第2話 市場にて
街に市が立った。
市場の熱気と喧噪がリアムの五感を催促し、人々の波を縫うように歩を進める。太陽の光が屋台の金属飾りに反射し、足下の石畳にまるで虹のような色彩を散りばめる。焼きたてのパンの香ばしさが、海の幸や香辛料の強烈な匂いと交じり合い、彼の嗅覚を舞台に甘美な調べを奏でる。
「一番良いリンゴだよ!たった銅貨2枚の安さ!」と、赤と緑のフルーツが詰まった籠をリアムに突き出す商人。リアムはその手をすり抜けながら、人ごみの中でアリアを探していた。
薬草が詰まった籠を抱えた年老いた女性にぶつかり、思わず「すみません」と謝る。老女は彼に顰蹙の相貌を向けたが、その次の瞬間にはため息とともに「今の若者たちの礼儀知らずぶりときたら……」とつぶやきながら、忙しそうにそそくさと去っていった。
今度は白髪混じりの髭を蓄えた太った男が、リアムをほとんど押し倒しながら「危ない!」と声を上げる。窒息しそうなほど人が多い。
そうして人ごみにつっかつっかえ進んでいたが、すぐにリアムは息を吹き返し、胸が高鳴りなるのを感じた。彼は野草を取り扱う屋台の近くで見慣れた赤褐色の髪を目にした。
アリアがそこに立ち、鮮やかなエメラルド色の瞳を輝かせ、いつものように花籠を持って立っていた。リアムは息を切らしながら彼女の元へと向かった。
「こんにちは」彼は彼女を驚かせないように、そっと言ったつもりだったが、興奮で声が上ずった。
彼女は驚きと同時に優しさを湛えた丸い瞳で彼を見返した。「あら、こんにちは」彼を見つめたアリアの瞳は一瞬だけ彼に留まり、次の瞬間には市場の周囲を警戒していた。
「その、君に会えないかと思って……」とリアムは言い、足を踏み換えて苦笑いを浮かべた。
「えっ……」と彼女は少し戸惑い、頬が薄く桜色に染まった。「でも、気をつけて、リアム。エルフと親しくしているのが見られたら、それがどういう結果を招くか。あまりよくないことになるかもしれません」
リアムはうなずき、そう警戒するアリアの美しさにさえ心が締めつけられながらも、「わかってる」と声を絞り出した。「でも、その、君に会いたかったんだ、アリア」
リアムの言葉を聴いてアリアは恥じらうように顔を下げると、上目遣いになりながら「実は私も……」と彼女はつぶやき、彼の指に優しく触れた後、すぐに手を引いた。
***
アリアは、何か心の中の重荷によって、目を閉じたように見えた。
「いけない……」
彼女は反射的にリアムから距離を取り、少し後ずさった。
「ごめん、驚かせただろうか……」
リアムは自分が彼女に付きまとうようなことをして、恐怖を抱かせたのではないかと思った。
「ううん、違うの」アリアは首を振った。
「リアム、私の村は……マラカーの軍に壊滅させられたの。私は今、ようやくここに避難して生活している状態なの」怖気を抑えるように彼女は自分の腕を掴みながら話した。
「なんてことだ、アリア……」リアムは囁いた。彼女を思って心が痛んだ。「それはひどい。生活は大丈夫?」
マラカーというのは最近噂に聞く闇の魔法使いの名前だ。あちこちで人々を襲っていると聞いていたが、今のリアムには怖い存在というくらいの認識でしかなかった。それでも彼女が何か突然の不幸に襲われて不憫であることを知るには充分であった。
「ただ、一日一日を」彼女の声は震えていた。「難しくても、なんとかやっていけるって信じてる」
リアムの拳が強く握られ、彼女を守りたいという切迫した感情に煽られた。手を伸ばして肩を抱いてあげたいと思ったが、邪魔するものがあった。
気配を感じて振り返ると、3人の貴族が近づいてきているのが見える。リアムとアリアを嘲笑う彼らの目つきは間違いなく敵意を感じさせた。
背の高い貴族が、リアムとアリアを交互に見ながら、「おい、見てみろ」と嘲笑った。「鍛冶屋の野郎と、不潔なエルフだ」
「おい、今なんて言った!?」リアムの怒りが募った。
「なんか言ってるぞ?」2人目の貴族が笑いながら前に進み出た。「俺の靴でも磨いてくれるのか」と言ってリアムを足蹴にしようとした。
「私たちを放っておいて」とアリアが険しい声で言ったが、リアムは彼女の手が震えているのを感じた。
「お、エルフがしゃべったぞ。」3人目の貴族がにっこりと笑い、「しゃべるエルフは奴隷市場で高く売れるだろうな」
アルダキア王国では奴隷制度は公には廃止されているが、この世界ではまだ奴隷制度を認めている国も多い。とくに長生きのエルフで見た目が美しいエルフは奴隷として人気がある商品と聞くが、彼らのほとんどは魔法で口をきけなくさせられている。エルフは魔法を使うものが多いので、たいていの場合エルフの奴隷は、魔法を使って逃げ出したりしないように言葉を封印する呪いをかけられている。
リアムは一歩前に出て、怒りの念に駆られた。冷静さを失えば、事態はさらに悪化することを彼は知っていた。アリアと自分を守るためにも、この状況をさらに悪化させないためにも、冷静さを保つ必要があった。しかし、彼らのアリアを侮辱する言葉を聞く度に、彼の血は沸点を超えようとしていた。
リアムは歯を食いしばり、「いいからあっちいけ」と威嚇した。
「行かないって言ったら?」最初の貴族が挑発するように問い返した。
「さもなければ、後悔するぞ」とリアムは静かながらも力強く警告し、その青い瞳は揺るぎない決意で燃えていた。
***
2人目の貴族が一歩近づき、「貧民ふぜいが、脅してるつもりか?」と酒臭い息を吹きかけて嘲笑した。その目はリアムを細めて見つめていた。
「どうなるかすぐにわかる」リアムは緊張しつつも、声はしっかりしていた。彼はアリアの手が自分の手をしっかり握り、彼女の爪が少し皮膚に食い込んでいるのを感じた。
「しゃらくせぇ、もう我慢の限界だ!」と、3人目の貴族が吐き捨て、拳を振り上げた。「こいつらにわからせてやろうぜ!」怒鳴り声をあげた。
それを合図にしたかのように、最初の貴族がリアムに向かって躍り出た。その拳がリアムの顔面に突き刺さろうとするが、鍛冶屋として何年も過ごしたリアムの反射神経は研ぎ澄まされており、辛うじて一撃を避けることができた。立ち上がり、腕を振りかざすと、拳が貴族の顎に吸い込まれた。リアムの腕が衝撃で震えたが、貴族が後方にひどくよろけて仰向けに倒れた。
それを見ると二人目の貴族はベルトから短剣を引き抜き、「やっつけろ!」と叫んでにじりよってきた。
リアムはアリアに「だいじょうぶ」と囁きながら、彼女の手を離し、自分を彼女の前に立たせた。そのまま守るように少し距離を取り、辺りを見回した。そしてちょうど市場の瓦礫の中に転がっていた古い鉄の棒をつかんだ。
短剣を振り回しながら近づいてた二番目の貴族はそれを見て一瞬ひるむ顔を見せたが、すぐに元の残虐性を取り戻し、「おいおい、自分が強いと思ってるのか?」と嘲笑した。
「もうたくさんよ!」アリアは声を上げた、その声は市場全体に響いた。市場の視線がわっと彼らに集中した。貴族たちは本能的にリアムから注意をわずかにそらした。
その瞬間だった。リアムは鉄の棒を強く握りしめた。鍛冶屋として身につけた技術を使って、それをハンマーのように振り回した。その重い先端が2人目の貴族の手首に当たり、彼の手から短剣が弾き飛ばされた。
「アーッ!」貴族は傷ついた手を押さえて叫んだ。
それを見て3人目の貴族が拳を振り上げて襲ってきた。リアムはその一撃を鉄の棒で受け流し、そのままその貴族の肋骨のあたりを殴打した。その一撃で貴族は息を呑み、痛みにうめきつつ後ろに仰け反った。
「行こう!」リアムは興奮したままアリアに叫び、手を取って走り出した。
角を曲がった先で、リアムは一息つき、今起こった事態を整理した。彼がアリアを守るために貴族ともめごとを起こしてしまったことは、たぶん無事では済まないことを理解していた。鍛冶屋だということもばれていたから、親方にも迷惑をかけてしまうかもしれない。また、騒ぎを聞きつけて街の衛兵が動き出しているだろう。追い詰められる恐怖が、彼を襲った。しかし、少なくとも今のところ、彼らは安全で、そして一緒にいることができた。
***
リアムとアリアは緊張感に包まれた街角で息を整えていた。世界中から寄せ集められた様々な品々が並べられた市場のざわめきは、まるで彼らの周囲を取り囲むように聞こえてくる。リアムは額に流れる汗をぬぐいながら、人々の群れに衛兵の気配を感じ取った。
「リアム。衛兵よ!」アリアが目を見開きながらささやいた。
6人の衛兵が、輝く鎧を身にまとい、角から姿を現した。兜についた赤い羽飾りが、市への忠誠を示している。彼らは表情を引き締めながらリアムとアリアに接近してきた。
「おい!そこのお前たち!お前さんたち2人だ!」声を荒げながら衛兵がリアムとアリアを指差した。リアムが息をのんでいる間に、衛兵たちは二人を囲み込むように動き、包囲網を完成させてしまった。
「ちょっと説明してほしいんだが」隊長らしき年配の衛兵は不機嫌そうに言い、その視線はリアムが持つ鉄の棒に釘付けだった。「何が起きたかをね」
「あの、貴族たちが」アリアは声を震わせながら始めた、「私たちにちょっかいを出してきたんです。私たち、自分たちを守るために反抗しただけです」
「ふーんなるほどねぇ……」隊長らしき衛兵は腕を組みながら疑わしげに尋ねた。「その鉄の棒を振り回したのも、『自衛』の一環ってわけか?」
「見ての通り、そうだ」リアムが口を挟んだ。「あいつらは武器を手に俺たちを脅していた。俺はアリアと自分自身を守るために必要な行動を取っただけです」
「そのわりには傷一つないように見えるが?」2人目の衛兵がアリアに問いかけた。
「ええ、とても幸運でした」アリアは静かに応えた。「リアムが守ってくれたから無傷です」
「ただの喧嘩としか聞こえんがなぁ?」と年配の衛兵がヒゲをこすりながら、周りに同意を求めるようにぶつぶつ言った。「それにエルフが関与しているとなると、事態はさらに難しくなる」
「何ですって!?」アリアの緑色の瞳が怒りで光り、「それが何の関係があるというのですか?」と険しい声を上げた。
「落ち着いて、アリア」とリアムが呟いた。「貴族たちが先に手を出したかどうかは関係ない。人の多い市場で暴力をふるうことは、我々も許すわけにはいかない。商品だってたくさんある。二人とも、我々と一緒に来てもらうよ」衛兵は今にも2人を連行しようとする様子だった。
「待ってくれ。何も起こすつもりはなかったんだ」リアムは声を振り絞ったが、その言葉には絶望が滲んでいた。「お願いだ、何も悪いことはしていない」
「すまない、若者よ」3人目の衛兵が首を振った。「命令は命令だ。さあ、行こう」
リアムは逃げ場を見つけるために必死に考えを巡らせた。自分はともかく、エルフであるアリアはどういうふうに扱われるかわからなかった。だが、完全に行く手は阻まれていたため、とりあえずは衛兵たちについていくしかなさそうだった。
***
リアムとアリアは、街の衛兵隊の兵舎にある、薄暗い小さな独房に案内された。湿った石の壁が二人を囲み、空気はカビの匂いで充満している。数少ない光源は、壁の小窓と廊下の松明で、床に不気味な影を落としている。
「座れ」衛兵の一人がリアムを木製のベンチに押しやり、ベンチは彼の体重で木がきしむ音を立てた。「無駄な抵抗はするな」
リアムはアリアと短く視線を交わし、彼らが一緒になってこの困難を乗り越えることを誓うとともに、彼女を安心させようとした。アリアは独房のカビ臭さと肌寒さに顔をしかめながらも、不安を抑えるようと息を深く吸った。
「どうしよう、リアム」アリアは彼の方に震える声で囁いた。
「わかってるよ、アリア」リアムは落ち着いた声で応え、顔には冷静さと決意が浮かんでいた。「まずはここから出る方法を見つけよう」
彼の青い瞳は独房の構造を探るように動き、出口を見つけようと必死に思考を巡らせていた。彼が目にしたのは、頑丈な鉄製のドアと、石壁に埋め込まれた小窓だけだった。
「どうやら、ドアしかないみたいだな。」リアムはひとりごとのように呟いた。
(脱出するとしたら、このドアからになる。衛兵を誘い出すために何かしらの工夫が必要だろう。)
アリアは彼がじっとドアを見ているのを見て、彼の考えを何とはなしに理解すると、リアムの方へ歩み寄った。
「衛兵を誘い込むつもり?」
リアムはアリアのささやく声に頷き、思案を続けた。「もし衛兵が入ってきたら、その隙を狙って脱出しよう」
「わかった」アリアは少し微笑んだ。「私はリアムを信じてるから」
リアムはその言葉に感謝の微笑みを浮かべた。
「私が衛兵を引きつけます。もしうまくいけば、脱出できると思う」とアリアは言った。
「でも、どうやって?」リアムが尋ねた。
「私が病気になったフリをします。衛兵が中に入ってきたら、耳をふさいで」
よくはわからなかったが、アリアの言葉に自信を感じたリアムは信じてみようと思った。「わかった。やってみよう」
***
衛兵の鈍い足音が廊下に響き渡り、その音はアリアとリアムの心臓を直撃した。リアムはアリアに頷き、彼女は約束通り具合の悪い女性を演じた。彼女の身体は床に横たわり、顔は苦しげに歪み、唸り声をあげて、全身から冷たい汗が滴り落ちていた。
リアムは「助けてくれ、アリアが倒れている!」と声を上げた。ドアを激しくたたきながら繰り返す。
その叫び声が空気を切り裂いて広がり、ドアの向こうで衛兵たちが静まり返った。アリアの唸り声を確認しているようだった。次の瞬間、重い鉄のドアがガチャリと開いた。鍵が開かれ、戸口には慌てふためく衛兵たちの顔が映った。
リアムは咄嗟に耳をふさいだ。
その間隙を縫って、アリアはエルフの眠りの呪文を唱え始めた。その美しい声は牢獄に響き渡り、無情にも衛兵たちの意識を奪った。彼らはほとんど抵抗できず、眠りの魔法によって一瞬で意識を失った。
バタバタと倒れた衛兵たちを見て、リアムはすばやく動き、転げるように独房を出ると身構えた。しかし、残りの衛兵たちも眠りこけていて、誰もかれも無防備なままで倒れていた。
リアムは振り返り、声に出さず「すごいね」と口の形だけでアリアを称賛した。
動いている気配がないか耳を澄ませてみたが、周囲は静寂に包まれていた。
アリアが立ち上がり、リアムと目を合わせると、彼は深い息を吐き出し、彼女に微笑んだ。リアムも緊張を解くと、「どうやら思ったより簡単に脱出できそう」とおどけてみせた。自分も安心したし、アリアも安心させてあげたかった。
二人はそっと牢獄を後にし、眠る衛兵たちを避けるようにして通路を進んだ。
彼らを遮るようなものはみんな眠りに落ちており、かすかないびきのような音を除けば、静けさだけがあった。唯一の音は彼らの靴が石の床に響く音だけだった。
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