第7話 夫婦香


 呆――として過ごす刻は苦痛以外の何ものでも無かった。


 辺りが暗くなり、よみの用意した酒を呑む。

 気が付けばいつの間にか、よみは傍らに腰を降ろし、身を寄せている。

 脳髄の奥まで痺れさせるような甘い香りが、鉛のように身体にし掛かっている。

 触れば溶けてしまいそうな、雪のように白い肌はひんやりと冷たい。

 紅い彼岸花をあしらった黒い留袖が、その白さをいっそう引き立てていた。


 見れば見るほど、美しい女だった。

 ただ美しいだけでは無い。

 そこいらの芸妓や町娘などとは違い、どこか品がある。

 それなりの身分のある出自だと言われれば、誰もが納得するだろう。

 だが今となっては、その全てが薄気味悪かった。

 あまりにも美しく、一分の隙の無いそれが人のものとは思えない。


 

 あの後――気が付けば男は、いつもの部屋にいた。

 よみは先程のことは何も触れず、夕餉の支度を始めた。

 その間、男はただ呆として、座っていることしかできなかった。


 よみの用意するものは、常に美味かった。

 今、口の中に広がる酒など、この世の物とは思えぬほど芳醇である。

 膳に乗せられた魚は程よく脂がのり、何とも言えぬ味がある。

 他にも地のものを使ったであろう煮物や香の物。そのどれもが地味に溢れ文句のつけようがない。

 情のこもった格別の持て成しと言っても過言では無い。


 だが――

 尽くされれば尽くされるほど、気味の悪さが増していく。


「よみよ――」


 意を決し、口を開いたのは、口の中から酒の香りが消え、次の盃を呑もうかどうか迷っていた時だった。

 なんでしょうか――と、潤んだ瞳が見上げる。


「俺は何者のなのだ」


 この家に来てから、なんどか訪ねた質問だ。

 だがその度に「まだ傷に触ります」とはぐらかされた。


「まだ傷に触りますれば――」


 己の重さを男に被せ、よみは話をはぐらかした。


「傷のことはもうよい」


 そう言って男は、よみの冷たい肌を引きはがした。


「俺は何者なのか。お前は知っているんだろう」


 そもそも見ず知らずの男に、ここまで情を尽くす女などいない。だとすれば何かしらの繋がりが有る筈である。


「お知りになりたいのでありますか」


 離れた肌を惜しむように擦り、よみは眼を伏せた。


「当然だろ。自分が何者であるか思い出せぬなど、苦痛でならん」

 教えろ――と、睨みつけるように詰め寄る。


「私のことを忘れていることは――――」

 辛くは無いのですね――と、朱い唇が嘲るように歪む。


「なに? お前の――こと……」


 その一言に、胸が痛んだ。


「良いのです。よいのです」

 くくく――と、よみが細い肩を揺らした。


「お望みのままに、教えて差し上げます」

「おぉ。教えてくれ。俺が何者であるのか知っているのだな。ならば教えてくれ」


 ちくり――と、痛んだ胸の事も忘れ、男が詰め寄る。


「えぇ。お教えします。貴方様は、私の――」

 夫でございます――と、よみが微笑んだ。


「夫……なれば俺たちは夫婦めおとであったというのか――」


 夫婦めおとという言葉が、ひどく虚しく口の中に残る。


「夫婦。よみと俺は、めおと――」


 言われてみれば、頭の中にかかった霧の向こうに、美しい女がいたように思える。


「……お主がそうなのか」

「思い出されましたか。なれば、さあ御一献――」


 差しだされた銚子の向こうで、甘い花の香りが沸き立つように匂っていた。

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