断片:5

 アシュレーについて、もう少し思い出してみようと思う。


 そもそも私は、彼がこの街でどのような職業についているのかさえ知らなかった。訊いても答えてくれなかったし……訊いても答えてくれないだろうと思いこんでいたので、私からもとくに深くは追及しなかった。私と同じ列車でクラウヴィッツにはるばる戻ってきたのはいいとして、何が目的で旅などしていたのかも一切不明だった。


 例えば、一度こんな事があった。


 ある日私は、街に買い物に出で、その途中で記憶を失ってしまった……らしい。らしいというのは、買い物袋を手に立ち尽くしていたからで、私が何を目的として出歩いていたのかは、一切思い出せなかった。


 問題なのはその時の状況だった。私は大通りから小路を一本入ってすぐの、見るからに人気の少ない路地裏に立ち尽くしていたのだ。


 予告もなしに突然記憶を無くす私だから、広いクラウヴィッツの街で迷子になったことも実は一度や二度ではない。とは言え、その時ばかりは本当に途方に暮れてしまった。


 その時の私は、一人では無かったのだ。気が付けば私は数人の男達に取り囲まれていた。彼らは何かを期待するような昏い目で私を見ている。その視線ははっきり言えば不快ではあったのだが……そもそも何故こういう状況に置かれているのかが分からなかった。


 男達が私に何を期待しているのかは、その嫌な視線を見れば何となく分かった。この路地裏まで私は同意の上でついてきたのか、無理矢理連れ込まれてきたのか、それがまったく分からない。そもそも彼らは本当に見知らぬ人間達なのだろうか? ひょっとしたら顔見知りという事はあり得ないだろうか?


「何をしてやがる。はやくこっちに来るんだよ」


 男の一人が、苛立ちも露わに私を促した。彼らは私を、路地のさらに奥へと連れ込もうとしている。そこで何をするつもりなのかは、あまり想像したくなかった。


 半分恫喝混じりの彼らの態度に、私は抵抗すればいいのだろうか。それとも、大人しく従えばいいのだろうか。


 ……そんな風に、迷っていた時だった。


「お前ら、そこまでにしておくんだな」


 それは恫喝や警告というには、実に何気ない、淡々とした口調だった。


 男達が声をした方を振り返る。私も思わずそちらを見やって、そこに意外な人影を見出した。


「……アシュレー?」


「良かった。今度は俺を忘れずにいてくれたな」


 そんな風に気さくに言葉を投げかけてきた彼に向かって、男達は敵意をあらわにした。


「何だてめぇは! 邪魔するんじゃねぇ」


「そうはいかない。その女性は俺の連れなんでね。お前ら、とっとと解散して、どこかへ消えてくれないか」


 アシュレーはそう言いながら、上着の内ポケットに無造作に手をいれた。そこから彼が取り出したものを見て、私はどきりとした。


 黒光りする拳銃が、彼の手に握られていた。


 それを見て、男達が色めき立った。私は銃を構えるアシュレーの立ち姿を、呆然としたまま無言で見やっていた。


 不思議と、不釣り合いな物を振り回している、という印象はなかった。銃を構えるその素振りがあまりに手慣れた感じがするからだろうか。銃を持つ手は決して震えてなどいないし、人殺しの道具を他人に突きつける事にも、何もためらいは無いみたいだった。


 ……多分彼の事だから、引き金を引く事も、必要であれば辞さないのではないか。


 何故そう思ったのかは、自分でも分からなかったが。


 ともあれ、銃の存在自体が男達の目には警告と映ったようで、彼らは私をあきらめて、早々に路地裏へと消えていった。


 あとに残されたのは、アシュレーと私の二人だけ。


「やれやれ……自分がどうなるところだったのか、自覚あるのか?」


 無いんだろうな、とアシュレーはため息をつく。


「いくら治安がいいと言っても、ああいう手合いがいないわけじゃないんだぞ。せめて、これはおかしいと思ったら記憶なんかどうでもいいから、取り敢えず逃げろよ」


「知り合いだったら、気を悪くするんじゃない?」


「知り合いなら君の症状を知っているはずだろう。だったらいちいち気を悪くしたりなんかしないはずだ。……名前を覚えてくれないからと意って、俺が一度でも声を荒げたり、手をあげりしたか?」


「……いいえ」


 本当は、そんな事があっても忘れてしまっているのかも知れなかったが、その時の私はごく自然とそう答えていた。


「……それより、ここはどこ?」


「送っていってやるよ。俺もこれから帰るところだ」


 アシュレーはそう言って、苦笑した。


 私は……何故彼がそこにいたのか、何故銃など持ち歩いているのか、そのどちらも訊かない事にした。どうせ訊いたところで、すぐに忘れるだろうから。


 すでに夕日が傾いていた。彼方の空が、言葉では言い表せないくらいに、見事なまでに鮮やかな赤色に染まり返っていた。私たちはそんな夕陽を横目に、運河沿いの道をとぼとぼと帰途についた。


「……腹減らないか? 何か食っていかないか」


 不意に、アシュレーがそんな事を言い出した。特別に断る理由はなかったので、アシュレーがよく足を運ぶというレストランに私たちは足を運んだ。


 運河沿いにあるその店は、天然素材の海産物を豊富に取りそろえているようで、メニューの大半は天然物だった。合成物も一応あるぞ、というアシュレーの忠告を無視して、私は天然物のロブスターを注文した。


「また吐くぞ」


「もう慣れたわ」


 アシュレーは肩をすくめると、同じ物を注文した。


 料理が食卓に上るまでの時間がすこし手持ち無沙汰だったので、私は彼に何となく話しかけていた。


「ね。あなたにひとつ、聞きたいことがあるんだけど」


「ひとつだけかい?」


 返された言葉をかるく受け流して、私は問いかける。


「……あなたって一体、何者なの?」


「……」


 アシュレーはその問いにはすぐに答えずに、私をじっと見ていた。


「さっきのが、気にかかるのか?」


「それもあるけど、色々。普段どんな仕事をしているの? 列車で一緒だったけど、どんな用事でクラウヴィッツを離れていたの?」


「……君は知っているはずだと思ってたけどな」


 頭を掻きながら、彼はいかにも答えづらそうな様子だった。


「ここで私に教えてくれる気はないのね?」


「教えてもいいけど、忘れないって約束してくれるか?」


「……それは、無理」


 彼の言い出した「約束」に、私は思わず吹き出してしまった。そんな事が無理だって事は、彼もよく知っているはずではないか。


 実際、ここで彼がすらすらと色んな事を教えてくれたとしても、覚えていられる保証は本当になにも無かったし、むしろ忘れる可能性の方が高かったのだ。だから私も、それ以上は追及しなかった。


 もしかしたら彼の言うように、私は本当に彼の事を「知っているはず」なのかもしれない。


 ……本当にそうなのかどうかは分からないけれど、気が付いたら一日中彼の事を考えているような気がした。

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