第2話*20年ぶりの再会

当日を迎えた。


「それじゃあ、お先に失礼します」


パソコンの電源が切れたことを確認すると、美都は椅子から腰をあげた。


「美都さん、お疲れ様です」


あいさつをしてきた高崎に、

「お疲れ様です。


お食事の件、楽しみにしてますね」


美都は返事をすると、早足でオフィスを後にしたのだった。


「…あれは、脈があるんだと思えばいいのか?」


「上司とのつきあいぐらいにしか考えていないと思う」


同僚たちがコソッと話をしていたが、すでにオフィスから立ち去った美都の耳には入っていないのだった。


「えーっと、6時だって言ってたよね…」


腕時計に視線を向けると、5時を少し過ぎたところだった。


エレベーターが止まっていたので、

「すみません、乗ります」


美都は声を出すと、そのエレベーターに飛び乗った。


エレベーターに入った瞬間、フワリとした甘い香りが美都を包み込んだ。


「何階ですか?」


そう尋ねてきた低い声に、

「1階で…」


美都は答えようとしたが、目の前の人物に見とれてしまった。


(あっ、かっこいい人だ…)


ウェーブがかかっている短い黒い髪は、天然なのだろうか?


端正な顔立ちに、美都の心臓がドキッと鳴った。


眼鏡越しの二重の切れ長の目が自分を見つめている。


「あっ、ごめん」


男の口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。


「えっ?」


何で謝られたのか、全くと言っていいほどにわからない。


「これ、上に行くんだ」


そう答えた彼に、

「えっ…ああ、ごめんなさい!」


美都はハッと我に返って、エレベーターから飛び下りた。


目の前のエレベーターのドアが閉まった。


「確かめればよかった…」


美都はそう呟くと、下矢印のボタンを押した。


次に止まったエレベーターに美都は乗ると、1階のボタンを押した。


「かっこよかったな…」


一瞬だけエレベーターで一緒になった男を頭の中に思い浮かべた美都は呟いた。


(このビルのどこかで働いている人なのかな?


それとも、用事があってきた人かな?)


屋上と地下を含めると60階近くある商業ビルには、いくつかの会社が入っているのだ。


チーンと、エレベーターが1階に止まった。


美都はエレベーターを降りると、ビルを後にした。


「おーい、美都」


ビルを後にしたら、元治に声をかけられた。


「あっ、お兄ちゃん!」


彼の後ろに車があるところを見ると、自分を迎えにきたみたいだ。


美都は兄のところに駆け寄ると、

「迎えにくるなら迎えにくるって電話すればよかったのに」

と、言った。


「ごめんごめん、美都が心配だったからさ」


元治は笑いながら答えると、車のドアを開けた。


後ろの座席には父が座っていた。


美都が助手席に座ったことを確認すると、元治は運転席に座った。


「それじゃあ、行こうか」


元治の運転で車が動き出した。


美都は窓に視線を向けると、移り変わる景色を見ていた。


この時間だと言うのに、空はまだ明るかった。


(夏だから当たり前か)


美都は心の中で呟いた。


途中で花屋に立ち寄ると、供える花を買った。


また車を走らせると、母が眠っている寺に到着した。


みんなで墓石の掃除を済ませると、買ってきたばかりの花と線香を供えた。


「今年も無事に、家族全員でこの日を迎えることができてよかったです」


父がそう言って両手をあわせたので、美都と元治も一緒になって両手をあわせた。


(お母さんが亡くなって、もう20年か…)


美都は心の中で呟くと、そっと目を閉じた。


(またこうして来年も家族みんなでこれますように…)


心の中で唱えると、美都は目を開けてあわせていた両手を下ろした。


「来年は、美都か元治が相手を連れてきているといいな」


笑いながら言った父に、

「おいおい、そんなことを言うなよ」


元治は苦笑いをした。


(相手か…。


私ももうすぐで28歳だもんね…)


父と兄の様子を見ながら、美都は心の中で呟いた。


墓参りを終えて次に向かった先は、都内でも有名な高級中華料理店だった。


この日のために元治が奮発して予約をしてくれたのだ。


1階はダイニングになっているが、2階と3階は個室になっていた。


2階の個室に案内されると、

「どれでも好きなものを頼んでいいぞ。


今日は兄ちゃんが全部出してやるからな」


元治はそう言って美都にメニューを渡してきた。


「ありがとう」


美都は元治からメニューを受け取ると、食前酒を口に含んだ。


「なあ、美都」


メニューを見ていたら、父に声をかけられた。


「何?」


美都はメニューから顔をあげると、父に視線を向けた。


「美都は、結婚を考えている相手とかはいないのか?」


そう聞いてきた父に兄が驚いたと言うように目を見開いたのがわかった。


「結婚?」


美都は首を傾げた。


「もう美都もいい年齢だからな」


「ああ、うん…」


美都は少しだけ口を閉じた後で、

「特にいないかな」

と、言った。


その答えに、元治がホッと胸をなで下ろしたのがわかった。


「私、結婚するならお父さんかお兄ちゃんみたいな人がいいって思ってるから」


美都は言った。


「へえ、そうか」


フフッと、父はそう言って笑った。


「…まあ、わかってたことだけど」


元治はやれやれと言うように息を吐いた。


(こりゃ、孫の顔はおろか結婚はまだまだ先の話になりそうだな…)


元治は心の中で呟いた。


「お兄ちゃんは結婚しないの?」


美都が自分の方に話を振ってきた。


「えっ…ああ、俺か」


(俺に話を振るかよ…)


自分に振られてしまった以上、逃げる訳にはいかないと思った。


「俺もしばらくは無理だろうな。


職場の人間も独身よりも既婚の方が多くなってきているし」


元治は苦笑いをしながら妹の質問に答えた。


「へえ、そうなんだ」


美都は返事をした。


そう言えば、彼女には“反抗期”と言うものが存在しなかったと言うことを元治は思い出した。


中学も高校も大学も、今と特に対して変わらない穏やかな時間を美都は過ごしていた。


(我ながら、甘やかし過ぎたな…)


元治は心の中で呟いた。


年齢の離れた妹だから、母親がいないからと言う理由で、彼女を過保護に育ててしまったことを元治は少しだけ後悔していた。


「お兄ちゃんも一緒に見る?」


メニュー表を見せてきた美都に微笑ましさを感じながら、

「見ようか」


元治は彼女と一緒にメニュー表を覗き込んだ。


やっぱり、年齢の離れたかわいい妹にはかなわない。


美味しい中華料理に舌鼓を打って会計を済ませると、個室を後にした。


「美味しかった」


嬉しそうに言った美都に、

「ああ、またこような」


元治は答えた。


「うん、約束よ」


美都は首を縦に振って返事をした。


(我が妹ながら、この笑顔に弱いな…)


年齢の離れた妹に甘過ぎる自分に呆れながら元治が前の方に視線を向けると、別の個室から男が1人出てきたことに気づいた。


(何かどっかで見たことがあるような…?)


元治がそんなことを心の中で呟いた時、相手と自分の目があった。


眼鏡越しの瞳が何かに気づいたと言うように大きく見開いたかと思ったら、相手が嬉しそうにこちらに向かって歩み寄ってきた。


(あ、マズい…)


見ていたことを注意されると思って、元治は慌てて目をそらした。


こちらへと向かってくる男に、美都は見覚えがあった。


(あの人、エレベーターで一緒になった人だ!)


ウェーブがかかっている短い黒髪と端正な顔立ちは、忘れることができなかった。


彼は元治の前に立つと、

「森坂さんですよね?」

と、聞いてきた。


「えっ?」


元治はそらしていた目をあげると、相手の顔を見つめた。


「俺ですよ、有栖川ですよ。


大学の時、ゼミで一緒だった有栖川成孔(アリスガワナルヨシ)ですよ」


自分を指差して、彼――有栖川成孔は言った。


「あ、ありすがわ…?」


そんな名前の知りあいが自分にいたかと思いながら、元治は記憶をたどった。


「お兄ちゃん、知りあいなの?」


兄の様子に美都は声をかけた。


「君は美都ちゃんかな?」


成孔が美都に声をかけてきた。


「えっ…私のことを知っているんですか?」


美都は彼が自分を知っていたことに驚いた。


「うーん、覚えてないか…。


よく家に遊びにきてたんだけど、君はまだ小学生に入ったばかりだったからなあ」


そんな彼女に、成孔は苦笑いを浮かべた。


「ああ、有栖川くんか!」


元治は思い出したと言うように、パンと両手をたたいた。


「思い出しました?」


嬉しそうに聞いてきた成孔に、

「確か、俺の2年後輩だったんだよな?」


元治は確認するように聞いてきた。


「そうです。


俺が入学した時、森坂さんは3年生でした」


成孔が元治の質問に答えた。


2歳年下と言うことは、38歳か…と美都はそんなことを思った。


「20年ぶりじゃないですか?


最後に俺と森坂さんが会ったのは、俺の卒業式の時でしたから」


成孔はそう言うと、指で頬をかいた。


(あっ、刺青だ)


彼の手の甲に入っている刺青に、美都は心の中で呟いた。


「あー、もうそんなにも経つのか。


それで有栖川くんは今は何をしているんだ?」


元治は聞いた。


「俺はIT関連会社『Iロール』のCEOをやっています。


昨日までアメリカにいたんですけど、今朝日本に帰ってきたんです」


成孔が元治の質問に答えた。


「えっ?」


彼の口から会社名を聞いた美都は驚いた。


「その会社って、美都が働いているビルの中にある会社だよな?」


そう聞いてきた元治に、

「うん、そうだよ」


美都は首を縦に振ってうなずいた。


(有栖川さんが勤務してる会社があるから、エレベーターに乗っててもおかしくないよね)


美都は心の中で呟いた。


「美都ちゃんは?」


成孔が美都に聞いてきたので、

「えっ?」


美都は訳がわからなくて聞き返した。


「美都ちゃんはどこで働いているのかなって」


質問の意味を言った成孔に、

「『高崎エージェンシー』と言う広告代理店で働いています」


美都は答えた。


その答えに成孔は満足そうに微笑むと、

「美都ちゃんもすっかり大人になったね。


この間までは小学生だったのに」

と、言った。


返事の仕方がわからなくて、美都は戸惑うことしかできなかった。


「森坂さん」


成孔が元治に声をかけた。


「何だ?」


そう聞き返した元治に、

「少しの間だけ、美都ちゃんと2人だけでお話していいですか?


終わったら、俺が家まで送りますので」


成孔が言った。


「えっ…!?」


言われた美都は戸惑った。


(私と話がしたいって、何で…?)


それが成孔にとってどんなメリットになるのか、美都には思い浮かばなかった。


それに対して、元治は困ったと言うように父親に視線を向けた。


「まあ、いいんじゃないか?」


元治からの視線を受けた父親はそう言った。


「美都」


元治は美都を呼んだ。


「有栖川くんに何かされたら呼べ、兄ちゃんがぶん殴っとくから」


そう言った元治に、

「あ、うん…」


美都は首を縦に振ってうなずくことしかできなかった。


「森坂さん、俺は何もしませんよ。


ただ美都ちゃんといろいろと話したいだけですから」


成孔が苦笑いをしながら言った。


「じゃあ、先に帰ってるから」


元治はそう言って美都に手を振ると、父親と一緒にこの場から立ち去った。


兄と父の背中が見えなくなると、

「美都ちゃん」


成孔が名前を呼んだ。


彼と一緒に中華料理店を出ると、

「あの…」


美都は声をかけた。


「どうして、私と話がしたいって言ったんですか?


有栖川さんは兄と一緒に話がしたかったんじゃないんですか?」


そう聞いた美都に、

「“成孔”でいいよ」


成孔が言った。


「えっ?」


聞き返した美都に、

「“有栖川さん”って、言いにくいでしょ?


だから、“成孔”でいいよって」


成孔が答えた。


そう言ってくれた彼だったが、美都は困った。


兄の後輩で、小さい頃に面識があった…かも知れないけれど、初めて会った彼の名前を呼んでいいものなのだろうか?


「いいんですか?」


確認のために聞いた美都に、

「いいよ、俺がいいって言ってるんだから」


成孔は笑いながら答えた。


美都は躊躇いながらも唇を開くと、

「な、成孔さん…」

と、彼の名前を言った。


「うん、それでいいよ」


成孔は嬉しそうに笑って、首を縦に振ってうなずいた。


彼の笑った顔に、心臓がドキッ…と鳴った。


それに対してどうしたらいいのかわからなくて、美都は彼の耳に視線を向けた。


(あっ、ピアスしてる…)


成孔の左耳には、黒の丸い宝石のピアスがあった。


「美都ちゃん?」


成孔に名前を呼ばれ、美都はハッと我に返った。

「はい」


美都が返事をすると、

「何歳になった?」


成孔が聞いてきた。


「27です」


美都がその質問に答えると、

「そっか、もう大人だね」


成孔はそう言ったのだった。


「まだ子供に見えるんですか?」


そう言った彼の言葉の意味がわからなくて、美都は聞き返した。


「美都ちゃんはすっかり大人だよ」


成孔は首を横に振って美都の質問に答えた。


「ああ、でも“ちゃん”はないか…」


成孔はそう呟くと、

「今から君のことを“美都”って呼んでいい?


もう子供じゃないから、そう呼んでもいいかな?」

と、聞いてきた。


兄と父親以外の男から自分の名前を呼ばれるのは初めてだった。


「やっぱり、ダメか…」


自嘲気味に成孔が呟いた時、

「…いいですよ」


美都は言った。


兄と父親以外の男から自分の名前を呼ばれることに、若干の抵抗はあった…だけども、成孔なら自分の名前を呼んでもいいと美都は思った。


成孔はフッと微笑むと、

「――美都」

と、名前を呼んだ。


その瞬間、美都の心臓がドキッ…と鳴った。


(お兄ちゃんとお父さん以外の男の人に初めて名前を呼ばれたから、ドキドキしているのかな…?)


この音を成孔に聞かれるのが怖くて、美都は彼から目をそらした。


「美都」


もう1度成孔が自分の名前を呼んだかと思ったら、頬に大きな手が添えられた。


その手はクイッと、彼の方へと向かされた。


「――ッ…」


眼鏡越しから見つめているその瞳から逃げることはできないと、美都は思った。


「――ずっと好きだったんだ」


成孔が言った。


「えっ…?」


言われた美都は、全くと言っていいほどに理解ができなかった。


(好きって…)


「だ、誰をですか…?」


美都が呟くように成孔に聞いたら、

「美都――君のことが好きだった」

と、彼は答えた。


「わ、私って…」


その答えに、美都は何を言い返せばいいのかよくわからなかった。


「ずっと欲しかったんだ」


成孔が言った。


眼鏡越しに見つめているその瞳に、美都の心臓は早鐘を打ち始める。


「どんな大人になっているんだろうって思った。


つきあっている人がいるんじゃないか結婚したんじゃないかと不安になった時もあった」


逃げられないと、美都は思った。


成孔は目を細めると、

「君が欲しかった」


そう言って、顔を近づけてきた。


「――ッ…!?」


突然のことに驚いて、美都は大きく目を見開かせた。


自分の唇に触れているのは、成孔の唇だ。


もしかして…いや、もしかしなくても、自分は彼とキスをしているのだと言うことを知らされた。


触れていた唇が離れた…のと同時に、フワリとお菓子のような甘い香りが漂った。


エレベーターで包まれた時の香りと一緒だと、美都はそんなことを思った。


「――ッ…」


美都は声を出すこともできなければ、成孔に向かって何かを言うこともできなかった。


成孔は指先で唇をなぞると、口角をあげた。


彼の唇は厚くて、色気を感じた。


そんな彼に見つめられていることが恥ずかしくて、美都は目をそらした。


(――私、本当にキスをしちゃったんだ…)


その唇に自分の唇が奪われたことに、美都は戸惑いを隠すことができなかった。


またお菓子のような甘い香りが漂ったので、

「――あ、あの…!」


美都は顔をあげた。


「じゅ、柔軟剤か何かの香りなんですか?


さっきから、甘い香りがするんですけど…」


「甘い香り?


…ああ、なるほどね」


美都の問いに成孔は納得をしたと言うように、首を縦に振ってうなずいた。


「香水だよ」


成孔が答えた。


「…香水?」


呟くように聞き返した美都に、

「テュエリー・ミュグレーの『エンジェル』って言う香水だよ」


成孔は答えた。


「ああ、ごめん。


もしかして、香水は苦手だった?」


思い出したと言うように聞いてきた成孔に、美都は首を横に振って答えた。


「そう、ならよかった」


成孔はそう返事をすると、また美都と唇を重ねた。


初めてキスをされたと言うのに、嫌な気分にならないのは何故だろうか?


彼が身につけている香水の甘い香りに酔ってしまったからなのだろうか?


「――ッ…」


何も感じていない、それどころか心地よさを感じている自分に、美都は驚いていた。


唇が離れたかと思ったら、成孔に見つめられた。


「――決めた」


成孔が唇を動かしたかと思ったら、そんなことを言った。


「――えっ…?」


訳がわからなくて聞き返した美都に、

「美都を俺のものにする」

と、成孔が宣言した。


「も、もの…?」


(私は商品じゃないんですけど!)


美都は心の中でツッコミを入れた。


成孔は口角をあげると、

「ずっと君が欲しくて仕方がなかったんだ。


だから、覚悟してね」


そう宣言すると、美都と――今日だけで3回目となる――唇を重ねた。

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