第9話 綻濁香
もうどうでもよいのではないか――――
鼻腔の奥から、脳の蕩けるような甘美さに、全てを委ねてしまいたくなる。
一体、ここへきてどれほどの日にちがたったのか。そんなことは必要のないことだ。今となっては、自分が何をしようとしていたのかも何者であったのかも気にならなくなっていた。この傷はだれにつけられたのかも、なぜつけられたのかもいまとなっては意味をなさない。鼻のおくにしみこんだこの甘いかほりがなにもかんがえさせないのだ。
盃が空になれば、よみが酒を注ぐ。
ただでさえ芳醇な香りの酒が、辺りに染みた甘い香りと相まって、例えようもないほど濃密な味を生み出す。
これが甘露と言われれば、そうなのだろう。
酒を呑み、肴を口に運び、隣に居る柔肌を嬲る。
身も心も蕩けそうな甘美な怠惰に堕ちることが、これほどまでに心地の良いものであったとは。
「よみ――」
白く華奢な肩を抱き寄せれば、
はい――と、溶けるように肌を馴染ませてくる。
このままで良い。
このままでよい。このままとけてゆきたいのだ――
だが、その時だった。
とん――と、音が鳴った。
思わず男は、無言でよみと顔を見合わせた。
何故だか分からないが息を殺し、じっと様子を窺う。
ひとつ――
ふたつ――
みっつ――
気のせいか――と、安堵の息を洩らしたときだった。
とんとん。
とんとん。
――と、木戸を叩く音がした。
そのあまりにも絶妙の間に、男は柄にもなく肩を竦ませた。
だが、その様子に構わず、よみは形の良い眉をしかめ立ち上がった。
苛立っているのだろうか。
あまり感情を見せないこの女にしては、珍しいことだった。
「どちら様でしょうか」
木戸の前に立ち、よみが声を固くした。
だが、返事は無かった。
暫く、外を窺うように立っていたが、気配の揺らぐ様子も無い。
息を吐き、よみが木戸に背を向けた時だった。
とんとん。
とんとん。
とんとん。
また何者かが木戸を叩いた。
「どちら様でありましょうか」
再び木戸の前に立ち、よみが様子を窺う。
だが矢張り、暫く待っても返事は無い。
溜めていた息を吐き、よみが木戸に背を向ける。
すると――
とん。とん。とん。
木戸が鳴った。
はっきりと分かる苛立ちを浮かべ、よみが木戸に掴みかかり、
「どちらさまですか」
と、声を震わせた。
だが矢張り、反応は無い。
苛立ちのあまり、よみが木戸を開けようと手を掛け――止めた。
「どちら様ですか」
気を取り直し、声を掛け直す。
だが、なんの応答も無い。
くっ――と、苛立ち、木戸を掴んだ手に力がこもる。
その時――
とん とん。
とんとん。
とん――
木戸が鳴った。
流石に驚いたのか。よみの身体がびくり――と震え、思わず木戸を揺らした。
「夜分に失礼いたします。こちらに連れの
漸く、声がした。
この場の雰囲気にそぐわない、なんとも柔らかな声だった。まるで暖かな日差しを含んだ春風。
清涼感のある穏やかな口調は、声の主を容易く想像させた。
「失礼かと思うのですが、中を改めさせてはいただけないでしょうか」
それでいて物怖じしない、芯の強さを感じさせる。
「何処かとお間違いではありませぬか。我が家には主人と妾しかおりませぬ。どうか他をお探しください」
丁寧な物腰で応じるが、よみの言葉に付け入らせる隙は無い。
「いや、こちらで間違いは無いのです。この木戸を潜るのをしかと見届けております。この木戸を開けていただき、ひと目で良いので中を改めさせていただきたいのです」
対する相手も引く気は無いようである。
「どなた様かは存じませぬが、こちらには怪我をした主人と、か弱き女子である妾しかおりませぬ。居もせぬも方を改めさせるのに、木戸を開けるなど、そのように物騒な事は出来かねます」
「そこをどうにか。押してお頼み申します」
「素性も知れぬどこぞの方に、戸を開くなど無理でございます」
御引き取りを――と、よみが首を振る。
「なれば今一度、家人にて中を改めていただきたい。然るに、矢張りなにも居らぬのであれば、私の見間違いと諦め致します」
ですが――と、間を持ち、
「居りましたならば、中にお邪魔させて頂きます」
宜しいですね――と、春風の中に恐いものが混じった気がした。
「分かりました。そのようなこと有る筈がございません。ねぇ――旦那様――」
振り返るよみの瞳が大きく見開かれ、部屋の一点を凝視した。
それに釣られ、男も視線の先を追う――と、そこに黒い人影があった。
「なっ……」
いつの間にか部屋の隅に、山岡頭巾を被った黒い人影が座っているのだ。
黒い頭巾を深々と被り俯いているため、表情はまったく窺えない。老いているのか若いのか。痩身で小柄なため、男女の判別できない。
「だ、誰だ――」
人では無い――男は咄嗟にそう感じた。
その瞬間、全身を怖気が走った。
咄嗟に、剣を求め振り返る。
だがその時だった。
「矢張り居りましたか」
暖かなそよ風が吹いた。
いつ木戸を開けたのだろうか。
戸口に、ひとりの男が立っていた。
「矢張りこちらにお邪魔致していた様子」
しからば御免――と、春の微風のように山南敬助が戸口を潜った。
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