第5話*オランジェットの誘惑
七夕祭りから数日が経った。
トントンと、キッチンでは手なれたようにオレンジを切る音が聞こえた。
「何してるんだ?」
そこへ現れたのは元治だった。
「あっ、お兄ちゃん」
オレンジを切っていた美都は手を止めると、兄の方に視線を向けた。
「これからオランジェットを作るの」
そう答えた美都に、
「まだバレンタインデーじゃないだろ」
元治は訳がわからないと言った様子で返事をした。
「そうだけど…その、お礼をしたい人がいて…」
ゴニョゴニョと呟くように答えた美都に、
「お礼をしたい人って?」
元治は聞き返した。
「な…あ、有栖川さん。
親切にしてもらったから、そのお礼でオランジェットをプレゼントしたいなって」
危うく成孔のことを名前で呼んでしまいそうになったが、どうにか訂正することができた。
「ああ、そうなんだ。
有栖川くん、喜ぶと思うぞ」
元治は笑いながら答えた。
特に何も聞かれなかったことに、美都はホッとして胸をなで下ろした。
まさか自分の後輩が実の妹を口説いていることは、彼は夢にも思っていないだろう。
「時間がかかるけど、オランジェットができたらお兄ちゃんとお父さんにもあげるから」
「うん、楽しみにしてるよ」
元治はそう言うと、キッチンから立ち去ったのだった。
兄の後ろ姿が見えなくなると、
「やれやれ、助かった…」
美都は息を吐いた。
「さて…」
美都はオレンジを切ることに集中した。
お菓子作りは美都の得意分野だ。
クッキーやチョコレートなど簡単に作ってプレゼントできるものは他にもあったが、美都は成孔へのプレゼントにオランジェットを選んだ。
(成孔さんはクッキーとかチョコレートじゃなくて、オランジェットって言うイメージなんだよね)
オレンジを切りながら、美都は心の中で呟いた。
砂糖漬けにしたオレンジをチョコレートで包んだそれは、ピール(果実や野菜の保護層)の苦味とチョコレートの甘味の調和、カカオの深い香りが魅力だ。
(いつも甘い香りをさせているもんね)
成孔がいつも身につけている綿菓子かチョコレートのようなお菓子の香りを思い出しながら、美都はオレンジを切った。
オレンジを切り終えると、棚から大きめの鍋を取り出して、そこに切ったオレンジを並べた。
砂糖と水とブランデーを入れて中火にかけた。
フツフツと沸騰してきたことを確認すると、アルミホイルで落とし蓋をすると弱火にした。
「成孔さん、喜んでくれるといいな。
美味しいと言ってもらえるといいな」
甘く煮立っているオレンジを見ながら、美都は呟いた。
翌朝、美都は電車に乗るとカバンからスマートフォンを取り出した。
『おはよう、今日もいい天気だね』
スマートフォンには成孔からメッセージが届いていた。
いつもの光景である。
美都は画面を指でタップすると、
『おはようございます』
と、メッセージを送った。
その後にまたメッセージを作成した。
『いつでも構いませんが、お会いできる日はありませんか?
一緒に七夕祭りに行ってくれたお礼がしたいので私と会ってください』
送信…と、美都は作成したばかりのメッセージを送った。
いつもだったらスマートフォンをカバンに戻すのだが、今日は違った。
成孔からの返事を今か今かと待っている自分に美都は気づいた。
そのことにハッと我に返ると、美都はすぐにスマートフォンをカバンの中に入れた。
だけども、成孔からの返事を楽しみに待っている自分がいた。
オフィスに到着して自分のデスクに腰を下ろすと、美都はカバンからスマートフォンを取り出した。
「きてない…」
指で画面をタップしてメッセージの着信をチェックするが、成孔からの返事は届いていなかった。
それどころか、先ほど送った自分のメッセージには“既読”すらもついていなかった。
(まだ見ていないのかな…?)
美都は仕方がないと言うように息を吐くと、スマートフォンをデスクのうえに置いた。
髪を左に寄せてバナナクリップで留めると、美都はパソコンに向かった。
「森坂さーん、昨日の書類なんですけど」
由真が書類を手に美都のところにやってきた。
「何か問題があった?」
美都は由真の方に視線を向けると、声をかけた。
「ちょっとここの部分がわかりにくいんじゃないかと思うんですけど…」
「ああ、これのことね」
美都は由真と一緒に手元の書類を覗き込んだ。
由真と話しあいながら書類の訂正を行うと、
「じゃあ、私の方から直して課長に提出するね」
「はい、お願いしまーす」
美都は由真の手から書類を受け取った。
「森坂さん、珍しいですね。
スマホをデスクのうえに置いているなんて」
気づいたと言うように、由真が声をかけてきた。
「えっ…ああ、うん」
曖昧に笑いながら首を縦に振ってうなずいた美都に、
「何か大事な連絡を待っているんですか?」
由真が聞いてきた。
「そう言う訳じゃないんだけど、ちょっと気になることがあって…」
「もしかして…」
由真はキョロキョロと首を動かして周りを見回した後、声をひそめた。
「もしかしてとは思いますけど、彼氏さんとかじゃないですよね?」
そう聞いてきた由真に、美都の心臓がドキッ…と鳴った。
「か、彼氏って…」
ストレートに聞いてきた由真に美都はどうすればいいのかわからなかった。
「違うんですか?」
首を傾げた由真に、
「ち、違う…のかな?」
美都は返事をすることしかできなかった。
「違うって…」
その答えに対して由真は呆れたと言うように息を吐いた。
「まあ、今はいいです。
それじゃあ、よろしくお願いしますねー」
由真は美都に手を振ると、デスクの前から立ち去った。
(彼氏か…)
――早く美都が俺のものになって欲しい
七夕祭りで言われた成孔のセリフが頭の中でよみがえって、美都は自分の頬がだんだんと熱を持ち始めているのがわかった。
デスクのうえのスマートフォンに視線を向けたけれど、成孔からの返事はまだきていないようだった。
成孔からメッセージの返事がきたのは、昼休みになってからだった。
画面の下のライトがピンク色に点滅した瞬間、美都はすぐにスマートフォンを手に取った。
『返事が遅れてごめん
美都から会いたいなんて言ってもらえて嬉しいな
明日は用事があるから無理だけど、明後日なら大丈夫だから』
「明後日か」
メッセージの内容を読んだ美都は呟くと、すぐに返事を作成した。
『わかりました、明後日ですね
明後日の7時に2階のカフェにきてください』
美都はそう書くと、メッセージを送信した。
「何か嬉しそうね」
その声に視線を向けると、財布を手に持った沙保が目の前にいた。
「な、何でもないよ」
美都は答えると、カバンの中にスマートフォンを入れると財布を取り出した。
「七夕祭りで一緒だった例の人と何かあったの?」
そう聞いてきた沙保に、美都はギクッと躰が震えた。
(沙保ちゃん、鋭い…)
美都は心の中で呟くと、椅子から腰をあげた。
「特に何にもないよ。
沙保ちゃんこそ、玉村さんとはどうなったの?
何か進展があったの?」
ごまかすように質問をした美都に、
「いやいや、私は関係ないでしょ」
沙保は言い返した。
いつもは冷静な彼女がどこか動揺している。
(これは何かあったんだな)
美都は心の中で呟くと、首を縦に振ってうなずいた。
「それよりもお昼が終わっちゃうわよ」
そう言って先に進んだ沙保に、
「待ってよ、沙保ちゃーん」
美都は長身の彼女の背中を追いかけた。
その日の夜、美都は冷蔵庫から昨日作ったオレンジのコンフィチュールを取り出した。
「ベタベタしていないし、色が透き通ってキレイだ。
うん、大丈夫だ!」
我ながらよくできたオレンジのコンフィチュールに、美都は首を縦に振ってうなずいた。
後はチョコレートでコーティングをしてトッピングをすれば、オランジェットの完成だ。
細心の注意を払いながらチョコレートのテンパリングを終えると、美都はスプーンでチョコレートをすくった。
「特に異常はなし…と」
美都ははあーっと、深く息を吐いた。
以前にも2回ほど作ったことがあったが、オランジェットはどうしても神経を使ってしまう。
(今回はなおさら、だよね…)
成孔に美味しいオランジェットを食べてもらいたいと言う一心で、美都はバッドのうえにクッキングシートを敷いた。
オレンジのコンフィチュールを半分だけチョコレートに浸すと、クッキングシートのうえに並べた。
全部つけ終えたら、冷蔵庫に入れて一晩冷やせばオランジェットの完成だ。
バッドを冷蔵庫に入れると、美都はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。
昼休みに届いた成孔のメッセージをもう1度確認した。
「明後日か…」
成孔は自分が作ったオランジェットを食べてくれるだろうか?
何より、受け取ってくれるだろうか?
ふと、美都は気づいた。
(…そう言えば、男の人に自分が手作りしたものを渡すのがこれが初めてだな)
学生時代のバレンタインデーは父と兄に手作りのチョコレートをあげていたが、彼ら以外の男にはあげていなかったことを思い出した。
(まあ、あげる人がいなかったからって言うのが正しいんだけどね)
美都はエプロンのポケットにスマートフォンを入れると、後片づけを始めた。
後は明日の仕事終わりにラッピング用のリボンや箱、それから個装用の袋を買ってオランジェットをつめるだけである。
「成孔さん、喜ぶといいな」
美都は呟くと、フフッと笑った。
「あ…でも甘いものが嫌いとかだったらどうしよう?」
そのことに気づいて、美都は後片づけをしていた手を止めた。
成孔にもし嫌いなものがあって、それが甘いものだった場合はどうすればいいのだろう?
「かちわり氷を食べていたから、大丈夫なのかな?」
それどころか、自分の唇の端についていた飴のかけらを自身の唇で舐めとったのだ。
その点は大丈夫かと思いながら、美都は後片づけを再開した。
当日を迎えた。
「お先に失礼しまーす」
美都はオフィスを後にすると、待ちあわせした2階のカフェへと足を向かわせた。
カフェに到着して中を見回すと、カウンターの席でパソコンに向かっている成孔の姿があった。
美都は彼に歩み寄ると、
「成孔さん」
と、声をかけた。
「美都」
成孔は振り向くと、名前を呼んだ。
「お仕事中でしたか?」
そう聞いた美都に成孔はパソコンをチラリと見た後で、
「もう少しでキリがつくから」
と、言った。
「今日は渡したいものがあるだけなので」
そう言った美都に、
「そう言えば、お礼をしたいって言ってたね」
成孔は思い出したと言うように返事をした。
「えっと、これなんですけど…」
美都は手に持っている紙袋を成孔に差し出した。
「ああ、どうもありがとう」
成孔は美都の手から紙袋を受け取った。
「それじゃあ、私はこれで…」
「待って」
成孔が紙袋を受け取ったのでその場から立ち去ろうとしたら、彼に腕をつかまれた。
「えっ、あの…」
腕をつかまれて戸惑っている美都に、
「もう少しだけ、俺と一緒にいてくれない?」
成孔が聞いてきた。
「けど、お仕事中じゃ…」
「3分…いや、1分でキリをつけるから待ってて」
成孔はパソコンと向きあうと、カチャカチャとキーボードをたたいた。
「はい、終わり」
成孔はそう言うと、パソコンを閉じた。
(本当に1分でキリをつけちゃった…)
宣言通りにキリをつけた成孔に、美都は目を丸くすることしかできなかった。
「それじゃあ、行こうか」
「あ、はい…」
成孔に手を繋がれてしまった以上、逃げることは無理だと美都は思った。
ビルを後にすると、
「あの、どこに行くんですか?」
美都は成孔に声をかけた。
「俺の家」
成孔が美都の質問に答えた。
「い、家ですか…?」
そう聞き返した美都に、
「うん、家」
成孔は首を縦に振ってうなずいた。
「変なことはしないよ」
「…はい?」
「俺のことを知って欲しい、ただそれだけだから」
成孔は眼鏡越しで微笑んだのだった。
タイミングよくきたタクシーに乗ると、成孔と一緒に彼の自宅へと向かった。
「紙袋の中身は何?」
ヒョイッと紙袋を見せると、成孔が聞いてきた。
「オランジェットです、私が作りました」
美都の答えに、
「オランジェットって、オレンジにチョコレートを浸けたお菓子だよね?
作るの難しくなかった?」
成孔は驚いたと言うように聞き返した。
「難しいと言えば難しいですけれども、なれると案外簡単にできますよ。
私、2回も作りましたしから」
「2回?」
成孔はピクリと眉を動かした。
「バレンタインデーの時にお父さんとお兄ちゃんに作ってあげたんです」
「…ああ、なるほど」
美都の答えに成孔はホッとした様子を見せた。
「よかった、身内で…。
他の男のために作ってあげたことがあるって言われたら、どうしようかと思ってた…」
「へっ?」
成孔の呟きに美都は訳がわからなくて首を傾げた。
キキッと、タクシーが到着した。
「ついた」
成孔は財布からお金を取り出すと、運転手に渡した。
「わっ…!?」
彼と一緒にタクシーを降りた美都は驚いた。
目の前にあったのは、60階近くはあろうかと言うタワーマンションだった。
(す、すごい…)
あまりのすごさに呆然となっている美都に、
「行こうか」
成孔はそう言って、彼女の手を引いたのだった。
成孔は42階に住んでいた。
(マンションと言うよりも、ホテルだ…)
このような場所に連れてこられたのは初めてなので、美都はどうすればいいのかよくわからなかった。
エレベーターに乗っている間も気持ちが落ち着かなくて仕方がなかった。
部屋の前に到着すると、成孔は手なれたようにカードキーを使ってドアを開けた。
「どうぞ」
成孔はドアを開けて、美都を中へ入るようにとうながした。
「お、お邪魔します…」
美都は何でこのような展開になってしまったのだろうと思いながら、部屋の中へと足を踏み入れた。
入った瞬間、フワリと甘い香りが躰を包み込んだ。
(成孔さんの香水と同じ匂いだ…)
彼がいつも身につけているお菓子のようなあの香りに包まれながら、美都は中に入ったのだった。
スイートルームと言うものはこんな感じなのだろうかと、部屋の中を見回しながら美都は思った。
同時に、自分は成孔のテリトリーの中にいるんだと理解した。
(変なことはしないって言っていたけど…)
心の中で呟いた美都の横を成孔は通り過ぎた。
ガラステーブルのうえに紙袋を置くと、
「どこか適当なところに座ってて、飲み物を持ってくるから」
成孔はそう言うと、キッチンの方へと足を向かわせたのだった。
(す、座っててって…)
美都はどうすればいいのかわからなかった。
ガラステーブルの前にある高そうな革張りのソファーに座る勇気は、自分の中にはなかった。
(もう少し一緒にいたいって言われたけど、食事をするだけじゃダメだったのかな?
と言うか、家に連れてこられた意味がわからないんですけど…)
心の中でブツクサと呟きながら、美都はフローリングのうえに腰を下ろした。
成孔を待っていた時間は長かったような気もするし、短かったような気もする。
「お待たせ…って、ソファーのうえに座っていればよかったのに」
成孔は困ったように笑いながら、美都にマグカップを渡した。
「紅茶でよかった?」
そう聞いてきた成孔に、
「はい…」
美都は首を縦に振ってうなずくと、彼の手からマグカップを受け取った。
マグカップに鼻を近づけると、ローズヒップの香りがした。
成孔は美都の隣に腰を下ろすと、先ほど置いた紙袋に手を伸ばすと中に入っていた小箱を取り出した。
その小箱の中にオランジェットが入っているのだ。
小箱を開けると、個装されたオランジェットを取り出した。
「こうして見ると買ってきたヤツみたいだね」
成孔はクスッと笑うと、袋を開けてオランジェットを出すと1口だけかじった。
「んんっ…!」
その反応に、美都は慌てた。
(美味しくなかったのかな…?
もしかしたら、甘いものが嫌いだったとか…?)
心の中で呟いていたら、
「美味い!」
成孔が笑顔で言った。
「えっ、美味いですか…?」
思っていたとは違うその返事に、美都は拍子抜けした。
「うん、美味いよ。
オレンジの香りがフワッとしてるし、チョコレートも美味しいし、紅茶にもよくあってる」
成孔はそう言うと、紅茶を口に含んだ。
「よ、よかった…」
そんな彼の様子に、美都はホッと胸をなで下ろした。
「えっ、どうしたの?
何が“よかった”の?」
美都の様子に成孔は訳がわからないと言うように聞いてきた。
「その…今日までちょっと不安だったんです。
成孔さん、オランジェットが嫌いかなって思って」
そこまで言って、美都はハッと我に返った。
(私、何を言っているんだろ)
このことは絶対に彼に話さないつもりだったのに、口をついてうっかりと全部しゃべってしまった。
「それはつまり、俺のことを考えていた…と、そう解釈してもいいのかな?」
成孔が顔を覗き込んできたかと思ったら、そんなことを聞いてきた。
「か、考えていたと言うか…。
ただ七夕祭りに一緒に行ってくれたお礼がしたかっただけなので」
呟くように答えた美都に、
「俺が一緒に行きたいって言ったんだけどね」
成孔は返事をすると、オランジェットを口に入れた。
「美都は食べないの?」
成孔が袋を開けながら聞いてきた。
「私は味見をした時に食べましたので」
美都が答えたら、
「そう」
成孔はオランジェットをかじった。
美味しそうにオランジェットを食べている成孔の顔に美都は嬉しさを感じた。
(気に入ってもらえたみたいでよかった)
口元が微笑みそうになったのを美都は感じた。
「美都」
成孔が美都の名前を呼んだ。
「は…」
返事をしようとしたら、彼の顔が近づいてきた。
「――ッ…」
唇が重なった。
重なった唇から、オレンジとチョコレートの味がした。
何回もキスされているからか、もう驚かなかった。
これがなれてしまったと言うことなのだろうと、美都は思った。
唇が離れたかと思ったら、
「――かわいかった」
成孔が言った。
「――えっ…?」
それに対して聞き返したら、
「俺がオランジェットを食べてくれて嬉しいと言うように微笑んでる美都がかわいかった」
と、成孔は答えた。
心臓がドキッ…と鳴ったのが、自分でもよくわかった。
「――か、かわいいって…成孔さん、私とキスした後に必ずそればっかり言いますよね?」
顔が熱いのは部屋に冷房がかかっていないからだと、美都は自分に言い聞かせた。
「言ってるよ、本当のことなんだから」
「――ッ…あ、あんまり、そう言うことは言わない方がいいと思いますよ?
かわいいかわいいって、そんなことばっかり言っていたら勝手に勘違いをする人が…」
「勘違いはされたくないなあ」
美都の両頬に、成孔の両手が添えられた。
「俺は本気だよ、正直だよ。
正直に美都のことをかわいいって言っているんだ」
眼鏡越しから自分を見つめてくる彼の瞳からそらすことができない。
「美都も本気になってよ。
本気で俺のことを好きになってよ」
そう言った彼の顔が近づいてきて、
「――ッ…」
唇が重なった。
その唇に抵抗することができない自分がいる。
重なった唇が離れたかと思ったら、
「――ッ…」
また重ねられた。
成孔のペースに呑み込まれてしまっているせいで、何もできない。
何度も重ねては離れる唇に、自分の意識がぼんやりとし始めているのがわかった。
「――美都…」
バタン!
成孔が美都の名前を呼んだその時、ドアを開けた大きな音が部屋に響いた。
ドタドタと、足音がこちらに向かってくる。
(――えっ、何…?)
成孔は何事なのかと言う顔をしている。
どうやら彼も何が起こったのか理解できていない様子だ。
「失礼します」
そこに入ってきたのは、赤い眼鏡をかけた女だった。
「雑賀ちゃん…」
成孔は訳がわからないと言った様子で呟いた。
「えっ?」
(“サイカ”って、この人の名前だよね?)
美都は成孔の顔と“サイカ”と呼ばれた彼女の顔を交互に見つめた。
「えっと、何をしにきたのかな?
本日の仕事はもう終わったと思うんだけど…」
成孔は彼女にタジタジの様子だ。
一流の職人が丹精をこめて作ったんじゃないかと思うくらいに美しく整った彼女の顔は、どこか迫力があった。
(私、どうすればいいの…?)
成孔と彼女の間に挟まれた美都は困惑することしかできなかった。
「再来週の月曜日に行われる会議のことについてお話がありまして訪ねてきました」
彼女が口を開いた。
「ああ、そう言うことね」
成孔は納得したと言うように返事をすると、
「俺、それには出ないって言ったはずなんだけどなあ…」
と、呟きながら人差し指で頬をかいた。
「先方が大事な会議だからどうしても出席しろと」
そう言った彼女に、
「マジか、それは困ったな…」
成孔はやれやれと言うように息を吐いた。
「どうしても出ないとダメ?」
確認するように聞いた成孔に、
「出てください」
彼女はすぐに答えた。
(すごい、秒だ…)
自分の頭のうえで繰り広げられているやりとりに、美都は心の中でツッコミを入れることしかできなかった。
「わかった、出るよ。
出席するって、そう先方に伝えておいて」
そう言った成孔に、
「かしこまりました」
彼女はペコリと頭を下げると、クルリと回れ右をして立ち去ったのだった。
まるで嵐のようだと、美都は思った。
バタンとドアが閉まったことを確認すると、
「あー、めんどくさいなあ…」
成孔はソファーにもたれかかった。
「な、成孔さん…?」
呟くように名前を呼んだ美都に、
「ああ、ごめんごめん」
成孔はもたれかかっていた躰を起こすと謝った。
「さっきの女性は俺の秘書、雑賀ちゃんって言うんだ」
成孔が言った。
「そうなんですか…」
それに対して、美都はそう返事をすることしかできなかった。
「何か…変なところを見せちゃってごめんね?」
そう声をかけてきた成孔に、
「気にしてないからいいです…」
美都は首を横に振ると、目をそらしたのだった。
(あの人、すごく美人だったな…)
美都の頭の中にあるのは、先ほどの彼女の存在だった。
彼女のような人を“大人の女”と言うのだろうなと、美都は思った。
(私とは大違いだ)
そう思ったら、美都の胸がチクリ…と痛み出した。
「美都、どうかした?」
成孔が聞いてきた。
「あ…えっと、そろそろ帰ってもいいですか?
あんまり遅いと、父と兄が心配するので…」
美都は言った。
これ以上、成孔の隣にいたら胸の痛みに気づかれてしまうんじゃないかと思った。
とっさに口に出したことだったが、
「ああ、そうだね。
明日も仕事がある訳だし、何より森坂さんに嫌われたくないし」
成孔は仕方がないと言った様子で腰をあげた。
「途中まで送ってくよ」
そう言った成孔に、
「いえ、1人で帰れますので大丈夫です」
美都は首を横に振った。
「でも、もう遅いし…」
「本当に大丈夫です」
成孔に自分の気持ちと胸の痛みに気づかれるのが怖かった。
「そう…じゃあ、家に到着したら連絡するんだよ」
「はい、わかりました…」
美都は返事をすると、カバンを手に持った。
「オランジェット、ありがとうね。
大事に食べるから」
そう言った成孔と一緒に美都はリビングを後にした。
成孔は玄関まで見送りにきた。
美都は靴を履くと、
「それじゃあ、また」
と、言った。
「うん、またね」
そう言って手をあげた成孔に美都は手を振り返すと、ドアを開けた。
バタンとドアを閉めると、美都は息を吐いた。
そっと胸に手を当てると、
「変な感じ…」
そう呟くと、美都はその場を後にしたのだった。
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