断片:4

 翌朝目覚めた私は、同じシーツにくるまって眠っている男の名前を、まったく覚えていなかった。


 そこが新しい自分の部屋だという事は覚えていたし、この男の紹介でここに住むことになったのも一応は覚えていたが。


 そんな風に記憶は相変わらず欠陥だらけだったけれども、私はその部屋での……この街での生活を曲がりなりにもスタートさせた。色々細かいトラブルはあったかも知れないが、致命的な失敗をすることもなく、日々は過ぎていった。


 アシュレーとの関係はあれから何となく続いていたが、不思議と彼は私の印象にはあまり残らない男だった。名前だけを忘れる事もあったし、顔を忘れてしまって本人だと気付かないような事もあった。不思議と忘れるのはディティールばかりで、彼の存在そのものをすっかり忘れずに済んだのは、お互いの関係ゆえだろうか。


 不思議な事に、かつての王都での事はいつまでも割とよく覚えていた。勿論、色々と肝心な事は忘れてしまったままだったし、それらを何かの拍子に思い出せてしまったりという事もほとんど無かったのだけれども。


 あれから何度か、イゼルキュロスに手紙を書こうとして……でも結局、書くことは出来なかった。一体何を書けばいいのか、文面がまったく思い浮かばなかったのだ。アシュレーとの関係のせいで気がひけていたわけではないと思いたいが……もしかしたら私は思ったよりも多くの事を――イゼルキュロスに関する事の多くでさえも、忘れてしまっているのかも知れなかった。


 イゼルキュロス――私の大切な友人。王都で知り合った人々の中で、ただ一人心を許せる親友だった。戦争という状況が無ければ彼と知り合う事も無かったのかも知れないが、私と彼とを引き裂いたのも、また戦争という状況だった。私はこうやって病に身を冒されて王都を遠く離れ、彼もいずれは戦場に旅立っていく身だ。いや、今はもう彼は前線にいるのだろうか?


 一時はクラウヴィッツの街で職を得ようとも考えてみたのだが、それは結局断念した。やはり記憶が途切れる今の症状では、正統に報酬を得られるような満足な仕事が出来るとも思えなかった。王都での職歴が、この街で必要とされるとも思えなかったし。


 そもそも私は、もともとは王立大学の一介の学生に過ぎなかったのだ。国境紛争が起き、王国が戦時体制に入ると、私は研究員として王国軍の研究所に徴発されてしまった。もっともそんな事でも無ければ戦略科学研究所などという高度な研究機関に、私が籍を置くことも無かったのだろうけど。


 戦争が始まると王立の研究機関はどこも忙しくなる。戦場の優劣は、送り出された機械たちの性能如何に関わっているから、当然と言えば当然だったのだけれど。


 歴史を紐解いてみれば、機械化が進んでいなかった遠い過去には、生身の人間が大勢戦場に送り出され――その多くは兵役でかき集められた一般市民の若者達だ――そして大勢使い捨てにされていったという。ライブラリへ行けばそういう時代の資料も多く残っているが……。


 ともあれ、今の時代にわざわざ戦場に赴くのは、戦うために生み出された機械達、生物工学によって生み出された攻性生物達、そしてそんな兵器たちに命令を下す、わずかながらの職業軍人たちに限られていた。戦場も王都から遠く離れた地にあり、戦時体制と言っても人々の暮らしにはまるで変化など無かったのだ。


 それはこのクラウヴィッツの街にも言える事だった。人々は戦争などまるで有りもしないとでもいうかのように、平和な日々を謳歌していた。


 その上、私は記憶がこんな状態だ。こういうところで平和な日々を送っているだけでは、そのうち本当に戦争なんてものがあったのかどうかさえ、時として分からなくなったりもする――。


 この事をアシュレーに話してみたけれど、彼はただ苦笑するばかりで、何も答えてはくれなかった。


 大家だという例の陰気な老女は、見た目ほどに陰気という事もなかった。私をたびたび夕食に招待してくれた事も一度や二度ではなかった……ように思う。回数の事はあまりよく覚えていない。


 ともあれ、彼女の振るまってくれた手料理は、筆舌に尽くしがたい程に美味だった。王都のような場所ではほとんど手に入らない天然物の素材をふんだんに使った料理というだけで、私には驚くべき事だったのだけど。料理の事は私の専門外だったけれど、彼女の手料理に関しては、どれだけ絶賛しても足りないほどだった。


 ただ――慣れない天然食材は、私の身体の方が受け付けなかったようだ。なにせ王都では滅多に食べられない物ばかりだったから……。


 最初に食事に招かれた晩は、まさに拷問のようだった。腹部をきりきりと締め付けられるような嫌な圧迫感に襲われたのは、彼女の部屋を出た直後ぐらいからだったろうか。自分の部屋に何とか帰り着いた頃にはそれが耐えきれないほどの激痛に変わっていた。それからどれほどもしないうちに、私はバスルームで食べたものをほとんど吐いてしまった。


 ……果たして食材のせいなのか、それを受け付けない私の身体が異常なのか、それは何とも言い難かったけれど。少なくとも、大家さんには少々悪いことをしてしまったようだった。

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