第10話 獣喜香
するり――と、微風のように
腰の二本差しをみれば、矢張り武士であるのは間違いないのであろう。一見その風体は、学者か大店の若旦那としかみえない。
じっ――と、こちらの腹の内を覗き込むような眼で、
「勝手に入って来るとは無礼だろうがよ」
それを振り払うように、思わず声を荒げる。
「成程。そう言うことなのですね」
「な、なにが成程だ」
舐めるな――と、床の間に駆けより剣を手にする。
今度は頭痛もおきない。ただ、柄を握った瞬間、沸き立つように血がざわめいた。
「落ち着きなさい。先ほど申したとおり、連れの
俯いたまま、まんじりともしない黒い頭巾姿を指さし、
「
呼ばれると、黒頭巾は音も無く立ち上がった。
「帰る……」
「では、これにて失礼いたします」
八黒と呼ばれた
よみはその光景から眼を背けるように、部屋の奥を見つめていた。
「ま、待て!」
宙を掴むように手を伸ばしたのは無意識だった。
一瞬、視界の隅でよみの顔が歪んだ様に見えた。だがそれに構わず出て行こうとする
「か、帰る――と言ったな」
「はい。お邪魔いたしました」
振り向き、
「ひとつ訊きたい」
――どうしても訊かねばならぬ。
「こ、ここから――出られるのか」
声がかすれた。
「勿論です」
それに対し、
「来たのならば、帰るのは当然の道理――」
「俺も連れて行ってくれ!」
思わず、
分かっている。視界の隅に入るよみの肩が、びくり――と、震えた。
「それは本心ですか」
「も、もちろんだ」
涼やかな眼元が、値踏みするかのように見つめる。
「本当にここから出たいのであれば、いつでも出ることは可能だったはずです。そうですよね――」
と、背中に投げかえられた言葉に、よみの背が小さく震えた。
「そうなのか」
問うてみるも、よみは答えなかった。
「良いのですか?」
再び、
「なにがだ」
「ここに居れば、貴方は安穏と暮らすことが出来ましょう。ですが、ここから外に出るのであれば、己の因果を背負って責務を果たすことになる」
ずい――と、
「この
どちらを望むのです――と、先程までの柔和さは微塵もなく、無機質な瞳が冷たく見つめる。
「な、なにを――」
何を言っているのか分からない。だがこのまま、ここで
「怪我のせいなのか、俺は自分の名前も思い出せない。だが、外に出れば――外に出さえすれば、俺が何者であるのか分かるはずだ」
そうだ。
もっと血の沸き立つような――
剣を――
血を――
「俺はここから出る!」
吠えた。
旨い酒も美味い飯も、蕩け匂い立つようないい女も――滾る血を鎮めるからこその、美酒であり甘露。
このような安穏とした日々に埋もれたくないからこそ、自分は京に来たのだ。
「ここから出せ!」
自分の腹の底から、猛る獣が目覚めた。
「無理ですね」
「なにぃ」
水を掛けるように
「出られると言うただろうが」
「言いました」
「では何が無理なのか!」
「ここで飯を食い酒を呑み、そして情に
違いますか――と、冷たく突き放す。
「それがどうした」
「貴方がここを出るには、あの方の許しが無ければ無理なのですよ」
能面のような整った顔立ちの中で、紅く形の良い唇が微かに震えている。
「旦那様。出て行くなどと、悲しいことを言わないでくださいまし」
柳眉をよせて、すがるような視線を向けてくる。
「ここより一歩でも外に出れば、そこは悪鬼羅刹、魑魅魍魎の跋扈する修羅の世にございます。よみと共にここで暮らせば、命の心配など無用。桃源郷にて酒地に溺れ肉林に戯れ、
白く
「よみ…………」
あの甘く蕩けるような香りが、強くなった。
「
濃厚な蜜が溢れ出すように、抗い難い芳香がよみから溢れ出す。
華の蜜に誘われる蜂のように、よみに引き寄せられていく。
終わらぬ春の中で――と、吐息に乗せられた蜜が漂う。
そうだ。
良いのではないか。
美しい女と旨い酒を呑み。
肴に舌鼓を打ち女を抱く。
男として、これより贅は在るまい。
良いのだ。
蝋のように白い、よみの頬に触れようと手を伸ばした。
その指先に、熱が生じた。
針の先で突かれた様なその熱は痛みを伴い、全身を貫いた。そして同時に、得も言われぬ心地よい温もりに包まれた。
「よ、よみ……」
よみが、伸ばした指先を咥えていた。
「
にぃ――と、ぽってりとした唇の端から、血が零れた。
「よみぃぃ!」
それは痛みの為か。或いは、抗い難い温もりを打ち払う為か。
指を引き抜くと、一息に剣を抜いた。
そこに躊躇は無かった。
ばっさり――と、情を交わした
糸が切れたように崩れていく女になど、既に興味は無かった。
じっ――と、冷めた眼でこちらを見ている
絡まった糸を掃うように大腕を振って、木戸を開けた。
きひぃ。
出られた。
何も縛るものなどない。
これだ。俺が求めていたのはこれだ。
俺は――
俺は――
歓喜に打ち震える身を解き放つように、佐野村矢之助は闇に駆けだしていた。
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