第6話*天然悪女の憂鬱

体調を崩していると言う訳ではない。


やる気がないと言う訳ではない。


(私、どうしちゃったんだろう…?)


いつものように会社に出勤して自分のデスクに座っているものの、どう言う訳なのか仕事に取りかかることができなかった。


「森坂さん、大丈夫ですかね?」


由真がコソッと声をひそめると、心配そうに沙保に声をかけた。


「…うーん、大丈夫なのかどうかと聞かれたら大丈夫じゃないかも知れないわね」


ぼんやりとしている美都の様子に、沙保はやれやれと言うように息を吐いた。


七夕祭りのお礼として成孔にオランジェットを渡して数日が経ったものの、美都の胸の中はモヤモヤとしていた。


頭の中に浮かんでいるのは、成孔の秘書だと言う雑賀の存在だ。


(成孔さんの隣は私よりもあの人の方がふさわしいのかも知れない…)


自分とは違い過ぎる彼女に、美都は息を吐いた。


昼休みになった。


美都はいちご牛乳を飲みながら、隣で牛カルビ弁当を食べている沙保の横顔を見つめていた。


「さっきからどうしたの?


私の顔に何かついてるの?」


自分を見つめているその視線に耐えることができないと言うように、沙保は美都に話しかけた。


「…別に、沙保ちゃんは大人っぽいなって思っただけ」


美都はそう答えると、チョコクロワッサンをかじった。


「…よくわからないんだけど」


モソモソとチョコクロワッサンを頬張っている美都に、沙保は訳がわからないと言う顔をした。


「数日前からどうしたの?


ただでさえぼんやりとしてるその顔をさらにぼんやりとさせて何があったの?」


沙保は美都の顔の前で、ヒラヒラと自分の手を動かした。


「どうもしないよ、沙保ちゃんに比べて私は子供だなって思っただけ」


そう言い返した美都に、

「子供と言うのは言い過ぎだけど、少なくとも幼く見えるかもね。


美都とつきあってもう5年くらいになるけど、年齢をとってない感があるわ」


沙保はやれやれと言うように息を吐いた。


「沙保ちゃんや成孔さんみたいにピアスでもつけたら大人っぽくなれるのかな?」


「はい?」


何故かそんなことを言った美都に、沙保は某特命係よろしくと言うように聞き返した。


「ピアスって、ちょっと何を言ってるのかよくわからないんだけど…」


頭痛がすると言うように、沙保は人差し指でこめかみを押さえた。


沙保の耳には、ハートの形をしたピンクローズのピアスが輝いていた。


父と兄が躰に穴を開けることを嫌がるため、ピアスをつけることを許されていないのだ。


「んっ?」


沙保は何かに気づいた様子だった。


「そう言えば、私と一緒に名前をあげた“成孔さん”って誰なの?」


沙保が聞いた。


その瞬間、美都の心臓がドキッ…と鳴った。


(沙保ちゃんの口から言っただけなのに…)


彼の名前を耳にしただけでもドキッと鳴った心臓に、美都はどうすることもできなかった。


「お兄ちゃんの大学時代の後輩の人」


「それって、七夕祭りで一緒に行くことになったって言う例の人?」


思い出したと言うように言った沙保に、

「そう、その人」


美都は首を縦に振ってうなずいた。


「このビルの中にあるIT関連会社のCEOをしているんだって」


そう言った美都に、

「あら、玉村さんが勤めてる会社の人なんだ」


沙保は納得したと言うように言った。


「どんな人なの?」


そう聞いてきた沙保に、

「ピアスしてる人」


美都は答えた。


「いや、そう言うことを聞いてるんじゃなくて…」


沙保は呆れたと言うように言い返した。


「成孔さんの前にいると、自分がよくわからないの」


そう言った美都に沙保は首を傾げた。


「私が私じゃないって言った方がいいのかな?


気がついたら、いつも成孔さんのペースに巻き込まれてる」


「そうなんだ」


「だけど、成孔さんの隣にはキレイな人がいるの」


そう言った美都に、

「何それ?


もしかして、彼女持ちってヤツなの?」


沙保は信じられないと言った様子で聞き返した。


「そうじゃないよ、そのキレイな人は秘書だって成孔さんは言ってた」


「ああ、そうなの…」


すぐに答えた美都に、沙保は返事をした。


「その人と勝負をしたって言う訳じゃないんだけど、負けたって思った」


そう言った美都に、

「負けた?」


沙保は訳がわからないと言うように聞き返した。


「私は成孔さんの隣にいるべき人じゃないって思った。


成孔さんには、彼女のようなキレイな人が似合うんだろうなって思った」


美都は息を吐くと、いちご牛乳をすすった。


「気持ちは伝えたの?」


そう聞いてきた沙保に、

「気持ち?」


美都は聞き返した。


「その…あれだ、成孔さんって言う人に“好き”だって伝えたのか、って」


沙保の質問に美都は首を横に振って答えると、

「成孔さんには言われてる。


キスされるたびに私のことを“好きだ”とか“かわいい”とか“俺のものにしたい”とかって、いつも言われてる」

と、答えた。


「なっ…!?」


それがどうしたとでとも言うように答えた美都に、沙保は絶句した。


「ず、ずいぶんと積極的に攻められているのね…。


しかも包み隠さず、ストレートに愛の告白をするうえにキスまでって…」


沙保は暑い暑いと言わんばかりに手で自分の顔をあおいだ。


「そ、それだけ愛されているならば、特に心配することなんてないんじゃない…?


と言うか、これと言って心配する要素が特に見当たらないんですけど…」


(聞いた私が恥ずかしい思いをするって何なの?


それを平気で答えちゃった美都はバカなの?)


沙保は両手で隠すようにして顔をおおった。


「心配とかじゃなくて…」


美都はそう話を切り出すと、

「私は、自分がどうしたいのかよくわからないの」

と、言った。


沙保は隠していた両手を外すと、美都を見つめた。


「成孔さんのことを思い出すとどうしようもできないの。


名前を呼ばれると心臓がドキドキして、“かわいい”とか“好き”って言われたら何を言い返せばいいのかわからない。


成孔さんの前に立ったら…何だか、自分が自分でなくなっちゃうような気がして…。


もう、とにかく私はどうしたいのかよくわからないの」


そう言った美都はもどかしいと言う顔をしていた。


「お父さんの前でもお兄ちゃんの前でも高崎さんの前でもこんなことにならないのに…」


美都は苦しそうに呟くと、目を伏せた。


(ああ、なるほど)


その様子に沙保は納得して首を縦に振った。


(間違いない、美都は…)


「成孔さんに恋をしてるのね」


そう言った沙保に、美都は驚いたと言うように伏せていた目をあげた。


「えっ…?」


言っている意味がわからなくて呟いた美都に、

「だーかーら、美都は成孔さんに恋をしているのよ!」


沙保がもう1度言った。


「沙保ちゃん、声が大きいよ…」


「大きな声で言わなきゃ理解しようとしないでしょうが!」


幸いにもここにいるのは自分たちだけのうえに、オフィスには誰もいないからよかったものである。


「彼のことを思い出すと仕事にも手がつけられなくて、名前を呼ばれたら心臓がドキドキして、彼の前に立ったら立ったら自分がよくわからなくなる――その症状は間違いなく、恋よ!


美都は彼に恋をしている、そう言うことよ!」


沙保は宣言するように言うと、ビシッと美都の前に人差し指を突きつけた。


「こ、恋って…」


突きつけられるように言われた美都はどうすればいいのかわからなかった。


「そのうえ、美都は秘書の女性に嫉妬している――うん、もうこれは恋以外の何ものでもないわ。


恋をしているから悩んで、心臓がドキドキして、嫉妬している――もう恋しかないわよ」


沙保はうんうんと首を縦に振って、自分が言ったことに納得をしていた。


「じゃあ、私はどうすればいいの?」


美都は言った。


「成孔さんに恋をしているなら、私はどうしたらいいの?」


初めての恋とその感情に戸惑っているのがよくわかった。


父と兄以外の異性に興味どころか関心すらも持たなかったため、どうすればいいのかよくわからないだろう。


「彼の方から積極的に攻めてきてる訳なんでしょ?


“好き”とか“かわいい”とか“俺のものにしたい”とかって、いろいろとアプローチされている訳なんでしょ?」


そう聞いてきた沙保に、美都は首を縦に振ってうなずいた。


「それに対して美都は何て答えてるの?」


「…えっ?」


目を点にして聞き返してきた美都に、

「…まさかとは思うけど、何にも答えていないの?」


沙保が呆れた様子で言った。


「だ、だって、本心で言ってるのかジョーダンで言ってるのかよくわからなくて…」


「本心に決まってるでしょうが!」


怒鳴るように返してきた沙保に、美都は後ろへ引っくり返りそうになった。


「と言うか、あんたがそこまで鈍感だったとは思ってもみなかったわ…」


沙保は頭が痛いと言うように両手で頭を抱えた。


「ほ、本心…」


美都は固まっていた。


そんな彼女に向かって、

「伝えなさい」


沙保は言った。


「えっ?」


意味がよくわからなくて聞き返した美都に、

「自分の気持ちを彼に伝えなさい、って言う意味よ」


沙保は言い返した。


「えっ、えーっ!?」


美都は両手を頬に当ててオロオロとしていた。


「わ、私の気持ちを伝えるって…!?」


(それは無理だよ、沙保ちゃん!)


パニックになっている美都に、

「大丈夫よ」


沙保は声をかけた。


「な、何が?」


何の意味を持って“大丈夫”と言っている沙保に、美都は聞き返した。


「彼は相当なまでに美都にほれているわ。


それはもう、聞いたこっちが恥ずかしくなるくらいに。


だから、大丈夫よ。


この様子だと両思いだし、間違いなく彼は美都の気持ちを受け入れてくれるわ」


沙保はフンと自信があると言った様子で鼻息を吐いた。


(すごい自信だ…)


美都はそう思ったが、沙保に言われて自分の中で自信がついていることに気づいた。


(ーー成孔さんに恋をしている、か…)


父親にも兄にも、何より高崎にも、この気持ちは感じなかった。


仕事に手をつけることができないくらいにぼんやりとなったり、彼のことを思い出すと心臓がドキドキとして、彼の前に立ったらどうすればいいのかわからない。


数日前から抱えていた憂鬱が沙保と話したことによって、沙保に言われたことによって、自分の中で消えていることに気づいた。


「沙保ちゃん」


美都は沙保を呼んだ。


「私、成孔さんに自分の気持ちを伝えてみる」


そう宣言した美都に、

「うん、健闘を祈るわ。


まあ、結果はわかっているけど」


沙保は返事をした。


(それにしても…美都に恋をして、そのうえ熱烈なアプローチを仕掛けてくる物好きな男がこの世にいたとは…)


その“成孔さん”と言う名前の人物の顔をぜひとも見てみたいと、沙保は思った。

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