第10話 獣喜香


 するり――と、微風のように山南が土間に立った。


 腰の二本差しをみれば、矢張り武士であるのは間違いないのであろう。一見その風体は、学者か大店の若旦那としかみえない。

 じっ――と、こちらの腹の内を覗き込むような眼で、山南がこちらを見つめる。眼尻には春風のような微笑を浮かべてはいるが、その瞳の奥に、なんとも言えぬ怖いものを感じた。


「勝手に入って来るとは無礼だろうがよ」


 それを振り払うように、思わず声を荒げる。


「成程。そう言うことなのですね」


 山南の顔が一瞬曇り、落胆とも安堵ともつかぬ苦笑を浮かべた。


「な、なにが成程だ」


 舐めるな――と、床の間に駆けより剣を手にする。

 今度は頭痛もおきない。ただ、柄を握った瞬間、沸き立つように血がざわめいた。


「落ち着きなさい。先ほど申したとおり、連れのを探していただけです。直ぐにお暇致しますよ」


 俯いたまま、まんじりともしない黒い頭巾姿を指さし、山南かぶりを振った。


八黒はちくろ帰りますよ」


 呼ばれると、黒頭巾は音も無く立ち上がった。


「帰る……」


 山南の発した言葉に、心臓が高鳴った。


「では、これにて失礼いたします」


 八黒と呼ばれたを連れ立って、山南が出て行こうと背を向ける。

 よみはその光景から眼を背けるように、部屋の奥を見つめていた。


「ま、待て!」


 宙を掴むように手を伸ばしたのは無意識だった。

 一瞬、視界の隅でよみの顔が歪んだ様に見えた。だがそれに構わず出て行こうとする山南たちを呼び止める。


「か、帰る――と言ったな」

「はい。お邪魔いたしました」


 振り向き、山南は会釈をする。


「ひとつ訊きたい」

 ――どうしても訊かねばならぬ。


「こ、ここから――出られるのか」


 声がかすれた。


「勿論です」


 それに対し、山南は当然とばかりに答える。


「来たのならば、帰るのは当然の道理――」

「俺も連れて行ってくれ!」


 思わず、山南の言葉を遮るように言葉がでた。

 分かっている。視界の隅に入るよみの肩が、びくり――と、震えた。


「それは本心ですか」

「も、もちろんだ」


 涼やかな眼元が、値踏みするかのように見つめる。


「本当にここから出たいのであれば、いつでも出ることは可能だったはずです。そうですよね――」


 と、背中に投げかえられた言葉に、よみの背が小さく震えた。


「そうなのか」


 問うてみるも、よみは答えなかった。


「良いのですか?」


 再び、山南が値踏みするかのような視線を向ける。


「なにがだ」

「ここに居れば、貴方は安穏と暮らすことが出来ましょう。ですが、ここから外に出るのであれば、己の因果を背負って責務を果たすことになる」

 ずい――と、山南がこちらに足を向けた。


「このただれた陽だまりの中、無間地獄で罪を償うか。或いは、己の罪と向き合い、武士としての矜持をまっとうして地獄に堕ちるか――」

 どちらを望むのです――と、先程までの柔和さは微塵もなく、無機質な瞳が冷たく見つめる。


「な、なにを――」


 何を言っているのか分からない。だがこのまま、ここでただれていくのは嫌だ。こんなことの為に、俺は京まで来たわけでは無いのだ。


「怪我のせいなのか、俺は自分の名前も思い出せない。だが、外に出れば――外に出さえすれば、俺が何者であるのか分かるはずだ」


 そうだ。

 もっと血の沸き立つような――

 剣を――

 血を――


「俺はここから出る!」

 吠えた。


 旨い酒も美味い飯も、蕩け匂い立つようないい女も――滾る血を鎮めるからこその、美酒であり甘露。

 このような安穏とした日々に埋もれたくないからこそ、自分は京に来たのだ。


「ここから出せ!」


 自分の腹の底から、猛る獣が目覚めた。


「無理ですね」

「なにぃ」


 水を掛けるように山南は言った。


「出られると言うただろうが」

「言いました」

「では何が無理なのか!」

「ここで飯を食い酒を呑み、そして情にほだされた――」

 違いますか――と、冷たく突き放す。


「それがどうした」

「貴方がここを出るには、あの方の許しが無ければ無理なのですよ」


 山南の視線を受け、ゆっくりと、よみが振り返った。

 能面のような整った顔立ちの中で、紅く形の良い唇が微かに震えている。


「旦那様。出て行くなどと、悲しいことを言わないでくださいまし」


 柳眉をよせて、すがるような視線を向けてくる。


「ここより一歩でも外に出れば、そこは悪鬼羅刹、魑魅魍魎の跋扈する修羅の世にございます。よみと共にここで暮らせば、命の心配など無用。桃源郷にて酒地に溺れ肉林に戯れ、永久とこしえに暮らしましょうぞ」


 白くたおやかな指が、花びらの開くようにこちらに向けられる。


「よみ…………」


 あの甘く蕩けるような香りが、強くなった。

様――」


 濃厚な蜜が溢れ出すように、抗い難い芳香がよみから溢れ出す。

 華の蜜に誘われる蜂のように、よみに引き寄せられていく。

 

 永久とこしえに――と、紅い唇が吐息を吐く。

 終わらぬ春の中で――と、吐息に乗せられた蜜が漂う。

 

 そうだ。

 良いのではないか。

 美しい女と旨い酒を呑み。

 肴に舌鼓を打ち女を抱く。

 男として、これより贅は在るまい。

 良いのだ。


 蝋のように白い、よみの頬に触れようと手を伸ばした。

 その指先に、熱が生じた。

 針の先で突かれた様なその熱は痛みを伴い、全身を貫いた。そして同時に、得も言われぬ心地よい温もりに包まれた。


「よ、よみ……」


 よみが、伸ばした指先を咥えていた。


永久とこしえに一緒にございます」

 にぃ――と、ぽってりとした唇の端から、血が零れた。


「よみぃぃ!」

 それは痛みの為か。或いは、抗い難い温もりを打ち払う為か。

 指を引き抜くと、一息に剣を抜いた。

 そこに躊躇は無かった。


 ばっさり――と、情を交わしたよみを斬った。

 糸が切れたように崩れていく女になど、既に興味は無かった。

 じっ――と、冷めた眼でこちらを見ている山南にも。


 絡まった糸を掃うように大腕を振って、木戸を開けた。


 きひぃ。


 出られた。

 何も縛るものなどない。

 これだ。俺が求めていたのはこれだ。


 俺は――

 俺は――


 歓喜に打ち震える身を解き放つように、佐野村矢之助は闇に駆けだしていた。

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