断片:2
ふと目を覚ましたとき、私は誰かの腕に抱かれていた。
というか、私が一方的に腕に寄りかかり、もたれかかっていたのだ。それが誰の腕だったのかは知らなかったけれど、他人の体温を感じながらまどろむのは、とても心地よかった。
かすかな振動を感じる。目を開けてみればそこは列車の中だった。知らないうちに、うつらうつらと眠ってしまっていたようだった。
私は誰かさんの腕にもたれかかったまま、窓の外の風景に目をやった。世界の終わりまで延々と続くかのように思えた田園風景はいつの間にか終了していて、ただ今この列車は大きな運河を渡る連絡橋の上を通過している真っ最中。窓からの景色は、まるで何もない水面の上を直接滑っているかのように私の目には映った。空は薄曇りだったけれど、遙か向こうの水平線はうっすらと淡く美しいブルーに彩られていた。
まるで空と河との境目さえもあいまいなように、私の目には映った。
「……ようやく目が覚めたみたいだな、メアリーアン」
聞き慣れているような、いないような、そんな声が、私の耳に飛び込んできた。私が腕に寄りかかっている、その男の声だという事にはすぐに気づいた。
私は物憂げに、男の方を見やる。……困ったことに、その人物の顔にはまるで見覚えがなかった。
見たところ二十代半ばか、後半といったところだろうか。精悍な顔つきに少々皮肉な笑みを浮かべながら、彼は腕にもたれかかったままの私を見やる。
「俺のこと、ちゃんと覚えているか?」
「……あなた、誰?」
私は何気なしに問いかけてみる。知らない人間に声をかけるのだから本当はもっと警戒してしかるべきだろうに、何故か私は安心し切っていたし、身を寄せたまま離れる気にもなれなかった。
そんな私の態度に、男はただただ苦笑するばかりだった。
「知らない男相手に、そんなに安心して気を許すもんじゃないだろう。……それにしても、旅の間ずっと一緒だったのに、いい加減に俺のことも覚えて欲しいものだが」
「いつから?」
「……?」
「いつから一緒なのか、と訊いているんだけど」
自分で自分の記憶に当たってみよう、という試みを私は最初から放棄していた。何も思い出せそうにない事くらい、最初から分かっていたから。ちょっと気を抜いただけで、すぐに消え失せ、失われてしまう……そういうとてもあやふやなものに過ぎないのが、私の記憶というものだったから。
彼はため息をひとつつくと、にやにやしながら私をじっと見やっていた。いつから、という私の質問には答えずに、まったく別の言葉を吐く。
「俺の方から質問しようか。これと同じ問答を、俺達はこれまで一体何回繰り返していると思う?」
「……」
「まぁそれは別にどうだっていいけどな。……せめていつから一緒なのかくらい、自分で当ててみなよ」
その口調は……明らかに私をからかうものだった。
ひとつだけ確実なのは、目の前のこの男は、私の記憶にまつわる症状のあれやこれやを、一応は知り尽くしている、という事だろうか。
だとすれば顔見知りであるというのは間違いない。そもそも、顔見知りでもない人間に、こんなにぶしつけに、もたれかかったり、寄りかかったりはしない……ものだと思いたい。
「王都からずっと一緒、ってことは無いわよね?」
「何故そう思う?」
「王都の知り合いなら、私が旅に出るのを引き留めていただろうから」
「自分が逃げてきたことは覚えているんだな」
「……私、そんなことをあなたに話した?」
「話したかどうか、ともかく俺はその事を知っている」
「……」
謎めいたやり取りだった。別に私は過剰な警戒を示したり、彼を詰問しているわけでもなかったから、彼も真面目にとりあう気はなかったのかも知れなかったけれど。
それならば、私自身が回答の糸口となるようなものを、身に付けてはいないだろうか。そう思ってコートのポケットを探ってみると、そこに何やら紙片のようなものが発見出来た。取り出して広げて見ると、それはどうやら列車の切符のようだった。
無味乾燥で面白みのまったくないかすれた印刷の文字が、無機質に踊っていた。
王都発、クラウヴィッツ行き。
「クラウヴィッツ……何でこんな遠いところへ」
「どういう経緯にせよ、君はその切符を手にして、その街へ向かっているってわけだ……。クラウヴィッツはいいところだぜ? 王都と違って、必要以上に騒々しくないのがいい。街の風紀衛生の向上をお題目に、戦争が始まるずっと以前から夜間外出が統制されているんだ。夜にいかがわしい娯楽がないから、街は平和そのもの」
「……あなたはクラウヴィッツの人なの?」
「言わなかったっけか?」
そういうと、彼は上着の内ポケットから自分の切符を取り出して、私に見せた。その行き先も、同じくクラウヴィッツになっていた。
「……あなたの名前を訊いてもいい?」
「何度も名乗ったし、君は知っているはずだけどな。メアリーアン」
「もう一度、訊いてもいい?」
「……アシュレー。俺の名前はアシュレーだ」
彼はまっすぐに私を見下ろして、そう名乗った。
その名前を、私は内心で反芻してみる。
「アシュレー……その名前には、聞き覚えがあるわ」
「そりゃ良かった」
彼はそういうと、かすかに笑った。
そのまま二人の間には、重い沈黙が訪れた。私は改めて、彼の腕にだらしなくもたれかかる。男――アシュレーはそんな私の態度に、苦情も何も言わなかった。
列車は長い長い鉄橋を渡り終えて、市街地にさしかかりつつあった。石造りの古い由緒ある街並みが、私の視界に飛び込んでくる。不夜城としか形容しようのない下品できらびやかな王都の街並みと比べれば、それは確かに、実に端正な佇まいと言えた。
「さて、そろそろ目的地に到着だ」
「?」
「しっかりしてくれよ。今俺たちの見ているこの街が、目的地クラウヴィッツなんだからな。……例のでっかい荷物、忘れるんじゃないぞ」
私は促されるままに、そそくさと立ち上がる。
荷物のことまで知っているのなら、確かに旅の道連れで間違いないのでは……? そうやってようやくその事実を納得しかけた私に、アシュレーがこう付け加えた。
「その書きかけの手紙も、いい加減しまっちまえよ。ここまで来たら、到着までに書き上げるのはどうせ無理だろうし」
「手紙……?」
言われてみて、私は座席の脇についている折り畳み式の小さなテーブルを見やった。その上に置かれていたペンと便箋。
手紙の宛名は、イゼルキュロス。
我が親愛なる友人、イゼルキュロス――。
クラウヴィッツの駅に着いたら、すぐにでも投函するつもりだったのだ。王都で離れ離れになったきり、ずっと長い間顔も合わせていない、それでも私のかけがえのない友人。もしかしたら今はもう王都ではなく、戦場に旅立ってしまったのかも知れないけれど――。
私はしばらく書きかけの文面に目を落としていたけれども、それ以上続きを書くでもなく、やがてそのままコートのポケットにねじこんだ。
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