第8話 妖辻香
ここなのかい――と、沖田が朽ちかけた犬矢来を蹴った。
「へぇ」
手拭いで首筋を拭い、山崎烝は頷いた。
「ここをでんな、向こうからこう――」
表通りから振り返り、薄暗い路地の向こうへと手先を走らせる。
「――女が支えるようにして、歩いて言ったらしいんですわ」
「間違いないのかい」
横柄な口調で沖田が問う。
歳でいえば山崎の方が十ほど上である。だが、隊内の序列でいえば沖田の方が上だ。だからと言って偉ぶることも無いが、特に年長者を
立てることもしない。
「今や、この京都で
山崎も、そんな沖田の態度を気にすることは無かった。
「でもさ、左之さんを助けるようなモノ好きな女なんて、この京にいるのかい」
沖田が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「原田さん。あれでいてなかなかの男前やから」
曖昧な様子で山崎はお茶を濁した。
祇園の花街の裏手。少し行けば建仁寺である。現に日の高い今でも、表通り人の往来は多い。
だが、狭い路地を一本入ってしまえば、昼間でも薄暗く異界に迷い込んだかのような闇が広がっている。
「どう思います。山南さん」
先ほどから、路地の奥をじっと見つめているなで肩の背中に、沖田は声を掛けた。
「んん――まぁ、そういう感じですか」
鼻先を擦りながら、山南が曖昧な返事を返す。
「ちょっと山南さんてば」
ちぇ――と、舌を打ち、沖田が再び犬矢来を蹴った。
寺町通で山崎烝と会ってから、半刻も経っていない。
それはどう考えても偶然としか思えなかった。
だが、確信を持ったかのような山南の笑みを前にして、山崎は観念したかのように、この場所へ案内したのだ。
「ほんま、土方さんには内緒にしておいてくださいよ」
ほんまでっせ――と、山崎は念を押す。
土方の命を受け、山崎はこの一件の情報を集めていた。有力な情報を掴んで、屯所に戻る途中に、二人に出くわしたのだ。
山崎の話によれば、件の騒動の後、女に支えられながら逃げる侍の姿を見た――と、表通りので店を構える廓の女が見ていたらしい。その際、足を引き摺るように逃げる男が、確かにだんだらの羽織を着ていたというのだ。
「その女が左之さんを何処かへ連れて行ったというんですか」
あり得ないでしょ――と、沖田の口元には、にやけた笑みが貼りついている。
「持ち帰るのなら分かるけど、持ち帰られるなんて――」
有り得ない――と、小馬鹿にしたように首を振る。
「それにしても、なんだろう」
沖田が顔をしかめ、しきりと鼻を嗅ぐ。
「どないしました?」
「――なんだろな。なにかこう、甘ったるい臭いがしないかい?」
「甘ったるい匂い?」
山崎も鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。だが、山崎の鼻をくすぐるのは黴臭い湿った埃の臭いだけである。
「気のせいかな……」
沖田も首を傾げた。
「ところで山崎君」
突然、山南が声を掛けた。
「原田君の追った男の正体は?」
当然、知っているのだろう――とばかりに、山南が問うた。
「――ほんま、適わんわ」
どこか困ったような、照れたような様子で山崎が頭を掻いた。
「ほんま、土方さんとは違う意味で、山南さんは怖いおひとや」
そうですか――と、山南は涼やかな笑みで惚ける。
「五日前に大阪の、紀羽屋ゆう呉服屋に
店の主人夫婦に娘が二人。それに住込み奉公のものを合わせると、十人以上のものが無残にも殺されていた。辛うじて、生き残りの奉公人の口から、尊皇攘夷を口にする浪士であったことが知れる。
最近でこそ減ったものの、尽忠報国の士を騙り商家に
「まさか――」
「どうやら、紀羽屋に押し入った五人組のひとりが、その男のようなんで」
まだ十にも満たぬ娘を始め、女たちは一人残らず凌辱され、立挙げ句には、顔も判らぬほど滅多切りにされており、その犯行は残虐極まりなかった。
そのことを思い出したのか、山崎にしては珍しく、嫌悪感も露わに顔をしかめた。
「へぇ、もう調べがついているのかい」
感心したように沖田が眼を丸くする。
「
「何者です」
「松山藩の脱藩者。長州に囲われた、食い詰め浪士のひとりのようです」
「伊予松山か……因縁か――」
偶然か――と、山南が呟いた。
「他の連中も、ある程度調べはついてますが、居場所までは――」
すんまへんな――と、悪びれた風も無く、山崎は言った。
「いやはや。そこまで調べがついているだけでも凄いよ山崎」
ねぇ山南さん――と、沖田が同意を求めるが、
「成程。矢張り別筋か」
顎に手をあて、山南は何かを考え込んで相手にしない。
「じゃあ、もしかして左之さんはその連中に――」
「さてはて。なんとも言えまへんな」
山崎が神妙な顔をする。
なら――と、沖田が背後に意識を向けた。表通りからこちらを窺う人影を視線で示した。
「アイツに聞いてみる方が早いよね」
「ははん。佐野村の仲間でっしゃろな」
だよね――と、言うが早いか、沖田が動いた。
それに気が付いた人影が逃げる。
山崎――と、沖田が叫ぶより先に、路地の奥に向かい、山崎が走りだしていた。裏手から回り込むつもりなのだ。
そんな二人を見送ろと、山南は匂いを確かめるように、鼻をひくつかせた。
そして、懐から一枚の黒い符を取り出すと宙に放つ。
「私は
ひらり――と、鳥のように翻った符を追い、山南は路地の奥へと進んだ。
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