は笑いながら言った。


「“今”は我慢するけれど、“そのうち”に美都を本当に俺のものにするから」


成孔はそう言って、美都の頬にチュッ…とキスをした。


「そ、そのうちですか…!?」


真っ赤な顔で聞き返した美都に、

「“そのうち”に、ね」


成孔はフフッと笑いながら答えたのだった。


やっぱり、彼の前だと自分の思うように行かないんだと心の底から美都は思った。

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