選択に縫い針
「っはああ……ぜえ、はあ……」
木剣を放り出し、背中からどさっと芝にダイブして掠れた喉で呼吸を再開する。息も絶え絶え、身体は打ち身だらけ。もう指の一本も動かない。そんなジェシカの横腹を容赦なく蹴りつけて、ウィロー先生の木剣が頭のすぐ横の地面に突き刺さる。
「休憩していいとは言っていない」
鬼。
妖精の跋扈するこの聖医堂の丘でもあまり聞き慣れない言葉が頭に浮かんで、汗だくで濡れた赤毛をぶんぶんと振った。
「水、くらい飲ませて」
「その体たらくで裏の井戸まで行けるならな」
「鬼!」
発音すれば脚を軽く蹴られる。
「さっさと飲んで来い!」
ジェシカは追い立てられて猫のように井戸へ走った。
持ち上げた桶いっぱいの水を浴びるように飲んで、ようやく一息ついた。毎日のようにつけられる先生の稽古が辛く苦しい、と思ったことは案外一度もなく。それにしても使い神官の数が少なくウィロー先生に師事しているのが自分だけだからか、あの人の指導が一点に集中してくるので身体が引きちぎれそうになることも少なくなかったけれど。
物心つく前に両親を亡くして聖医堂の養育院でそだったジェシカを見出して連れ帰り鍛えてくれた人。同年代だからとルカと引き合わせ、決して一人にしないで面倒を見てくれたウィロー先生は親より偉大な存在であった。そんな人に期待されているのだとしたらそれに応えたい。そう健気に思う素直な年頃があった。
井戸の縁についていたジェシカの手の甲の上に一つ、小さな焼き菓子が置かれて。
「小腹が空かないか」
音もなく隣に立っていた先生を見れば口紐つきの袋からクッキーをつまんでいる。
「太るよ」
「分けてやらないぞ、そんなことを言うと」
そう言われて大人しくクッキーを齧ることにする。
「……先生はさ、やっぱり私に剣の才能があるから育ててくれたの?」
「藪から棒に、だな。お前に才能があるなんて誰が言った? お前は欠けたところばかりだろう、剣筋だってまだまだ荒い。雑なんだ」
軽い気持ちで聞いただけなのに先生の口から出るのはいつも通りの手厳しい返答で、こちらはぐうの音も出ない。
「それに他にも大人はいたし、あのまま養育院で過ごす道だってあった。お前が私を選んだんだろう」
手に残ったクッキーのかすを地面に落としていて、先生の話を聞き逃しそうになる。そうだったっけ、と彼女を見上げるとその顔を見る前に、視界を覆い被さるように降ってくる手に前髪をかき回された。
「ぶ、」
「強いて言えばお前の怖いもの知らずが一因だろうな」
手がのけられて見上げるとやけに後ろの太陽が眩しくて、輪郭のぼやけた先生の顔がご機嫌に笑っているのがなんとなくわかる。
「人を馬鹿みたいに……」
「馬鹿ではあるだろう。自覚はあった方がいいぞ」
空になった井戸の桶を引っ掴んで遠心力のまま意地悪な大人へ叩きつける。しかし先生の手がそれを弾き、おかしな軌道を描いて宙を舞う紐に繋がれた桶の取手をパシッととらえた。
「ま、万事一長一短だけれど」
「ちぇ」
ジェシカは井戸の縁に寄りかかって残念がる。これまで先生との喧嘩に勝てたことは一度もない。私が大人になったら、水の一滴くらいでも届くようになるんだろうか。
「話はこれくらいにして。ジェシカ、少し休んだら次は魔法の訓練——」
ま、と聞こえた瞬間にジェシカは地面を蹴っていて、先生が言い終わる前に井戸から逃げ去った。
魔法のレッスンだけは御免被るのだった。
重い暗闇の水を泳ぐ悪夢からどうにか逃げ出して、ようやっと覚醒するとすぐ傍らには旅のパートナーがいて、見上げる視線に気付いたルカはぱっと顔を上げた。
「ジェシカ、」
今にも泣きそうな頼りない声が自分を呼ぶ。
「ジェシカ、よかった……」
「……あれ、先生……?」
寝ぼけた頭で言うと、ルカの赤くなった目がきょとんと瞬いた。その顔でここが故郷の丘でないことを思い出す。
「……なしなし。今の嘘。……ここどこ?」
「村の人たちが宿を貸してくれたんだ。」鼻を啜りながらルカは少しずつ状況を説明してくれた。「あの鳥の妖精をジェシカが止めたんだけど、すぐ後にジェシカも気を失っちゃって。二日くらい目覚めなかったんだよ」
ふつかぁ? 思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。使い神官の頃に妖精にやられて撤退した時でもそこまで寝込まなかったのに、私は一体何をしたんだったっけ。
「止めたって、祓えたってこと? ちょっと今、何もわかんないんだけど」
ルカが首を横に振るので他にどんな方法があるんだと自分がやったことながら疑問に思う。思考が鈍いせいで気を失う前のことが薄ぼんやりしていていけない。水でも被ってこようかなとベッドを這い出る。
「井戸ある?」
「下の階に水道があるよ」
「水道? 蛇口のやつ?」
森に囲まれて世間から隔絶された聖医堂で水を得る手段といえば井戸から汲み上げるか近くを通る商隊から仕入れるかだから、村とはいえ水道というものが作られていてまともに水が供給されている地域に来たと思うと少し感動できるものがある。
「これが本で読んだ文明か」
ハンドルを捻ると金属の擦れる音と共に水が流れ出し、単純に感嘆の声がこぼれた。
「森で千年眠ってた神より古臭い発言をするじゃないか」
「……リツェビエル?」
「おはよう」
目の前にふわりと尻尾が揺れて、神の名前を呼ぶ。手の平で落ちる水を受け止めて喉を潤すのをじっくり眺めてくるキツネの、このチラチラと光る毛皮を見るのも久しぶりのような気がしてくる。キツネは口の端を持ち上げて微笑むようにして、朝の挨拶をする。
「あのさ、」
「あ! ジェシカちゃん、目覚めたのか!」
妖精のことを質問しようとしたところで、廊下の向こうから例の商人の声がこちらに気付いて向かってきた。
「ああよかった。もう立って歩けるようだし」
「おかげさまで。宿、ありがとう」
ルカが言っていた、村人たちが宿を貸してくれたというのはおそらく彼の働きかけがあったからだろう。忘れずに感謝を伝えると商人は太い指を小刻みに振っていいんだよと笑った。
「ルカ君には会ったのか? ずっと心配してたんだよ、お前さんのこと」
ジェシカは肩をすくめると、そうだ、と顔を上げて質問した。
「おじさま、例の鳥がどうなったかわかる?」
「鳥? お前さんがなんとかしてくれたんじゃないのかい?」
少し歩いて顔を洗ったので目は覚めたのに、まだ記憶が混濁したままなのだから誰かに聞くしかない。けれど彼も頭を掻いて、少し困ったように言う。
「いや、お前さんたちがあの時鳥を相手に戦ってたのは遠目に分かってたんだが実を言うと最後の方は妙に眩しすぎて何も見えなくてねえ。事態が収束した時にはお前さんは気を失ってたし鳥もどこかに消えちまってた。」
「ふうん……」
小さな非難を込めてキツネの方を振り返るが神はいかにも獣らしく毛繕いをしていて、ジェシカの視線に反応する気はないようだった。
「追っ払ってくれたんだろ? ほんとうにありがとうなあ。これでみんな一安心だ」
商人は、俺もようやく安心してこの道を使えるよとジェシカの手を取って深く感謝した。
「……なんだ、ルカから聞いてないのか」
ジェシカの身体を気遣った商人が早々に立ち去ると、リツェビエルはようやく口を開いた。荷馬車の上では平然と喋っていたくせに。
「聞く前に目覚ましが欲しかったの」
拭うものを忘れて顔を洗ってしまって所在なさげにするジェシカの顔を濡らした水分を、珍しく神は優しい熱で乾かしてやる。それから穏やかな低い声で言った。
「そんなに身構えるほど複雑な話じゃない。お前が剣士らしくちゃんとこの村を守ったことと、神官らしくもなくあの妖精を救ったこと。その二点があればいいだろう」
「救った? 妖精を?」
自分はもう使い神官ですらないけれど、確かにその行為は神官らしさとかけ離れたものだ。薄れゆく意識の中での咄嗟の判断だったのだろう。こう説明を聞いても頭の中で暗い雲が邪魔をする。だけど本当にそんなことした?
「私、そんなに優しくない。ルカでもあるまいし」
「ふむ。まあ覚えていなくてもおかしな話ではあるまいよ、なんせあのブラウニーを蝕んでいた『廃煙』は常人がまともに吸い込めば死に至る危険なものだ。あの時すでにやられていたお前も半分意識のない中で動いていたんだろうさ」
「廃煙……?」
「この大地における魔法の毒のようなものさ。今、こうやってピンピンしてるのが不思議なくらいだよ」
「それルカは」
「あれはこのリツェビエルが縁を結んだ男だぞ。あんなものに侵食されるほど柔じゃない……というか起きた時に会ったなら無事なのは分かるはずだろう」
当然、とばかりに首を傾げる。
「ともかく廃煙に侵された妖精の末路は大概、悲惨なものだ。お前は自分とあの鳥との間で契約を結ぶことで、なんとか自分と鳥の命を繋いだんだよ」
「契約……? そうだっけ……」
廊下を歩いてくるルカが少し遠くから何か話しかけてくるのを眺めながらリツェビエルの話に相槌を打って。
「なかなか蛮勇で賢い選択だったぞ。おかげで今でもお前の中に廃煙が燻っているけどな」
契約の魔法。聖医堂で詰め込んだ知識の引き出しがカタカタと音を鳴らしている。
「契約?」
「……は?」
ルカのはっきりした発音がふいに鼓膜を打つ。それでリツェビエルがよくわからないことを言ったのをうっかり流しかけていたのに気付き、正面のキツネに顔を戻してもう一度聞き直す。
「契約って言った? 私が? あの鳥と?」
「そうだ。ほれ」
キツネの前足がひょいと持ち上がり、その爪の方向はジェシカの肩を通り越して裏庭の見える窓を指している。ああたしかに自分の身体の流れがなにか別の存在と引き合うような感覚があって、ジェシカは後ろを見なくても何が自分を待ち構えているのか察しがついた。
〈ジェシカ〉
小さな声が自分の名前をぽつりと呼んだ。
「あんたは〜〜〜!」
振り向きざまにそいつの首元を引っ掴んで乱暴に持ち上げると、小人の妖精はきゃあきゃあと楽しそうに声を上げた。
「わ! この前の……というかこの子がその妖精なんだったね」
記憶力がいいのか数日前に見た小さな妖精まで覚えているらしいルカは何故か弾んだ声で会話に参加してくる。
件の妖鳥は二つの体を併せ持つらしい。手の平に乗るほどの人型の妖精はブラウニーらしくない陽気な様子の嘴の面をつけ、短い黒髪の上に狭いつばのついたとんがり帽子が可愛らしい。サイズを勘定から外しても少年か少女のような印象を受ける。
まるであの大鳥と共通するところがない、面が妙なことを除けば普遍的なブラウニー。ジェシカが同一個体と認識できたのは縁を持った故であって、これがなければ全く気付かず追い払っていただろう。
〈元気ナイ? 困ってる?〉
小さな妖精はジェシカを覗き込んで首を傾げる。無邪気にはしゃぐ様子は、すっかり先日の錯乱状態を忘れたかのようだった。
小人ながらジェシカの手に持ち上げられたままの同じ目線から目ざとく指摘したのもきっとジェシカと縁が繋がっているからだ。立って歩けはするが身体の不調は残り火のように内臓に燻っている。
しかしジェシカは自分で結んだはずのこの魔法に何より困っていた。
「ルカは神と契約をしたけど、私は妖精を拾う予定なんてこれっぽっちもなかったの! これどうするの?」
半ば振り回すように妖精を神の方へ掲げて向け、無意味だと分かっていながらも抗議した。言葉が通じる目の前のキツネならいざ知らず、妖精なんて何を考えてるか分からないものを傍においても厄介だ。
「どうする、も何もなあ」
しかし神はジェシカの訴えを聞いても淡白な様子で、その上あくび混じりで言う。
「妖精との縁なんてそうやすやすと結んだり切ったりするものじゃない。契約の魔法は血管をかたく繋ぎ合わせるように強固で、同時に繊細な魔法だ。諦めて受け入れた方が長生きするぞ」
「な……」
〈くすくす〉
笑うな、とキツネの毛皮に小人を命中させる。キャーと鳴く声がやはり鳥のようだ。
仲間が増えたね、よかったね、と笑う顔が晴れやかで。初めて見るようなルカの嬉しそうな表情が全てを取っ払ってしまった。
契約を交わしてしまった妖精を見遣るとルカを真似てかこてんと首を傾げてみせた。
ジェシカはふっと息をつく。胸の底に小さな覚悟が着地する。
「……わかったよ……」
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