第5話 走馬香


 いったいこの家に世話になって、幾日過ぎたのだろうか。


 もう一年もいるような気になるが、まだ二日と過ぎていない気もする。

 障子の向こうは常に薄曇りであり、昼とも夜ともつかない。


 よみが食事を用意する際に、朝餉だとか夕餉だとか言うので、辛うじて朝晩の移ろいだけは認識が出来た。

 その食事さえも、なんど喰ったのかすら曖昧で思い出すことが出来ない。


 家の中は常に心地よく、暑いのか寒いのか、そんなことすら感じたことも無い。

 ただ不思議な事に夕餉の後、酒を呑み一息つくと、決まって人肌が恋しくなる程度に空気がひんやりとする。

 そんな時は決まって、傍らにいるよみが肌を摺り寄せてくる。

 


 いったい幾日が過ぎたのだろうか。

 珍しく、よみが外へ出かけた。珍しいどころでは無い。記憶にある限り初めてのことである。


 せっかくなので、一緒に行こうと立ち上がったところで、肩の傷が痛んだ。

 不覚にも膝を着きそうになるのを、よみが支えてくれた。


「大丈夫だ。久々に外に出ようと思って、興奮しすぎただけだ」


 滲む汗を誤魔化すように、額を叩いた。


「だから――」


 そう言いかけた唇に、よみが己の白い指をあて――


「無理をなさらないで」


 そう言って、微笑んだ。


「まだ外へ出られるお身体ではありませぬ」

「いや、しかし――」


 よみの白い掌が、押し止めようと胸を押す。


「それに、旦那様を襲った不逞な輩が、未だ外をうろついているやも知れませぬ。どうかここは――」

 御辛抱を――と、決して強い力ではないが、抗えぬ何かがこもっていた。


「俺を襲った奴らが――まだ……」


 ずきり――と、今度は腹が引きつるように痛んだ。


「先ずはお身体を治すことがなにより。帰りにお医者によって薬も戴いて参ります。ですからどうか――」


 そう言って、よみは出掛けて行ったのだ。



 よみが出掛けて、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。

 部屋の中に満ちていた、あの甘い香りが薄らいでいる。


 あまりにも暇であったので、床の間にある剣に手を伸ばした。

 身体を治すが先決――よみの言うことは尤もである。だが、武士たるもの、己の剣とて我が身の一部である。

 身の傷が癒えぬのならば、せめて剣の手入れくらいは怠るべきでは無い。


 意地にも近い矜持を胸に、剣の柄に手を伸ばしたその時だった。

 先程、よみを送り出したときに疼いた腹が、再び痛んだ。

 腹を下したような痛みでは無い。

 焼けた火箸をあてられたかのような――斬られた痛み。

 じわり――と、下っ腹に捲かれたさらしから、どす黒い染みが浮かび上がっていた。

 それはまるで、割腹でもしたかのように、一文字に染み出していた。


 痛みと共に、思い出したのは、強烈な光の煌めき。自分に向かって振り降ろされる、刃の放つ殺気だ。

 いや――それは自分が握った剣の放つ煌めきだったかもしれない。

 立ちはだかるものを斬った。

 それは敵対するものであり、時にそれは、一度は志をともにしたものだったかもしれない。


 そう、仲間たちがいた――筈だ。

 泣き、笑い、そして時にぶつかり、志の為に戦う仲間。

 その仲間たちと共に、剣を振るった。


 思い出せない。


 傷の痛みに刺激され、おぼろげに記憶が甦る。

 だが、霧がかかったように霞む記憶を掘り下げようとすると、傷が痛む。今度はその痛みが、記憶の戸を開く邪魔をする壁となり阻むのだ。

 そんな苛立ちに、誰もいない部屋の中で声を張り上げた。


 駄目だ。こんなところに居る場合では無い。

 仲間が――待っている。


 待って……いる?

 いるのか?

 そもそも、何処にいるのだ?


 何人?

 老若?

 顔も思い出せない。


 当たり前だ。自分が何者かも思い出せぬのに、他の何を思い出せるというのだ。

 ただ、鼻の奥にこびり付いた生臭い匂いと、沸いた湯のような熱さが身の芯から鎌首をもたげる。


 ずきり――と、こめかみの辺りが痛む。


 ずきり。

 ずきり。


 痛みと共に、車座になり酒を呑む男たちの影が浮かぶ。


 ずきり。


 楽しそうに哂う声。


 ずきり。


 芸妓の膝枕に頭を埋めているのは――己か。


 ずきり。

 ずきり。


 狭い路地――これは花街か――を駆け回る荒い息遣い。

 締め付けられるような痛みの律動に合わせ、記憶の断片が走馬灯のように浮かんでは消えていく。


 行かねば。

 何処へ?

 分からぬ。


 だが、こんなところで安穏としている場合では無い。

 痛みに眩みそうになるのを堪え、剣に手を伸ばす。

 その途端、肩口が引きつれたように痛む。


 構うものか。

 膝に力を込めて立ち上がると、腹の傷が一層激しく痛む。

 痛みの為か。酷く息苦しい。

 部屋を出、庭へ通ずる障子を一気に開か――なかった。

 用心棒や閂とは感触が違う。


 釘でも打たれているのか、びくともしない。

 或いはそれは、最初から引くことも出来ぬ締め殺しになっていたのか。

 他も試してみたが、全て同様であった。


 何故――と、疑問を感じるよりも先に、足は玄関に向かっていた。

 よみが出掛けたのだ。

 少なくとも、そこならば開くのは間違いない。

 痛みを噛み殺し、玄関の戸に手を伸ばす。


 動かない。

 他の戸口と同様であった。

 外から錠を降ろされていたとしても、戸にがたつきくらいはある。だが土蔵でもなんでもない只の町家であるはずなのに、戸口がぴくりとも動かないのだ。

 戸口の形をした壁――ならば、よみはどこから出て行ったのだ。


 ここは一体なんなのだ。

 まるで全てが、成功に作られた箱庭の様だ。

 そう思った途端、巨大な箱の中に閉じ込められた様な感覚に襲われ、眼の前が暗くなる。


「出せ! 開けろ!」


 こなクソが――と、木戸に拳を叩きつけた。

 だが、まるで分厚い土塀を叩いたかのように、拳は虚しく弾かれた。


「誰かいないのか? ここを開けてくれ!」


 真綿で首を絞められるような息苦しさと、全身を苛む痛み。

 半ば狂ったように叫び、無駄と分かっても戸を叩き続けるしかできなかった。


 どのくらいの刻が過ぎたのであろうか。

 気が付けば力尽き、戸の前に膝を着いていた。

 自分は物狂いにでもなってしまったのだろうか。


 何も思い出せず、このような得体の知れぬ家に閉じ込められている。

 それとも或いは、自分は既に死んでいるのではないだろうか。

 だとすればここは、閻魔に裁かれるのを待つ控えの間なのであろうか。


 よみ――ならばあの女は何者だ。

 人ではないのか……あの妖艶な美貌が、急速に恐ろしく思えてきた。


 その時だった。


 甘い香りが鼻をくすぐった。

 それを嗅いだ途端、全身の肌が粟立った。


 恐怖。

 それとも歓喜か。


 形にならぬ感情が脳裏を過った時だった。

 いつの間にか、戸口が開いていた。

 あれだけ何をしても開かなかった戸が開いていたのだ。


 そこに――


「ただいま戻りました」


 白蝋のように肌の白い美しい女が立っていた。


「どうかなさいましたか」


 濡れたような艶をした朱い唇を持ち上げ、よみが小首を傾げた。

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