吸血鬼は緑芳る丘を知らない

@chotchatcat

第1話

 ルイス=カルパートは北部地方の領主だった。

 当年とって二六歳、曾祖父の代からの館に妻と娘と慎ましく暮らしている。

「迷信って思い出したように流行るのね」

 連なったニンニクを窓枠に吊しながら妻はそう苦笑った。

「いつまでもあんな城を残しているからいけないのかもしれないわね」

 あんな城、という言葉につられてルイスも読んでいた本から顔をあげ、妻と同じくして窓の外を遠く見た。ルイスの屋敷からもこの地方にいくつかある吸血鬼が棲むと言われる古城のうちのひとつを望むことが出来る。

 黒い森をたたえた岩山の頂にそびえたつ荒涼とした城。

 恐らくもともとはどこかの貴族の別邸か何かで、百年二百年と時を経て相続を繰り返すうちにその存在を忘れられてしまったものだろう。そんな風に誰のものとも知れぬこの城、昔語りの言うことにはもう何百年も主なきまま荒れ果てているという。もともと迷信深いこの地方、かの古城と古来からの吸血鬼伝説とが結びつけられたのはごく自然な成り行きとも言える。人の住まぬところに化け物の棲むは必至、そんな考え方故に使わない建物は例外なく取り壊す慣習があるぐらいだ。――いや、点在する古城は例外なき中の例外であったか。

「ええっと、あとは、と」

 ニンニクをどうにか吊し終えてからも妻は何かと忙しく動いていた。今はしきりに暖炉の上の宝石箱を探っている。

「……万聖節にはまだ早いだろう?あまり長いことぶらさげていると匂いがしみついてしまうよ」

 窓枠にこれでもか、というほど大量に吊されたニンニクを見やって苦笑する。

 と、妻はあら、と意外そうに目を丸く見張った。  

「あなたまだ御存知ないんですか?皆、騒いでおりますのに」

「何?」

 内緒の話を勿体ぶる若い娘のようにクスクス笑う。妻は時々そんな子供っぽい仕草をすることがある。

「冗談とも本気ともつかない噂話ですけれども」

 と前置きする。

「――吸血鬼が永い眠りから目覚めたそうですよ」





「今夜は遅くなりそうだからおまえは御者としてついてこなくていいよ」

「えっ、でも、御主人様」

「いいから。奥方が熱をだしているそうじゃないか。ついてておやり」

 純朴なこ馬番の青年はつい先月メイドのひとりと結婚したばかりだった。よほど惚れ込んでの相手だったらしくその尽くし様は見ていて微笑ましい。今しがたもルイスの言葉にぴょこんとお辞儀をして、一刻も早く愛妻のもとに駆けつけたい様子である。

「じゃあ、行って来るよ」

 月に一度か二度、一帯の領主達が集まって寄合のようなものを開く。

 商売の協定を結んだり、各々の農場の出来高を報告をしたりするという名目だが、

「飲んでるかー、ルイス?」

 ……どちらかというと単なる飲み会の体を様していた。各々自分の領地で作らせたワインやチーズを持ち寄って吟味しあう。いや、吟味というか只楽しく飲み食いしている。

「オレ、おまえんとこのワイン好き」

「セッツァー。もう酔ってるんだな」

 セッツァー=クラウルはルイスの幼なじみだが、まだ領主ではない。今夜はどうやら父のクラウル氏にくっついてきて御相伴にあずかっているらしい。

「相変わらずつまんなそうな男だなー、ルイス」

 セッツァーはだらしなくべろんべろんに酔っていた。酒臭い息をぷんぷんとただよわせてルイスにからみついてくる。

「メアリー=アンは元気か?娘は何ていったかな?コンスタンツェ?」

「コンスタンス」

 メアリー=アンはルイスの妻の、コンスタンスは今年三歳になる娘の名だ。

「そうそう、コンスタンツェ。可哀想な娘だ」

「コンスタンス、だ。何でうちの娘の何が可哀想なんだ?」

「おまえみたいなつまんない男が父親だからさ!きっと質素で慎ましいまじめな女に育つんだろうな」

「……」

「オレだったら胸バーン、尻バーン、の贅沢で派手な女に育て上げてやるのに。」

「セッツァー」

 苦笑する。つきあいが長いのでセッツァーの酒癖の悪さにもその戯言にも慣れっこではあるのだが。

「つまりだなぁ、オレが言いたいのはだなぁ、オレが言いたいのは……あれ、なんだっけ?」

「少し腰掛けて休めよ。飲み過ぎだ。おまえってば弱いくせに浴びるように飲むんだから」

 ルイスがそう勧めるなりくたくたと膝を折って座り込んでしまうセッツァー。慌てて肩を貸して抱えおこしてやる。んー、などと唸りながらセッツァーがぼやく。

「……ルイス、おまえ案外ごついんだな。骨があたってカタイ。女ってのはだなぁ、もっとこう、ぽよぽよとやわらかくってだなー」

「私は女じゃないからな。無茶苦茶を言うなよ」

 セッツァーはもはや半分目を閉じてしまって口の中でぶつぶつと何事かつぶやいている。

「まったくおまえはほんとカタイよ!領主連中の中でもお前だけは田舎者じゃないしな。いつだってシャンとしてて。なんか、貴婦人ってカンジー?」

「何がどうあってもおまえは私を女にしたいらしいな」

「悪いかー」

 呂律の回っていない口でわめく。

「送っていってやるから今夜はもう帰れ、な?」

「……」

 すでに返事がない。完全にツブレたらしかった。そこへセッツァーの父親が寄ってきた。

「……やあやあ、ウチのバカ息子が毎度の事ながらご迷惑かけまして」

「クラウルさん」

 父親も父親ですっかりできあがってしまっている。顔を頭の禿げたところまで真っ赤に火照らせて、たるんだ頬を上機嫌にほころばせている。

「今夜はそろそろお先に失礼します。セッツァーは私がそちらのお屋敷まで送っていきますから」

「やあやあ、いつもすみませんなあ。こいつもあなたのように家庭でも持てば少しは落ち着くかとも思うんですが。全くお恥ずかしい」

 こきおろしながらも可愛くて仕方がない様子。それもそのはず、セッツァーは七人姉弟の末っ子で、クラウル氏が晩年にしてようやく授かった唯一の息子なのだ。

「では、お先に」

「あなたが先に帰ったことを他の方々には私からそれとなく伝えておきますよ」

 そう言われてちょっと見渡すと、領主連中はあちこちでそれぞれできあがってしまってもりあがっている。いちいち挨拶しに行くのは面倒だし、場を白けさせそうだ。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

「こちらこそ、セッツァーをよろしく。おやすみなさい」

「おやすみなさい」





 深夜の外気はひんやりと冷たかった。

 夜露をたっぷりと含んだ水々しい風が火照った頬に気持ちいい。

(……私もかなり酔ってるな)

 とばしぎみの馬車の手綱をひきながら自戒する。

 と、

「……ルイス」

 後部座席から弱々しい声が呼んだ。

「セッツァー。起きたのか」

「気持ち悪い……吐く」

「えっ」

 慌てて手綱を強く引いて馬を止める。キキーッと車輪がきしみ、馬車はガクンと大きく揺れて止まった。起きあがりかけていたセッツァーはつんのめって、額を御者台の背もたれにイヤというほどぶつけてしまった。

「……痛ゥ。全く、おまえの馬車はおまえと同じくカタイ」

「減らず口を叩いてないでさっさと降りて茂みですっきりしてこい」

「へいへい」

 よろよろと道沿いの木立を分け入ってゆく。

「あんまり奥まで行くなよ!」

 分かっているのかいないのか、セッツァーはひらひらと手を振った。

「――大丈夫かな」

 ルイスはひらりと御者台から飛び降りた。二頭の馬がブルル、と顔をそろって近づけて甘えてくる。それぞれの首筋をやさしく撫でてやりながら歩きだす。自分も静かに夜風にあたって少し酔いをさまそう。

 風でザアッっと森が流れた。どこかでフクロウがホゥホゥと低い唄を口ずさんでいる。ふと空を仰ぐと毒々しく紅い満月が雲のはやりゆく空でおぼろげな淡い光 を放っていた。

(昔祖母が紅い満月は魔物を呼び覚ますとかいってたな……)

 そんな昔語りを思い出し、かのような凶々しい情景にしのびよるような恐怖を抱きながらもルイスは

(……しかし美しい……)

 と思わずにはいられなかった。それは罪を犯すときの危険な喜びにもどこか似ていた。 

(罪……か)

 自分は生まれてこのかた、物を盗んだこともなければ人を殺めたこともない。 人の定めた法にふれることはしたことのないつもりだが、果たしてそれだからといって自分は罪人でないと言いきれるだろうか。刃物で人に斬りつけたことがないからといって人を傷つけたことがないとは言いきれないだろう。

「!」

 ふいに背後の茂みが動いてルイスは我にかえった。

「セッツァー?」

「……」

 返事はない。

「おさまったのか?」

「……」

 ただ茂みがガサガサとうごめく。近づいてくるのがわかる。

「セッツァー?」

「……」

 鼓動が早くなる。耳元でドクドクと血の逆流する音がする。ぼうっと熱っぽくなって考えがうまくまとまらない。ちらと馬を見やると四肢を強張らせ荒い息とともに口の端から泡を吹きながら硬直していた。

「……」

「……」

 冷たい汗が全身をつたう。違う。セッツァーじゃない。もっと小柄な何か。もっとすばしっこい何か。 例えば……そう、狼。

「!」

 黒い影が茂みからルイスにとびかかった!振り払おうとするが離れない。

「!」

 首筋に激痛がはしる。喰らいつかれたのだ。黒い影を殴りつけようとするが手足にうまく力がはいらない。もがいているうちに黒い影のすばやい動きにも目が慣れてようやくその姿を確かめることができた。

 ――子供。

(な……!)

 子供はルイスからとんっ…と軽く跳んで離れた。いたずらっぽく笑って少し離れたところからルイスを見ている。

 少し古めかしい型の黒いケープをまとった子供。両耳に紅いピアス、それよりさらに深く紅い光がちらちらと炎のように瞳の中で踊っている。薔薇色の頬、透き通る白磁のような肌。しかしなにより特徴的なのはにっと笑った唇から白くこぼれている長く鋭くとがった犬歯だった。

(まさか…この子は……)

 子供は強いまなざしでルイスをがっちりと捉えたまま無邪気そのものの朗らかな口調で言い放った。

「決めた。おまえにする」

「!」

 子供は跳んで、再びルイスの首筋にかぶりついた。ルイスは何故か指一本さえ動かすことも出来ず、なすがままにされていた。

「……!」

 激痛。いや、痛いというより熱い。血をすすられているのがわかる。

(…吸…血鬼…?)

 声にならない声であえぐように仰いだ空に紅い満月が天頂でひときわ鮮やかに輝いていた。自分の中から何かが奪われていくのがわかった。そして何かが……。意識が朦朧としてきた。視界がかすむ。紅い満月が闇に紅くにじんだ。ルイスはとうとう膝をついて地面にくずれおちた。おかまいなしに子供は吸血を続けている。外界が遮断される。暗くたゆむ海、おそらくは己の意識の海に身をまかせる。黒い波が耳元でまろやかな満ち引きを繰り返す。このままこの海に深く身を沈めよう。そしてこの身の朽ちるままに、融けるままに……。

「――ルイス!」

 突然だった。

 何か光るものを投げつけられて子供がとびのいた。その何かにひどく怯えてじりじりと後ずさる。ルイスもどうにか覚醒しうっすらとまぶたを開く。

「セッ…ツァー…」

 月光ににぶく光る銀のロザリオ。

「貴…様…」

 子供が憎しみのこもった目でセッツァーを睨みつける。動けなくなるセッツァー。が、ありったけの意志の力で怒鳴る。

「ルイス!ロザリオをそいつに投げつけるんだ!」

 のろのろと手をのばすルイス。が、

「――いけない」

 子供の声に無意識に手が止まる。

「――おまえは、それを、手にとってはいけない……」

 動けなかった。子供の声に逆らえなかった。

「ルイス!」

 セッツァーの絶叫。はじかれたように子供の呪縛がとける。

「チッ」

 子供は短く舌打ちして森に逃げ込んだ。セッツァーがルイスにかけよる。

「大丈夫か!」

「……」

 抱き起こされながら大丈夫だ、と笑おうとしたが上手く笑えなかった。

 寒い。

 シャツがぐっしょりと濡れているのを感じる。気が遠くなる。意識の海さえも意識できない。

「死ぬなよ、ルイス!」

 抱き上げたルイスはぐったりと力なく、蝋のように白く冷たくなっていた。それでもまだ生きている証拠に途切れ途切れの荒い息をついている。――ルイスの白いシャツは紅い満月よりまだ紅く、ぐっしょりと血の色に染まっていた。

「ルイス……!」





「これはパースリィ。…じゃあ、これは?」

「うーん、セイジかしら?」

「はずれ。これはローズマリー。じゃあ、こっちは?」

「タイム?」

「違う、これがセイジだよ。タイムはこれ」

「ああ、ちっともわからないわ!」

 かわいくむくれてみせる。メアリー=アンはスカートをつまんで立ち上がると大きく伸びをして緑に萌える春の野を見渡した。

 彼女が立っている丘からは遠くすそのに豊かに葉の茂った葡萄畑や赤い屋根のワイン工房、またはチーズをねかせている小屋や牧場の白い柵、そこで草をはむ牛などが小さなおもちゃのように見えた。

「素敵なところね!どこまでがあなたの領地なの?」

「見えるところは全部。見えないところにもあるよ。」

 ルイスも立ち上がり、メアリー=アンを後ろから抱きすくめた。

「そのうち、湖や果樹園にも連れていってあげる。でも一番にこの丘のこの大樹の木陰を君に教えてあげてあげたかったんだ」

 風が吹くたびに大樹が揺れ、陽光がまばらに煌めき二人を照らす。 

 メアリー=アンは瞳をとじてルイスに甘えるようにもたれかかった。彼女の夫は涼しげな香草の匂いがした。

「……ここはあなたの一番のお気に入りの場所なのね」

「ああ」

 不安そうな夫。街の商家育ちの妻が農地ばかりの田舎でやっていけるかどうか心配しているのだ。

「――私、チーズの作り方を覚えるわ」

「え?」

「とびっきりのワインも造るの。香草の名前も頑張って覚える」

「メアリー=アン……」

 ほっとしたように表情を和ませるルイス。

「こんな遠い知らない土地にお嫁にきちゃって不安だったけど、もう大丈夫」

 重ねた手と手をしっかり握りあう。

 親同士の決めた、双方の事業拡大のための顔も知らない同士の結婚。

 それでも。

「私、この土地を愛せるわ」

 ルイスの腕に抱かれたまま振り向き、自分からも腕をからめて抱きつく。

「そして、あなたを愛せるわ」





「あなた!」

「……」

 はじまりはどうであれ、自分は妻を、メアリー=アンを愛しているとルイスは思う。そしてメアリー=アンもまた……。

「…よかった…もう…眼をあけないかと…」

 真っ赤に泣きはらした目からさらにはらはらと涙がこぼれる。まぶたがはれぼったくなっている。随分泣いてくれたんだな、とルイスは微笑んだ。

「眼があかなくなるのは君のほうだとおもうけど?」

「もう!」

笑いあって少し身じろぐと首筋がズキンと痛んだ。思わずうめく。メアリー=アンは慌てて腰を浮かせた。

「あなた!無理をなさらないで安静にしていなければ!」

「……」

 ルイスは瞳を閉じた。暖かいぬくもりが彼を安らげていた。

 ひどく眠い。

「…君の…夢を見ていた」

「え?」

「あの丘の…あの大樹の木陰で…君は香草の名前なんてひとつも知らなくて…、」

 ルイスがのばした手をメアリー=アンは両の手のひらで包み込んだ。

「…春になったら…コンスタンスを連れて…三人で行こう…あの子にもそろそろ教えてあげなくちゃ…」

「……さ、もうおやすみになって。まずはケガを治さなくては、ね?」

「ああ……」

 すう、と眠りの淵にひきこまれるルイス。

 メアリー=アンは溢れる涙を止めることができなかった。

 ルイスの首もとのシーツは、どくどくと流れ出て止まらない傷口からの血で黒く濡れていた。その広がっていく黒い染みは親子三人でのなんてことのない未来を塗りつぶしていくように思えた。





「ドクター!」

 馬車に乗りかけたところに追いつく。

「おお、君はクラウルさんとこの……」

「セッツァーです、ドクター。あいつは、ルイスはどんな具合なんですか?」

 医者は難しい顔をして黙り込んだ。そして重い口を開く。

「…不思議と生きている、とでも言っておこうか」

「!」

「セッツァー、彼を運んで来たのは君だったね?一体なにがあったんだ?あの傷は、あの噛み痕はまるで……」

「忘れてください。」

「そんな、」

「忘れてください、今晩ここでみたものは全部。」

「しかし君」

「ドクター!」

「――わかった」

 ドクターはセッツァーの剣幕に気圧されて診察鞄を抱えて馬車に乗り込んだ。

「…しかし、悪いことがおこらねばいいが」

「おこりませんよ、何も」

 セッツァーは馬の尻を思いっきりひっぱたいた。

 馬は高くいなないて急に走り出した。

「わっ」

 慌ててしがみつくドクター。馬車はみるみるうちに闇の中を遠ざかっていった。セッツァーはひとり、拳を固く握り立ちつくしていた。





 誰からともなく。

 ルイス=カルパートが吸血鬼に襲われたという噂があちこちでささやかれるようになった。

(医者か…それとも使用人から漏れたか…)

 セッツァーはいまいましげに下唇を噛んだ。

 ルイスの屋敷を訪ねるのは一週間ぶり――あの夜以来だ。

「……セッツァー」

 玄関口で出迎えたメアリー=アンは驚くほどやつれていた。顔色が悪く、たったの数日で何十年も老けたかのようだ。

「大丈夫か、メアリー=アン」

「もう…私…どうしたらいいのか…。あの人の具合はいっこうに良くならないし、使用人達はちっとも言うことをきかないし。昨夜なんか誰かがあの人の寝室に石を投げ込んだのよ。私…、私…」

「しっかり!君がしっかりしなければ!」

 すがりついてくるメアリー=アンをふるいたたせる。

「え、ええ…そうね」

 メアリー=アンは頼りなげにもしっかり自分の足で立った。

「ルイスは?」

「寝室に…」

「石が投げ込まれたのに?」

「言ったでしょ。……使用人は誰も言うことをきいてくれないの。あの人は寝たきりだし、私ひとりではとても…」





「――やあ、セッツァー」

 閉め切った部屋。よどんだ空気。

「暗いな」

 ぶっきらぼうに言い捨てるが、心の中では祈るような気持ちだ。

(頼むから太陽の光が怖いだなんて言い出さないでくれよ……。)

「まぶしいとよく眠れないんだ」

「もちろんカーテンを開けてもかまわないだろうな?」

 念を押すように訊ねる。ルイスは案外すんなりと、ちょっと笑いさえしていいよ、と承知した。

「……」

 シャッとレールの上をカーテンがすべり白い陽光が部屋に満ちた。ベッドの上で半身を起こしているルイスにも容赦なく陽光はふりそそいだ。

「……」

 息を呑んで見守るセッツァー。

 ルイスはちょっと顔をしかめて

「……やっぱりまぶしいな」

 と笑った。

「――ルイス!」

「セ、セッツァー?」

 ルイスはぎょっとして声をうわずらせた。

 彼らしくもない深刻面で見舞いに来た幼なじみは一世一代の博打を打つかのごとくたかがカーテンを開け、そしてベッドの上の半病人に抱きついたのだ。

「…ルイス!…ルイス!」

「ち、ちょっとセッツァー、落ち着けよ。一体何だって言うんだ?」

 ルイスを抱きしめる両腕に一層力をこめてセッツァーは言葉を絞り出した。

「オレは…おまえがもし吸血鬼なんかの化け物になっちまってるようだったらこの手でおまえを滅ぼしてやろうと思ってた。…他の奴なんかに殺らせるもんか。…そう、例えメアリー=アンでも!」

「セッツァー。」

 だだをこねる子供をあやすように背中をポンポン、と叩いてやる。

「――全く物騒な奴だな、おまえは!私を殺すだの殺さないだの……」

 時々、この幼なじみがひどくうらやましくなることがある。純粋なまでの独占欲。一途な感情。

「大丈夫、私は化け物なんかにならない」

 安心させるようににっこりと笑いかける。

「……」

 うまく笑えた、と思う。





「――私は化け物なんかにはなりません」

 炎のゆらめく紅い瞳にもだいぶ慣れた。

 特に今夜はその瞳をきちんとみつめかえすことができた。

「……痩せたな」

 子供は哀れむように、そしてすまなそうにぼそっとつぶやいた。

 子供。

 あの夜ルイスを襲った吸血鬼である。

話は一週間前のあの夜にさかのぼる。





「――起きろ」

 その声には逆らえないことをルイスは知っていた。ふらふらとベッドから起きだす。傷からくる熱のせいでぼうっとしている。頭の芯が麻痺したようにしびれている。ほぼ無意識のうちにバルコニーに通じる大窓に歩み寄り、内鍵をはずす。

 途端、一陣の突風とともに窓がバアン、と弾けるように全開した。おもわず顔を覆った腕をそろそろと降ろすと、いつの間にか、バルコニーの中央に子供が立っていた。

 子供。

 先刻、森でルイスを襲ったあの子供だ。

「邪魔が入ったせいで〈儀式〉が途中だったからな。かえって辛いだろう。」

 足音もなくルイスに近づいてくる。

(……)

 何も考えられなかった。断片的な言葉が脳裏をかすめては消えてゆく。何故?どうやって?ここは二階なのに?

 傷がうずく。

 子供はルイスの前までくるとふわっと宙に軽く舞い上がり、そのまま未だふさがらずに血を流し続けているルイスの喉元の傷口に唇をよせた。

(……)

 黒い海の底、自分が自分でなくなりそして新たな何かに再生する、そんな印象。

(新タナ何カ……?)

 ふとよぎる疑念。新タナ何カッテ何?自分ガ自分デナクナルノ?新タニナル何カッテ何?――例えば化け物? 

「!」

 子供をつきとばす。子供はふいをつかれて地に転がった。

「…私は…、」

 自分で自分の胸をかき抱いてあえぐ。

「……私は化け物なんかには、ならない。」

「!」

「……〈儀式〉とやらが完了したら…私は吸血鬼の一族になってしまうのでしょう?」

 荒い息の下で必死に抵抗する。黒い海の誘惑に、それに身をゆだねてしまいそうな己の弱さに。

 子供はつきとばされたことを怒るふうもなく、立ち上がってケープの裾を払うと静かな口調で言った。

「――いや、おまえにはオレのバトラーになってもらいたいんだ。」

「〈執事〉?」

「そう、〈執事〉。まあ、それにしても化け物の類には入るんだろうけど。」

 子供は大人びた、どこか自嘲めいた笑みに唇の端を歪めた。

 鋭い犬歯があらわになる。

 ルイスはじり、と一歩後ずさった。

「そう怯えるな。」

 子供は困ったように笑った。

「悪かった。オレが急ぎすぎた。ちゃんと話をしよう。」

 子供はルイスにベッドに戻るよう勧めた。ルイスは逆らわなかった。逆らえなかったのではない。逆らわなかったのだ。ベッドに入ってしまえばいよいよ逃げられなくなることはわかっていたが、吸血鬼の言葉の優しさを信じたのだ。そうさせる何かがこの子にはあった。

「オレはチェルノ=インフェルノ=カウント=ドラキュラ。」

 ベッドの横に椅子をひいてきてちょこんとこしかける子供――チェルノ。 ちゃんとルイスとの間に距離をおいている。

「ドラキュラ伯爵家当主で、知っての通り吸血鬼だ。」

 ルイスはチェルノの紅い瞳がゆっくりと琥珀色に変化していくのに気づいた。何度かぱちぱちとまばたきするともう、どこにでもいるあどけない子供のそれになっていた。

「ああ、瞳?」

 バツが悪そうにちょっと目を伏せる。

「〈狩り〉をするときだけ紅くなるんだ。」

「〈狩り〉……。」

 それはつまり吸血するとき、ということだろう。

 重い沈黙の中でもがくようにチェルノは言葉を続けた。

「ふつう吸血鬼に〈狩〉られた者は吸血鬼になるんだけど、〈執事〉は特別。〈執事〉は吸血鬼にはならない。」

「それなら一体何に……、」

「ところでおまえ、吸血鬼の弱点って知ってる?」

「えっ。」

 さらっと言われてかえってとまどってしまう。

「ええっと…太陽の光とか…十字架とか…杭とか…?」

「そう。」

 これまたさらっと肯定してしまう。

「私なんかにそんな大事なことを教えてしまっていいんですか?」

「だっておまえ、知ってたじゃない。あとつけくわえとくとニンニクと海の水も苦手。苦手なだけで灰にはならないんだけど、身動きできなくなっちゃう。」

「……。」

 ルイスはぽかんとして穴のあくほどチェルノの顔をただ見ていた。この子といると調子が狂う。相手は恐ろしい吸血鬼であるはずなのに、気がつくと惹きこまれている。

「つまりね、」

 チェルノはまた困ったように笑った。

「意外に思うかもしれないけど、吸血鬼って案外弱くてもろい生き物なんだ。」

「……。」

「日中は深い眠りにつくから全くの無防備だし、夜だって夜明けに怯えながら〈狩り〉をする。そんなに時間があるわけじゃないから上手い具合に獲物がみつからなくって空きっ腹で柩にはいるのもめずらしくない。それに時々人間は思い出したように吸血鬼狩りをするだろう?人間は朝も昼も夜もおかまいなし、いつだってオレ達吸血鬼は消滅の危険にさらされてる。」

「……。」

 だから、とチェルノは語気を強めた。

「だからオレ達吸血鬼はたったひとりの〈執事〉を選ぶ。〈執事〉は〈執事〉であって吸血鬼ではないんだ。太陽の光を浴びても灰にならないし、吸血をしなくても生きていける。十字架も平気、海の水も平気。ニンニクは……まあ、好みにもよるけどとりあえず平気。そう…つまり…、」

言葉を探して宙を睨む。

「うまく言えないんだけど…そうだな、自分の中を流れる時間を止めて当主と、オレと生きるんだ。年をとることもなく、まして死ぬこともなく。」

「……。」

 チェルノと生きる。吸血鬼に仕える。それはつまり人間を、なにより妻や娘や友人といった今ある自分のすべてを裏切ることになるだろう。

「……。」

 黙りこくっているルイス。吸血鬼そのものになるのではないとしても先ほどチェルノを拒んだことを、〈儀式〉を拒んだことを撤回する気にはなれなかった。

 と、チェルノがつぶやくように言った。

「――おまえは死ぬ。」

「え……?」

「オレと生きることを…〈執事〉になることを選ばなければおまえは死ぬ。」

 つらそうに目をそらしたのはチェルノのほうだった。

「おまえは〈儀式〉が完了していないからまだ〈執事〉じゃない。つまりまだ人間なんだけど、普通の人間だったらもうとっくに死んでておかしくない状態でもあるんだ。〈儀式〉ってのは人間が生きているうちには決してつかうことのない能力をひきだすものなんだ。今は先だってオレが少しだけ目覚めさせたそれがおまえを生かしているけれどもこのまま放っておけばそれにも限界がくるはず……。」

「そんな……!」

 愕然とする。裏切りか、死か。

 残された選択肢は残酷な救いようのないものだった。

「――今夜はもう帰る。」

 チェルノは黒いケープを風にひるがえしきびすを返した。

「このままのおまえだとだと一週間かそこらが限度だと思う。オレは明日の夜もあさっての夜もその次もそのまた次の夜も来る。一週間通い続ける。一週間目の夜、もう一度返事をきかせてくれ。」





 そして一週間目の夜が今夜だ。

 ルイスの決意は変わらなかった。

 むしろ今日になっていよいよ確かなものになった。

「――私は化け物なんかにはなりません。」 

 チェルノは悲しそうな瞳でルイスを見ていた。もう〈狩り〉をどこかで済ませてきたはずの炎のゆらめく紅い瞳は満たされないかげりを帯びていた。

「私は妻や娘や友人、私を慕ってくれている者たちを裏切れません。彼らをおびやかすものには、仇なすものにはなれません。」

「……そして死を選ぶのか。」

「はい。」

 驚くほど自然に笑えた。意図したのではないが、笑えた。

「……十字架にかけられたキリストはきっと今のおまえのような笑顔をうかべていたんだろうな。」

 目を閉じ、眉をひそめて天井を仰ぐ。唇をかみしめ、泣くのをこらえている。涙声が震え、かすれた言葉を途切れ途切れにつむいだ。

「……我々吸血鬼には知る由もないが。我々は決して神の子を、そして神を仰ぎ見られないのだから。」

 チェルノはくるりと背を向けた。

 バルコニーに続く窓はここ一週間夜毎大きく開いていた。明日からは一陣の風とともに現れる来訪者を迎えることもなくなる。まもなく外を望む部屋の主――自分もいなくなる。大窓はかたく閉ざされたままになるのだろう。

 そんな感傷とともに眺めたチェルノの背中は頼りなくはかなげだった。

「――すまない。」

 消え入るような細い声。ともすると海鳴りのような夜風に揺れる木々のざわめきにかき消されてしまいそうだ。

「……森でおまえをみつけて、」

 息をするのも億劫そうにのろのろと話す。

 背は向けたまま。振り返らない。

「……オレの〈執事〉はこいつだと思った。理屈じゃなくて全身全霊で感じたんだ。運命……なんて言葉、吸血鬼のオレが使ったらおかしいかな?」

「……。」

 夜の闇に光る滴が散り、そして砕けた。

 涙?

 誰が為?

 ――自分の為、だ。自分の為に泣いてくれているに違いなかった。

「……オレ、おまえを死なせたくない……。でも、もうとりかえしがつかないんだな。ごめん…謝って済む事じゃないけど…ごめんね、ルイス。」

 チェルノはついに振り返ることなくバルコニーから跳んで闇の中に姿を消した。

(…これで…終わったんだ…。)

 空虚感。何故?これでよかったんだ。化け物にはならない。妻子や友人を裏切らずにすむ。満足してしかるべきなのにこの胸の痛くなるほどの喪失感は一体……?

 ――死期はルイスに確実に迫っていた。





 石が窓を砕く。

 バルコニーから腐敗臭が漂ってくる。陰湿な嫌がらせはたえることがなかった。カラスや黒猫の無惨な屍が部屋の中といわず外といわず投げ込まれる。

 使用人達でさえ彼の味方ではなく、家事は放棄され、ルイスは食事さえまともにとれていなかった。

「……。」

 今日もまた、スープにどぶネズミの死骸が沈められていた。ルイスは軽いため息をついてそのしっぽをつまむと床に投げた。べちゃっという不愉快な音とともに埃の塊のめだつ絨毯にシミがにじむ。

 彼はスープを飲んだ。

 どぶネズミ入りでも口をつけないわけにはいかなかった。スープが与えられるだけマシなのだ。枕元の水差しの古くなった水だけで幾日もしのいだことさえあった。

「……。」

 いっそ死ねたらさぞかし楽なことだろうと思う。

 それでも自分は生きている。生きようとしている。

 何故だろう?



 



「――父様、泣いてるの?」

 幼い声が心配そうに訊ねた。

「……コンスタンス。」

 いつの間にか戸口に、娘のコンスタンスが立っていた。いつもするように右手の親指をしゃぶり、左手でスカートを握りしめて立っている。

「父様泣いてるの?痛いの?悲しいの?」

 歩み寄ってこようとする。

「コンスタンス!」

 怒鳴られてビクッと足を止める。

「――ごめんね、怒鳴ったりして。この部屋に入って来ちゃいけないよ。ガラスが割れていて危ないからね。」

 ルイスはこのときばかりは閉め切ったままの暗い部屋に感謝した。虫のわいたどぶネズミやカラスの死骸など子供の見るべきものではない。

「どうしたんだ、コンスタンス?父様に何か用なのか?」

 苦しい息を押し隠して微笑みかけてやる。

「う、うん。」

 あのね、と小さな愛らしい唇は残酷な仕打ちをつきつけた。

「――!。」

 あのね、母様とふたりで母様の生まれ育ったお家に行くの。だから父様にお別れのごあいさつをしていらっしゃいって母様が言ったの……。





「…は…はは…っ。」

 ルイスはベッドの上でうずくまり、シーツを固く握りしめた。乾いた笑いとともにみひらいた眼から涙がぽろぽろと絶えることなく落ちた。

 自分はもう、何もかも失ったのだ。裏切ると裏切らないとに関わらず。



 ドウシテ生マレテキタノ?



 わからない。

 もう何も、考えたくない。

 ――その日、ついにルイスはスープに口をつけなかった。





 死なない。

 まだ死なない。

 やはり…、

 やはり…、

 ――やはり、殺さなければ。

「……?」

 咳き込んで目が覚めた。

 重いまぶたを力無く開くと、

「!」

 部屋が燃えていた。

 くらくらするような油の臭いがする。異常に火の廻りが速い。絨毯を舐め尽くし、カーテンを駆け昇る炎。黒い煙が部屋の闇に濁っている。

 誰かがルイスを焼き殺すために火をかけたのだ。

 いや、誰かという個人ではなく集団の総意だろう。

「……!」

 ルイスは力を振り絞ってベッドから這いでようとした。

 が、急にあきらめて再びベッドに身を沈めた。

(…逃げて…一体どうするんだ?)

 自分は全てを失ったのだ。これ以上生きていく意味もわからない。

 何より、やっと死ねるのではないか。

 例え死がどんなものであっても今のこの現実よりはマシであるに違いなかった。ルイスは目を閉じた。

(…熱い…。)

 火の粉がふりかかっているのが、わかる。

 ジリジリと身体が焦がされていくのが、わかる。

 血の焼ける、いやな臭いがする。

「……。」

 不思議ともう怖くはなかった。炎も、死も。

 いい加減、終わりにしよう。疲れた。

 今はもうただ静かに眠りたい……。

 ――刹那、

「ルイス!」

 溶けかけた窓を突き破って飛び込んできたものがあった。

 ガシャーン、という凄まじい音に、意識のうすれかけていたルイスも覚醒する。

「ばかっ、なに呑気に居眠りなんかかましてるんだッ!」

 黒いケープ、紅いピアス、炎のちらちらと踊る紅い瞳。

 チェルノ=インフェルノ=カウント=ドラキュラ。

 二度と会うことはないと思っていた愛すべき――そう、愛すべき吸血鬼。

「な…なぜ…、」

「ああ、こんなにみっともなく痩せちゃって!」

 少し涙ぐみさえしている。早口に言葉を接ぎながら、チェルノは驚異的な力で軽々とルイスを肩にかつぎあげた。

「城からこの屋敷が燃えているのが見えたんだ。イヤな予感がして来てみればこのザマだ。おまえんトコ使用人や家人に一体どんな躾をしてるんだ?」

 天井がギシ、ときしんだ。

「…伯爵…、この屋敷はもう崩れます…私をおいて逃げてくださ…、」

「バカを言うな!」

 ぴしゃりと叱りつける。

 しかしいくらチェルノの力が驚異的であっても大人と子供の体格差はどうしようもなく、ルイスをかついだチェルノはバランスがうまくとれなくてフラフラしていた。

 いつもの身軽なチェルノならともかく、ルイスを連れて逃げるのは難しいに違いなかった。

「私は…もう…。」

「バカっ。ばかばかばかばかばかばかっ。」

 顔を真っ赤にして怒る。紅い瞳からぽろぽろと涙が溢れていた。 

「言ったろう、オレはおまえを死なせたくないんだっ。一週間ぐらいしか生きらんないかと思ったら今まで生きてこれた。おまえは死なない。おまえは絶対助かる。オレが助ける。――この命にかえてでも!」





 ガシャーン、と窓の割れる音がした。

「!」

「御主人様の寝室のほうからだ。」

「まさか窓から逃げる気か?あの身体で?」

「おまけに二階だぞ。」

 使用人達は屋敷から少し離れた庭園の一角で祝杯をあげていた。

 化け物を退治したという己らの武勇に酔っている。かつての御主人様を殺したことに対する罪悪感は、ない。

「…いや、いくら弱っていても化け物だもの、逃げ切るかもしれん。」

「やはり、とどめをささなければ……、」

 各々、半ば予想していたらしく、銀の弾丸をこめた銃や先をとがらせた杭や十字架といった対吸血鬼の凶器を手に立ち上がる。

 もちろんロザリオや聖水も忘れない。





「おい、見ろ、バルコニーに人影が!」

「御主人様か?」

「いや、もうひとり…子供…?子供が御主人様をかついでるんだ!」

「まさか!」

 火勢は近寄れないほどに激しく強くなっていた。いまやルイスの寝室だけでなく、屋敷全体を炎が包んでいる。

 使用人達は遠巻きに取りまいていたがそれでも火の粉がふりかかる。

 と、炎に包まれたバルコニーの人影がゆらり、と動き、

「!」

 子供…チェルノがルイスをかつぎあげたままひらり、とバルコニーの手摺の上に跳びあがった。

 迫りくる炎を気にもとめず辺りを包囲している使用人達を悠々と見下ろす。 黒いケープが狂ったように熱風にはためき、両の眼は遠目から見てそれとわかるほど紅く爛々と輝いている。栗色の髪までもが背後に迫っている炎に透けて紅く、吹き荒れる熱風に踊っている。

「――去ね。」

 決して大きな声ではかったにもかかわらずその短い一言はそこにいた全員を震え上がらせた。

 萎えた闘志をかかえてそれでもぐずぐずと足踏みしている使用人達にチェルノは唇だけでにいと笑いかけた。

「去ね、というのだ。言っとくがオレは気が短い。」

 唇の端がまくれあがって長くのびた鋭い犬歯があらわになる。

「ヒッ」

 人の群が左右に割れ、すうっと一本の道が通った。

 夜の闇に続く道。

「――来たか。」

 そうつぶやくとチェルノは、ぽーん、と足元を蹴って跳んだ。

「!」

 燃え移った炎を手足にまとい、紅く透ける髪から火の粉を散らす黒衣の吸血鬼。割れたガラスの熱せられたかけらが滴のような小さな玉になりきらきらと炎を乱反射して吸血鬼の跳んだ軌跡を闇に記す。

「……。」

 凄惨、壮絶ながらに美しい光景を目の当たりに、人々はただひたすら息を呑むばかりだった。

 吸血鬼は身軽に地面に降り立つと人垣の間に出来た道を、ルイスを抱えたまま悠然と歩いていった。

 人々は立ち尽くし、ただただ見送るばかりであった。

 道ならぬ道の果て、闇にとけこむあたりにいつ来たものか、見事な闇色の四頭の馬がひく闇色の馬車が吸血鬼を待っていた。

 御者台には誰もいない。

 しかし吸血鬼が乗り込むと、馬車はすべるように走り出した。

 ――まっすぐ、ドラキュラ城を目指して。





「……。」

 前時代の燭台が頼りない、しかし暖かい炎で室内をぼんやりと照らしている。 こんなふうにやさしい炎もあったのだ、とルイスは思った。

 ひどく眠い。うまくものが考えられない。

 チェルノがそっとルイスの首筋から唇を離した。

「……、」

 何か言いかけたルイスをそっと制する。

「……何も言うな。くたびれただろう。今はとにかく休め。眠るんだ、深く、長く。」

 またあのさからえない声だ。高圧的?いや、『なあ、いいだろう?』というような。哀願にも似た響きを持つ、こちらがせつなくなるようなあの声。

(……。)

  外界が遮断される。暗くたゆむ海、おそらくは己の意識の海に身をまかせる。黒い波が耳元でまろやかな満ち引きを繰り返す。

(……。)

 ああ、と思い当たる。これは〈儀式〉だ。今まで必死に拒んできた〈儀式〉。

(……。)

 もう拒まない。拒む理由もない。しかしだからといってすすんで享受する気にもならない。もう何もかもどうでもいいのだ。なるようになればいい。

 ルイスは自分以外のものに自分をゆだねることにした。とりあえずは眠り。 チェルノが言うように深く、長い……。





 ドウシテ生マレテキタノ?

 ドコヘ行クノ?

 ドウカ教エテ。





 トランシルヴァニア地方は迷信深く、信仰は人々にとって必要にして不可欠なものだった。

 ルイスにしてみても幼い頃から祖母に連れられて教会に通っていた。

 祖母。

 父は商用で家を空けることが多く、母はルイスを産んで十日目に亡くなっていた。ルイスは祖母に育てられた。

「ルイス、いい子にしているんだよ、いつだって神さまはちゃんと見てるから。」

 祖母は敬虔なクリスチャンだった。

 そのことはルイスを少なからず苦しめた。

 『神さまはちゃんと見てる』というのは祖母の口癖だった。彼女は良いことも悪いことも、全て神の手によるものであるから、と享受していた。

「どんな小さなことにもきっと神さまの御意志が働いていて、何かそれは大きな意味を持っているんだよ……。」

 病の床で最期の時を迎えたその時でさえ彼女は微笑んでいた。悪性の腫瘍が身体のあちこちにできて、息をするのも苦しいに違いなかった。それでも彼女は微笑んでいた。その痛みさえ神の賜物であると思っているらしかった。 そう、彼女は感謝さえしていた!

「……。」

 そんな祖母がありながら、ルイスはどうしても神を信じることができなかった。神の御意志なるものをかけらも意識することができなかった。

 神の存在を感じられないことはルイス自身にとって全くの不幸だった。



 ドウシテ生マレテキタノ?

 ドコヘ行クノ?



 気がつくとルイスは途方に暮れていた。物心ついいたときからいつも、ひょっとするとその以前から、途方に暮れていた。

 何をすればいいか、わからないのだ。

 ――そう、自分は良い息子、良い友人、良い夫、良い父親、良い領主であった。他人はそう褒めそやしてくれるがルイスは力なく曖昧に笑うばかりである。己の意志ではなく機械的に動いただけ、何の感慨もわいてこない。

 唯一何かつのるものがあったとすればそれは、罪悪感。

 自分は周囲の人々を騙している。自分は良い息子、良い友人、良い夫、良い父親、良い領主のフリをしているだけだ。全てを愛しているようで何も愛していない。愛せない、愛しているフリ。

「ルイス、いい子にしているんだよ、いつだって神さまはちゃんと見てるから。」

 祖母の言葉に黙って頷いていた。ものわかりのよい良い子のフリをして。

 あの頃からずっと、血肉を蝕むような罪悪感にさいなまれている。

 馬番の青年のように妻を一途に愛せたら。

 セッツァーのように友人に一途な感情を抱けたら。

 ――祖母のように神に絶対的な信仰心をもてたなら。



 ドウシテ生マレテキタノ?

 ドコヘ行クノ?



自分がわからない。

 生きている意味が、わからない。





「あら、チェンバロ。」

 彼方から、風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる旋律。黒衣の婦人はしばしうっとりとその微かな音に耳を傾けた。彼女も吸血鬼一族、チェルノの叔母にあたる。人並みはずれた聴力などは当たり前だ。

「ルイスが弾いているんです。」

 誇らしげに声をはずませる。そんな様子はおもちゃをみせびらかす子供のそれにも似ていた。

「ルイス?…ああ、あなたの〈執事〉ね。」

 チェルノは叔母の言葉に急に表情を曇らせた。

「いえ…彼は…、」

「違うの?〈儀式〉は済ませたのでしょう?」

 それはそうなのですが、と語尾をにごす。





「――チェルノ様。」

 旋律がふつ、と途絶えた。背後の気配にルイスが振り返ったのだ。

「…不思議だな。おまえは吸血鬼の一族でもないのに、オレの気配を察知する。」

「後ろからイタズラしようとしてもだめですよ。」

「……。」

 チェルノはつかつかとルイスに歩み寄ると

「チェ、チェルノ様!」

 ルイスのシャツの襟元をぐい、とはだけさせた。なめらかな首筋があらわになる。

「――オレの噛み痕も消えたな。」

 つぶやく。

「すっかり身体も回復して、そのへんの人間と変わらない。〈儀式〉を済ませたといってもおまえは〈執事〉だから太陽の光を浴びても灰になんかならないし、吸血することなく生きていける。年をとらないことを除けば普通の人間と変わらない。教会で祈ることさえできる。」

「チェルノ様……?」

 チェルノはルイスに話しかけているようでそのくせ、独り言のように淡々と言葉をならべていた。

「年をとらないことなんてどうにでも誤魔化せる。女は化粧で老いを隠してるじゃないか。いいか、でも大きな怪我なんかには気をつけろ。〈執事〉はその役割上丈夫にできてるからな。普通なら死んでてもおかしくないような怪我でもワルツの二曲や三曲踊れるんだ。それと…、」

「チェルノ様!」

 ルイスの一喝にビクッと身をすくませる。

「――一体何の話ですか?」

 ルイスはいつもの穏やかな口調に戻って尋ねた。

「……。」

「チェルノ様?」

 チェルノはぐっとルイスの眼を見据えて言った。

「…おまえは家族のもとに帰るんだ。」

「!」

 一瞬驚くが、

「……だめですよ、チェルノ様、私をからかおうとしても。」

 どうにか動揺を押し隠して微笑ってみせる。

「――オレは本気だ。」

 チェルノは固い表情を崩さない。ルイスも真顔になる。

「私は〈儀式〉を済ませてあなたの〈執事〉になったんですよ?」

「……でもまだ何もやってない。せいぜいチェンバロを弾いてたくらいだ。」

「……。」

 黙り込んでしまったルイスをチェルノはやさしくとりなした。

「気にするな、おまえが役立たずなんじゃない、オレがおまえに何もさせなかったんだ。」

 つまりな、と幼子に言って聞かせるように話す。

「つまりな、おまえはおまえの妻や娘や友人を裏切るようなことは何もしてないんだ。忌まわしい我々の血塗られた罪に加担するようなことは一度としてなかったのだから。」

「もう私は全てを…、」

「聞けばおまえの妻の実家は迷信に疎い地方にあるそうじゃないか。ここトランシルヴァニアではもう無理かもしれないが、我々吸血鬼が知られていないところでならいくらでもやりなおせるさ。」

「でも…私は…あなたの〈執事〉として…、」

 ルイスは自分の言葉に心がこもっていないのを認めないわけにはいかなかった。

「――待つよ。」

 チェルノは言った。

「だからオレ、待つよ。」

 愛すべき笑顔。

「おまえは人間としての一生を全うしてくればいい。妻を愛し、子を愛し、友を愛し、人間として思う存分生きてくればいい。その後で……もしオレとオレの〈執事〉として生きていってくれるつもりならそれはその後でいい。」

 琥珀色の瞳が不安定に揺れた。うるんでいるようにも見える。

「……。」

「行って来い、ルイス。」

 ルイスが戻らないことを見越しているに違いなかった。

 それでも。

 それでもチェルノはルイスを見上げて笑った。

「――また、な。」





 パースリィ、セイジ、ローズマリー、タイム……。

 この丘の、この大樹の陰。

 木漏れ日が幾筋もの光の筋となってふりそそぐ。大樹に茂る葉のひとつひとつが生命の息吹を思わせる力強い緑に萌えている。

(もう春だったのか……。)

 初めてチェルノと出会ったのは秋の終わりの収穫の時期だった。館を焼け出されたのが冬のはじめ、〈執事〉になるための〈儀式〉をうけたのは初雪の積もる頃だった。

(吸血鬼、か。)

 思えば哀れである。人々は強大な背神的悪として恐れ、忌み嫌うが、実際は陽光や十字架に怯えながら悠久にも近い時間を闇の中で忍ばなければならない孤独な一族である。

 彼らは風かおる丘も花咲く小道も知らない。

(……いつかチェルノ様が言ってたっけ。)

 オレは、オレ達吸血鬼一族は光を恐れながらもそれの創りだす色鮮やかな世界に強く、それはそれは本当に強く憧れているんだ。

「――この城に風景画が多いのはそんなわけなんだ。」

 眼を細めて一枚の色あせた古い絵を眺めていたチェルノ。彼ら吸血鬼の知る空や海、そして緑は城にあるいくつもの絵画のようにどこか埃っぽく、そして実在感をともなわないのだろう。

「……。」

 気がつくとチェルノのことばかり考えていた。

 ゆっくりとかぶりをふって甘い感傷をしめだす。忘れなければ。


 ドウシテ生マレテキタノ?

 ドコヘ行クノ?


 愛されるだけで愛せなかった。また周囲の人々を騙し、罪をかさねてゆくだけでもいい。

 やりなおそう。

 吸血鬼を知らない土地で、妻が、子が、メアリー=アンやコンスタンスがいる場所でやりなおそう。

 偽りの幸せを築くだけかもしれない、ならばその偽りを貫こう。せめてもの償い、そしてとりあえずの生きていく意味。

 忘れるのだ。

「……。」

 また親子3人で静かに暮らそう。吸血鬼なんか悪い夢だったのだと笑いとばして。

(吸血鬼なんか……。)





「……あなた。」

「――メアリー=アン!」

 チェルノにもらった金貨をはたいて馬を買った。早く逢いたくて、早くメアリー=アンやコンスタンスのいる家に帰りたくて飲まず食わずで十日あまりの旅路を急いだ。馬が疲れて走れなくなっても立ち止まりたくなくてひとり、歩き続けた。トランシルヴァニアを発って真っ直ぐここを目指してきた。 ここ、妻と子がいるところ、愛する家。

 メアリー=アンの実家にたどりついたのは十何日目かのすっかり夜が更けた頃だった。

「……トランシルヴァニアから伝達がきたの。あなたがこっちに向かってるって……。」

 メアリー=アンはポーチに立ってルイスを待っていた。

 夜の闇のせいで表情はよくわからない。

 やけに肌が青白く、どこか夢うつつに単調な言葉を紡いでいる。

「…おぼえてる?あなた、このポーチで私にキスをしたのよ?二年目のクリスマスだったわ。従姉妹達も遊びにきてて…。」

「メアリー=アン……。」

 胸が詰まってうまく言葉が出てこない。愛してる、と今なら心から言える気がする。

「…トランシルヴァニアはひどい悪夢だったわ…吸血鬼だとか何とかで。…使用人達はちっとも言うことをきかなくなるし…恐ろしい嫌がらせは絶えなかったし。」

「終わったんだよ、メアリー=アン。」

 ルイスは熱いものがこみあげてきて声の震えを止めることができなかった。

 一歩、一歩、メアリー=アンに歩みよる。

「何もかも終わったんだよ、メアリー=アン。コンスタンスは元気かい?香草の名前を教えてやらなきゃ。パースリィ、セイジ、ローズマリー…、」

 両腕を広げる。彼女を、抱きしめよう。彼女のぬくもりを、確かめよう。 自分が今まで、そしてこれから抱いてゆくものを。

 偽りの幸せ?

 ――いいではないか、それでも。貫き通せばそれもまた真実となりうるだろう。

 しかし。

「……何故?」

 拒絶。

 冷たく放たれる言葉。      

「何故、私たちを放っておいてくれなかったの?私たちの前に姿を現したりしたの?」

 悲痛な叫び。

「私、もう疲れたのよ……終わりにしたいの。」

 合図のようにすっと白い手があがった。

「!」

 ボッという炎の燃え上がる音とともにいつのまにか周囲を取りまいた大勢の姿が闇にうかびあがった。武器を構えた人々が手に手に持った松明で一帯があかあかと照らし出される。

 こわばったメアリー=アンの表情も、その頬につたう涙もいまはしっかりとみてとることができた。

「…吸血鬼なんて迷信、信じてなかった。信じたくなかった。トランシルヴァニアの使用人達から火事のことや不気味な子供の話を聞いても信じられなかった。可哀想なあなたを殺してしまったことに言い訳めいた偽造ごとをしてるんだと思ったわ。」

「……。」

 ねえ、とメアリー=アンはたのみこむように言った。

「ねえ、あなたはトランシルヴァニアの片隅で永い眠りについているはずなのよ?私たちがあの屋敷を出たときあなたは死にかけていたし、使用人達はあなたを殺したのだから。生き延びられたはずがないじゃない。ねえ、そうでしょう?」

 そこでメアリー=アンは急にふ、と口をつぐむと肩の力を抜いて――そして微笑んだ。

「でも…うれしいわ…あなたにまた逢えて。つらくて…コンスタンスを連れて逃げ出したけれど…愛していたの。」

 メアリー=アン先をとがらせた銀の十字架を構えた。

「本当よ、あなた。愛していたの。今だって……。だから、もしあなたが吸血鬼とやらだとだというなら。愛を知らない、交わせない化け物なんかになってしまったのだというなら。」

 ゆっくりと歩み寄ってくる。そのどこか儀式めいた動作はヴァージンロードを歩く花嫁を連想させた。

「――私がこの手で、殺してあげる。」

 ルイスは目を閉じた。

 愛を交わせない化け物。

 偽りの幸せさえ望むべくもなかったのだ。

 償い。

 償いは償いによってしか成立しない。自分に都合のいいそれはすでに償いではない。



 ドウシテ生マレテキタノ?

 ドコヘ行クノ?



 愛は、至上のものである。愛があるからこそ人は、いや生きとし生けるものは栄え、増え、続いてゆくのだ。愛なきものが愛あるものに淘汰されるのは当然のことなのだ。不穏分子は排除してしかるべきだ。愛を求めるだけ求めて生き続ける、なにもうみださないそれは生命として許されない。

「……。」

「さようなら、あなた。」

 松明の光をうけた銀の十字架がビュンッと宙にうなった。

 ――刹那、

「ルイス!」

 黒い影が闇からふってでて、ルイスを突き飛ばした。

「う……っ!」

 布の裂ける音、何かの焦げるジュッという嫌な音。闇にさらさらと散る灰。

「――チェルノ様!」

 チェルノは左腕を抱え込み、ルイスの足元にうずくまった。

「子供……?」

 呆然と立ちつくすメアリー=アン。

 銀の十字架はチェルノのケープを切り裂き、左腕に痛ましい十字紋の火傷をのこした。腕はそこだけえぐられたようになって、かつて血肉だった灰が黒くこびりついている。

「チェルノ様…何故ここに…?」

「ごめん…あとつけたりして…。でもなんか心配だったんだ…イヤな予感がして…落ち着くまで見守ろうと思っ…て…。」

 銀の十字架は腕をえぐっただけでなく、チェルノになんらかの付加作用を及ぼしているらしかった。

「何か…眼ェかすんできた…。全く…おまえはばかだよ…何度言ったらわかるんだ、オレはおまえを死なせたくないって…。」

 肩で荒い息をついている。くずれおちるチェルノをルイスは慌てて抱きとめた。

 と、誰かが叫んだ。

「子供だ!その子供だ!火事の時の!」

「そうだ!吸血鬼だ!」

 トランシルヴァニアからの応援も来ていたらしい。

「滅ぼせ!」

「滅ぼせ!」

 人垣がオォ、と吼えた。

「……オレ、ここで死ぬのかなァ。」

 ルイスの腕の中、チェルノは微笑う。

「…腕から灰になるのか…人間に殺されるのかわかんないけど。…ああ、なんかおまえってあったかいなあ…。変なの。全然死ぬのは怖くないよ。ただ残念だ……おまえと生きていきたかったのに。」

「私と…生きる…。」

 さあ、と腕の中で弱々しくもがく。

「さあ、オレのことはもういいから……逃げて、ルイス。」

「……。」

 何かが、ルイスの中で目覚めた。それはある衝動のようなものであったか。

「――ひとつ、答えてください。」

「んー…?」

「私とあなたがともに生きていくとして、なんのために生きていくのですか?どこへ行くのですか?」


 ドウシテ生マレテキタノ?

 ドコヘ行クノ?


 そんなの、とチェルノは無邪気に笑った。

「……そんなの、わかんないよ。生まれた意味は?生きてく意味は?ってことだろう?」

 キツイなあ、とつぶやいたのは身体のことだろうか。それとも……。

「オレ達吸血鬼は創造主である神に背きながらも存在している。生きてるんだ。ほかの生き物の生命を奪いながら、ね。人は死んだら神の国に逝くらしいけど、オレ達吸血鬼には何もない。オレ達の終わりは消滅であり灰になることでしかない。」

 でも、と息を接ぐ。

「でも、生きてるんだ。許されない存在でも何でも生きてる。」

 ぎゅっと拳を固める。

「わかんないよ、生まれた意味も、生きてく意味も。」

 チェルノは泣きだしていた。迷い子のようにただなきじゃくる。

「でも、」

 ルイスにしがみつく指に力がこめられた。

「でも、おまえとなら。おまえと二人なら生きててもいい気がする。ううん、生きてたいと思うんだ。だっておまえはオレの選んだ〈執事〉だもの。生まれた意味とか生きてく意味とかそんなこと、そのうちみつけていけばいいんじゃないかな。オレ達に生き急ぐ必要なんてないもの……。」

 チェルノは眉根をひそめた。いよいよつらくなったらしい。

「……。」

 ルイスはチェルノを抱いたまま立ち上がった。

 腕の中のチェルノをのぞきこんで笑いかける。

 意志の光のある、強いまなざし。

「チェルノ様。」

「――ん?」

「先刻あなたは御自分を見捨てて私に生きろ、とおっしゃいましたね。」

「――うん。」

「イヤです。」

「――え?」

 ルイスは歩き出した。ゆっくり、力強く。

「私はあなたとともに生きたい。」

「!」

「あなたは?」

 チェルノはほんのりと頬を桃色に染め、はにかんだ笑みをうかべ、

 そして――、

「オレも!」

 とルイスの首にかじりついた。

 そんなチェルノをルイスは一層かたく抱きしめた。

「あな…た…、」

「――さようなら、メアリー=アン。」

 もう、迷わない。いや、今から迷うのか。存分に迷うのだ、止まった時の中で。

 ただ。



 ドウシテ生マレタノ?

 ドコヘ行クノ?



 ただ、もうひとりでは迷わない。





「これはパースリィ。……じゃあ、これは?」

「クローバー。」

「はずれ。これはローズマリー。じゃあ、こっちは?」

「クローバー。」

「違うわよ、これはタイム。……全く、あなたは何でもクローバーね!」

 若い母親はふうっとため息をついた。

 と、大樹の陰からくっくっという忍び笑いが漏れた。

「あら。」

「――失礼。おちびさんの様子があまりにも可愛らしかったもので。」

 黒ずくめの服、でも穏やかな印象の紳士。春も半ばなのに暑くないのかしら。それにしてもイイ男だわ。……等々、若い母親は思いをめぐらせた。ふいに、紳士がたずねた。

「おいくつになるんですか?」

「え?あ?あ、あの、今年で二四になります。」

 紳士はまたおかしそうに笑った。

「おちびさんの年を訊いたつもりだったのですが……。」

「あらやだ。五歳です、五歳。ほら、ルイーゼ、ごあいさつなさい。」

 赤面。ごまかすように娘に礼を強いるが、ルイーゼはぷい、とふくれてかけていってしまった。

「もう、あの子ったら!……すみません。」

「いえいえ。……隣に腰を下ろしてもかまいませんか?」

 紳士は高そうなスーツに草の汁がつくのを気にする様子もなく、緑の苔むした地面に座り込んだ。

 黒い、あたたかい光を宿した瞳がやさしく笑いかけていた。

「父が――、」

 言葉は自然と口をついて出た。

「は?」

「いえ、あの、私の父が若かった頃はあなたみたいだったのかなってちょっと思ったんです。」

「あなたの……お父様?」

「はい。」

 手元に生えている香草をいじりつつ答える。

「私がまだあの子……ルイーゼぐらいの時に亡くなったんでよく覚えていないんですけど、母からよく聞かされて育ったんです。『あなたのお父様は黒髪黒瞳の、凛とした人だった。』って。私の名前……コンスタンスってつけたのも父なんですって。いい名前でしょう?香草の名前も、母が父から習ったものをうけうりで私に教えてくれたんです。」

「……。」

 紳士は昔を懐かしむような遠い眼をした。

 長い長い年月を経てきた、そんなを深さをもった眼だった。

「……おかしいですよね、私とほとんどかわらないくらい若いあなたに覚えてもいない父の面影を見るなんて。」

 若い母親は明るく自分の言ったことを笑い飛ばした。

「……そうですね。」

「おいくつなんですか?」

「……え?」

「このあたりの方じゃありませんよね?この土地には観光で?」

 紳士はひとつひとつ、言葉を選ぶようにして答えた。

「いくつに見えます?」

「えーっと、二四、五ですか?」

「はずれ。実はもう五十をとうに超えているんです」

「やだ、冗談ばっかり。どう見ても三十前ですよ。私よりお若いに違いないわ!」

 若い母親はころころと楽しそうに笑った。紳士も笑ったが、その笑いはどこか寂しげだった。紳士はつぶやく。

「…わたしがここへ…この大樹の木陰に来たのは…、」

 風がザア、と吹き抜けた。

「――え?すいません、よく聞き取れなかったんですけれども今何て……?」

「……。」

 紳士は立ち上がって空を仰いだ。ゆるやかになった風が頬を撫でてゆく。

「……私がここへ来たのは、昔愛した人がここにいたからなんです。」

 今度はきっぱりした声が澄んだ空気に響いた。

「まあ、何て方?こんな田舎町ですもの、私の知ってる人かもしれないわ。」

 はしゃいで声をはずませる。

「……そうですね。」

 でも、と紳士は歩きだした。

「でもお互い照れくさいからあえて名前はふせましょう。ただ――、」

 紳士は振り返らなかった。

「あなたがもし気づいたら……私の愛した人に気づいたら、私がよろしくと言っていたとその人に伝えてくださいませんか……?」

 ルイーゼが呼んだ。

「マーマ!みて!みて!」

 ちいさな両手いっぱいのタンポポの綿毛。

「あっ、ルイーゼ、」

 母親が制する間もなくルイーゼは精一杯頬をふくらませ――そして白く揺れる綿毛を思いっきり吹いた。

「!」

 イタズラ好きな春風も手伝ったか、たくさんの綿毛は若い母親と紳士とにもろに吹きつけた。

 白い嵐。

「ああ、もう、ルイーゼ、ルイーゼったら!」

 もがく母親。放たれたたくさんの種子達はそんな彼女をからかうかのようにまとわりつく。

「ご、ごめんなさ……?」

 若い母親がようやく目をあけたとき、紳士の姿はもうどこにも見えなくなっていた。

「……?」

 タンポポの綿毛はふわふわと、まだあたりにただよっていた。それは鳥が飛び立った後の羽毛のようにも見えた。





「――太陽の匂いがする。」

「申し訳ありません。」

「……いいよ、嫌いじゃない。」

 ドラキュラ伯爵家当主、チェルノ=インフェルノ=カウント=ドラキュラは寝床である棺桶から起き出した。

 ドラキュラ伯爵家の〈執事〉は手際よく着替えを手伝う。

 と、

「……おまえっていい匂いがするから好き。ミントかライムみたいな。」

 ふいにチェルノがシルクのシャツをはおりかけ、というあられもない格好のまま〈執事〉に抱きついた。

「チェルノ様っ。」

 照れてチェルノの腕をふりほどきかけ……ふと手を止めた。

「……。」

 左腕に凶々しく刻印された十字の傷跡。

「バトラー!」

 呼ばれてハッと我に返る。チェルノは厳しい顔でたしなめた。

「そんな悲痛な表情 するな。これはおまえを得られたことに対する勲章みたいなものなんだから。」

「……。」

 この人は、こんなにも自分を想ってくれている。では自分は……?

 〈執事〉は眼を伏せたまま重く口をひらいた。

「…今日…娘に会ってきました…。母親になって…子供もいて…。二十四歳だと言っていました…私と二つ三つしか違いません。いつか彼女は私の年を追い越して老いてゆき、私は彼女が死んだ後もずっと生きながらえるのでしょうね。」

「……バトラー。」

「二十年間、気になっていたことがあります。」

 〈執事〉はこの二十年間そうであったように穏やかな微笑をたたえていた。

「二十年前のあの時、結局私は逃げ出しただけなのかもしれない。あなたは私に生きろといってくださったし、私も死ぬのは怖かった。今にしてみれば私はあなたの言葉にすがりついただけ、生まれた意味も生きていく意味もわからないままただ、死にたくなかった、そんな気もします。」

「……。」

 二十年の、いまさら。

「逃げ出したけれども、あなたと生きるのを選んだことで私が人間として、〈執事〉ではなく人間のルイス=カルパートとして生きた二六年間が否定されるのは嫌だった。ルイス=カルパートという人間の存在が否定されるのは耐えられなかった。私は確かにそこに存在していたのだから。」

「……。」

 何を……〈執事〉は何を言おうとしているんだ?別れ?まさか!考えたくもない。もう〈執事〉を手放せる自信なんて、ない。

 思考が錯綜する。チェルノはわあ、と叫んでしまいたくなった。先を聞くのが、怖い。

「……ある丘があります。この城からもそう離れていない丘で、頂に大きな樹が一本立っていてその周囲に香草がたくさん自生する丘。そこは私の子供の頃からの一番のお気に入りの場所でした。私は愛を語る代わりに愛すべき人々とその丘に遊びました。少年の時分はセッツァーや祖母と、そうですね、嫁いできたばかりの妻を連れたこともありましたし、いずれは娘にも教えてやるつもりでした。」

 〈執事〉の常ならぬ饒舌がチェルノを不安にさせた。

「今日、かつての自分に関わるものを訪ね歩いてきました。今なら言えます、私の、ルイス=カルパートの存在は決して無駄なものではなかった。私は全てを愛しているようで何も愛していない、愛せない、愛しているフリをしているようで――やはり全てを愛していたんです。そう、私は私の人生に関わる全てを愛していた。」

「……。」

 身をすくませるチェルノ。

「でも。」

 急に語調をやわらげ、止めていた手を動かしはじめる。小刻みに震え始めていたチェルノの寒さをシャツをはだけているせいととったか。

 シュルシュルと胸元のリボンを慣れた手つきで整えていく。

「……不思議ですね。確かに妻や娘や友人を愛していたとは思うんですが、今、一緒に丘に登りたいのは彼らではないんです。」

「……?」

「あなたです、チェルノ様。」

 〈執事〉はようやく感情を表に出した。愛おしげに目を細めて笑いかける。

「私はあの丘に、あなたと登りたい。今、私が愛すべき人はあなただ。いや、愛しているのはあなたなんだ。」

 チェルノはやはり泣くことになった。しかしそれは予想していた冷たいそれではなく熱くこみあげる喜びのそれだった。



 ドウシテ生マレテキタノ?

 ドコヘ行クノ?



「――生まれてきた意味も、生きていく意味も結局まだわからない。でもそれでいいんです。思えば私は私とともに迷ってくれる人をずっと求めていたのかもしれない。」

 人それぞれ、伴侶なる人に求めるものは違うのだと思う。

 ある者は寂しさの代償を、ある者は次代を担う子供達を、ある者は富や権力を。自分ははじめ、自分の問いかけに答えてくれる人を求めていた。



 ドウカ教エテ。



 しかしそれこそは自身の生を否定するものであった。

 自分は。

 自分は迷い続けるのだ。迷うことこそが己の生であったのだ。

 そして一緒に迷える人、その人は。

「かつての日々を『間違い』にはしたくない。かつての日々が『間違い』じゃないからこそ、あなたとこれから先生きてゆくことを『逃げ』でも『間違い』でもないと言いきれる。チェルノ様、改めて言います、――私はあなたとともに生きてゆきたい。」

「……。」

 チェルノは無言で〈執事〉にすがりついた。

 〈執事〉もそっとチェルノの肩を抱いた。

 時計はチクタクと、静かに時を刻んでいる。



         〈終〉


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吸血鬼は緑芳る丘を知らない @chotchatcat

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