アスカラール~天然悪女は彼に甘く愛される~

名古屋ゆりあ

第1話*天然悪女の育て方

腰近くまであるストレートの黒髪は、特に取得のない自分が唯一自慢できるものである。


(短くしたら短くしたらで、ハネたりだとか何とかで手入れが大変だからって言うのもあるんだけど)


そう思いながら、美都は長い髪を左の方に寄せると水色のバナナクリップで留めた。


「よし、やろう」


美都は自分に気合いを入れると、仕事に取りかかった。


椅子に座ってパソコンに向かいあっているとは言え、退屈である。


(昨日は夜遅くまで起きて、マンガを読んでたからなあ)


嫌でもやってきた眠気に、思わずあくびをしてしまった時だった。


「おやおや、ずいぶんと大きなあくびですね」


聞き覚えのある声がしたので、美都はそちらの方に視線を向けた。


「あ、高崎さん…」


生まれつきだと言う茶色の猫っ毛に黒のストライプのスーツをモデルのように着こなしている長身の男が美都の前にいた。


男の名前は高崎俊彦(タカザキトシヒコ)、34歳。


彼は美都が勤めている広告代理店『高崎エージェンシー』の跡取り息子――いわゆる、御曹司である――だ。


2年前の春まで同じ部署で仕事をしていたので、美都は彼のことをよく知っていた。


端正な顔立ちと人当たりがよく、そのうえ仕事もできるため、多くの社員たちから慕われている。


「どうも、お久しぶりです」


ペコリと会釈をした美都に、

「お久しぶりです、美都さん」


高崎はあいさつを返した。


「先程は粗相をお見せしちゃってすみません」


そう謝った美都に、

「美都さん、そこははにかむところですよ」


高崎が言った。


「はあ…」


柔らかく言ってきた高崎に、美都はそう返事をすることしかできなかった。


「それで、今日は何をしにきたんですか?」


そう聞いた美都に、

「貝原さんにこの書類を渡して欲しいのですが」


高崎は美都に書類を渡した。


(ああ、例の企画か)


美都はそんなことを思いながら、

「わかりました、渡しておきます」


高崎の手から書類を受け取った。


チラリと同僚の貝原沙保(カイバラサホ)のデスクに視線を向けると、当の本人はいなかった。


(トイレに行ってるのかな?


それだったら、デスクのうえに置けばいいのに)


そんなことを美都は心の中で呟いた。


美都が書類を受け取ったことを確認すると、

「それじゃあ、また。


美都さん、今度は一緒に食事に行きましょう」


高崎は手をあげて、美都の前から立ち去ろうとした。


「一緒に食事ですか?」


そう聞いてきた美都に、

「ええ、食事です。


ああ、美都さんのご都合があえばですけど」


高崎は足を止めると、質問に答えた。


「行ってもいいですけど…私、生魚が嫌いなので生魚を出すお店はやめてください。


後、あんまり遅くなると父と兄が心配するのでそこのところも…」


そう言った美都に、

「そ、そうですか…。


わかりました、考えます」


高崎は苦しそうに笑ったのだった。


「それでは、また」


「はい、わかりました」


高崎の背中を見送ると、美都は書類をデスクのうえに置いて仕事を始めた。


美都が仕事に集中しているのを確認すると、

「さすが、天然悪女ね」


コソッと、同僚が彼女に聞こえないように言った。


「高崎さんもなかなかやるよなあ。


森坂さん、完全に自分のことを見ていないのに」


「あの子、高崎さんのアプローチをぬらりくらりと交わしているもんね。


高崎さんが“たまには髪を下ろした姿が見たい”と言えば、“仕事の邪魔になるから下ろすことができません”って言い返したもん。


“僕が選んだ服を買えば、あなたは着てくれますか?”て言ったら、“服はユニクロかジーユーで買うと決めているんです”って見事に一蹴したのよ。


その時の高崎さん、かわいそうったらなかったわよ」


「と言うか…生魚が嫌いですって、わざわざ自分の嫌いな食べ物を言うかね?」


「アレルギーの可能性もあると思うよ」


「どちらにせよ、すご過ぎるわ」


「本人は気づいていないでしょうね。


自分が“天然悪女”と見えないところで称されていることに」


同僚たちはやれやれと、呆れたように息を吐いた。


森坂美都(モリサカミツ)、27歳。


大学を卒業してから広告代理店『高崎エージェンシー』で営業事務として働いているOLだ。


153センチの小柄な身長と華奢な体型が特徴的だ。


色白の丸い顔には二重の大きな目、小さな鼻、小さなピンクの唇と言うように美しく整っていた。


その顔立ちは完成度が高い人形のようだと周りは評していた。


少しばかり童顔で身長が低いことも手伝ってか、あまり年相応に見られないのが美都の密かな悩みだ。


よく大学生か高校生に間違われるのだ。


性格は大人しく、周りから“お嬢様みたいだ”とよく言われるのだが、自分が思ったことははっきりと言うタイプであることを自負している。


…ただし、そんな彼女にも欠点と言うものは存在する。


貝原沙保が戻ってきたことに気づいた美都は腰をあげると、先ほど高崎から渡された書類を返すために彼女のデスクへと歩み寄った。


彼女は美都の同期で、友人だ。


チョコレートブラウンの緩くウェーブがかかった胸元までのロングヘアーと170センチ近くある長身、グラマラスな体型が特徴的だ。


こうして美都と並ぶと、まるで姉妹のようである。


美人な外見とは違って、大家族一家で育ったと言う彼女は美都と同じく自分が思ったことははっきりと言うタイプの性格である。


見た目はまるで対照的だが、そんな性格もあってか不思議と彼女とは気があうのだった。


「沙保ちゃん、高崎さんが」


美都が先ほど渡された書類を沙保に渡すと、

「あー、ダメだったか…」


沙保はやれやれと言うように息を吐くと、長い髪を耳にかけた。


耳にはターコイズブルーの丸いピアスが輝いていた。


諸事情もあってイヤリングしかつけることができない美都からして見たら、ピアスは憧れの存在だ。


「部長はいいと言ってくれたのになー」


沙保は口をとがらせると、ふてくされたように言った。


「ホントだよね、センスがあるのに」


そんな彼女の様子に、美都は同意をするように言った。


「やっぱり、高崎さんの壁が高かったか…。


あの男、一緒に食事をしましょうって言って誘われたとしても絶対に行かないわ」


「えっ、沙保ちゃんも誘われたの?」


美都が思わず聞き返したら、

「えっ?」


沙保は訳がわからないと言った様子で聞き返した。


「沙保ちゃんも高崎さんから食事に行きましょうって誘われたんでしょ?」


聞き返された理由がよくわからなくて、美都はまた聞き返した。


「私、何にも言われてないんだけど…?」


そう答えた沙保だったが、ハッと何かに気づいたと言うような顔をした。


「美都、ちょっと…」


そう言って沙保は美都の手を引くと、一緒にオフィスから離れた。


「えっ、どうしたの?」


何故だか連れてこられたのは、給湯室だった。


「美都、高崎さんに食事に誘われたの?」


声をひそめて聞いてきた沙保に、

「うん、誘われた…。


と言うか、毎回のように言われているんだけど…」


美都は答えた。


「へえ、高崎さんって美都を狙っているのか。


まあ、納得できると言えば納得できるけど」


沙保はうんうんと、首を縦に振ってうなずいた。


「沙保ちゃんも誘われたんじゃないの?


さっき、行かないとかって言ってたじゃない」


そう言った美都に、

「あれは、もしそうなった場合はみたいな感じで言ったのよ」


沙保は言い返した。


「噂では何となく聞いていたけど、本当に美都を狙っているとは…」


沙保はそう呟くと、

「それで、美都としてはどうなのよ」

と、聞いてきた。


「私?」


自分を指差して聞いた美都に、

「当たり前でしょ」


沙保は言い返した。


「高崎さんはかっこいいと言えばかっこいいし、優しいけれど…」


美都はそこで言葉を区切ると、

「私は、やっぱりお父さんかお兄ちゃんみたいな人とつきあいたい」

と、言った。


その答えに沙保は呆れたと言うように、手を額に当てた。


「やっぱり、そう言うのね…」


沙保は呟いた。


「えっ、どうしたの?」


そんな彼女に美都が声をかけたら、

「哀れ、高崎さん…」


沙保は美都に気づかれないように呟いた。



7時に仕事を終えると、美都は家に帰った。


「ただいまー」


家に帰ると迎えてくれたのは、

「お帰り、美都!」


13歳年上の兄だった。


兄の森坂元治(モリサカゲンジ)は40歳で、『二月銀行』の本社で銀行員として働いている。


そして、何故なのかはわからないが彼は独身だ。


兄は精悍な顔立ちで身長は180センチ、スタイルもモデルのようにいい。


当然のことながらつきあった女性は何人かいるのだが、結婚までに踏み切ることができていないのが不思議だ。


(本当に、どうしてなんだろう?)


結婚をしようとしない兄に美都が首を傾げたら、

「どうした、首が痛いのか?」


元治が心配そうに声をかけてきた。


「ううん、何でもないよ」


美都が首を横に振って答えたら、

「そうか、首が痛かったら言ってな」


元治は言った。


元治と一緒にリビングへ向かうと、

「おう、帰ってきたか」


父が迎えてくれた。


「ただいま、お父さん」


美都は父にあいさつをした。


今年で70歳になった父は警察官として定年まで働いていた勤務経験を生かして、現在は警備員として第二の人生を謳歌している。


「先に風呂に入るだろ?」


そう聞いてきた元治に、

「うん」


美都は首を縦に振って返事をした。


「その間に夕飯の用意をするから先に入っておいで」


「わかった」


美都が返事をしてリビングから離れようとした時、

「美都」


父が呼び止めた。


「何?」


美都が振り返って声をかけると、

「来週の水曜日だけど…」


言いかけた父に、美都は微笑んだ。


「わかってる、上司にもその日は早く帰れるようにとお願いしたから」


そう言った美都に、

「なら、いいんだ」


父は返事をして微笑んだのだった。


「その日は母さんの命日だからな」


元治が夕飯の準備をしながら話しかけてきたので、

「うん、みんなでお母さんのお墓参りに出かけた後にご飯を食べるんだよね」


美都は言ったのだった。


「そうそう」


元治は首を縦に振ってうなずいたのだった。


美都の母親は、美都が小学2年生の夏に病気でこの世を去ったのだ。


「じゃあ、お風呂に入ってくるから」


「あいよー」


父と兄に見送られ、美都は今度こそリビングから立ち去った。


美都がリビングからいなくなると、

「美都は今日も元気だな」


父が夕飯の準備をしている元治に話しかけてきた。


「ああ、そうだな」


元治は鍋にお湯を入れると、ガスをつけた。


今日の夕飯は冷やし中華である。


冷蔵庫からハムときゅうりとにんじんを取り出すと、それらを包丁で刻んだ。


「後は結婚してくれることだけだな」


そう言った父に、

「おいおい、そんなことを言わないでくれよ。


まだ美都に結婚は早いだろ」


元治は言い返した。


「もう27…いや、正確に言うならば後少しで28だぞ。


こっちとしては孫の顔…まあ、100歩譲って美都の花嫁姿が見たいんだ」


「…まあ、気持ちはわからなくもないけれど」


父に向かって呟くように言った元治に、

「お前が40にもなって1人でいるのは、美都よりも先に結婚するのは忍びないからなんだろ?」

と、父が言った。


グサリと確信をつく言い方をしてきた父に、

「…それ、美都には言わないでくれよ」

と、元治は言い返したのだった。


父と兄がそんな会話をしていたことに気づいていない美都は、のんびりとお風呂に浸かって本日の疲れを癒していた。


「高崎さんはかっこいいんだけど…やっぱり、お父さんかお兄ちゃんみたいな人と結婚したいんだよね」


湯船の中で美都は呟くと、息を吐いた。


美都の欠点――それは、父と兄以外の周りの男性に興味を持つことができないと言うことである。


晩年になってからできた娘だから、年齢の離れた妹だから、さらには母親を亡くしたからと言う理由で、美都は父と兄から過保護に育てられて愛された。


彼らからの愛情を一身に受けた美都は、周りの男性にも同じように、それも無意識に求めた。


その結果、美都は周りの男性に興味を持つことができなくなってしまったのだ。


27歳になった今でも独身のうえに、男性との交際歴もゼロである。


全くと言っていいほどに自覚がない美都は湯船から出ると、躰を洗うためにグレープフルーツの香りがする石けんを手に取った。

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