瞬きの闇

〈オハヨウ〉

 小鳥も鳴く穏やかな朝。そっと掛けられる挨拶の言葉に重たい瞼を持ち上げると眼前にくりっとした大きな目がジェシカを覗き込んでいて。

 淡い黄土色のような白目の中心に、くっきりと浮かぶ黒い月のような瞳。瞼はみょうにふかふかしていて、羽毛に包まれているのだと気付くのに三秒ほど費やした。

「ぎゃーー!」

 ジェシカの悲鳴で驚いてばさばさと飛び退いたのは昨日の、大鳥の姿をした誘拐未遂犯。

「あっち行け! ルカ、起き……」

 手元にあった長いものを引っ掴んで妖鳥に投げつけ、その隙に隣で寝ていたルカの安否を確認する。彼は……ジェシカが大声をあげて飛び起きたのに全く驚いた様子もなく、むしろぐっすりといつも通りの寝息を立てていた。

「起きろ! ばか!」

「あう」

 鳥から遠ざけるついでに乱暴に転がすとさすがに目が覚めたようで、眺めている暇はないがもぞもぞと動く気配を背中で感じとる。

「うわ、何これ……っ?」

「もー! テントがおしゃかになってんだけど!」

 手近にあったから咄嗟に投げたものはこの鳥がひっくり返していたテントのフレームだったらしく、昨夜張ったテントはぐしゃりと曲がって形を成していなかった。

「神官なんて一番妖精の気配に敏感な種類の人間だろう。寝起きが悪いんだな、意外と」

「いつもはすっきり起きる方だと自負してるんだけどな。てか気付いてたなら起こしてよ!」

 妖精が出ているというのに呑気にあくびしながらどこからか出てきたキツネに文句をつける。神ならあんたが追っ払ってよと言いたいのだがこのくらいの敵意のない妖精なんて自分でも対処できると考えるとこのキツネに頼るのも少し癪というか。

〈困る、……困る、クウ〉

「寄るなってば。何がしたいの!」

 何か戸惑ったような様子でにじり寄ってくる嘴を手で押し返す。何か妙な感じがして、ジェシカは眉を顰める。

「この子、なんだか様子が……何か困ってるの?」

「ルカ?」

 ルカの細い腕が悲しげにうめく鳥の羽毛にそっと伸びる。

「お嬢ちゃんたち! はやくそいつから離れろ!」

 村の方から昨日の商人が大声で呼びかけてきたのと、鳥の目にふっと影が差したのとがほぼ同時であった。


 ガチン!


 嘴の閉じる音とは思えない重い音が空を食べる。引き寄せたルカの腕が食い千切られていないことを確認する間もなく、羽毛で覆われた巨体が激しく暴れる下から二人は踏み潰される前に這い出した。

〈あああ、あ、まっくら、真っ暗……〉

「何!?」

 一変する。妖精から発される声の響きが、纏う空気が、その羽の色が。じわりと禍々しい。その体を蝕ばむように黒が染まっていく妖精を呆気に取られて見ていると、どす黒い煙を吸ったかのように肺が重くなる。

「ジェシカ、ルカ、早く離れろ!」

「う……、」

 内臓があぶられる感覚があって、耐え難い重苦しさにジェシカは胸を抑える。

「ジェシカ……!」

 身体を折るジェシカをルカがあわてて支えた。

「だめ、待って! しっかり! ああ神よ、どうしたら……」

 狼狽えるルカの声をぐらぐらする頭で聞きながら鳥の様子を窺うが、妖精はもうこちらのことも見えていないようなちょっとした恐慌状態に陥っている。今すぐ連れ去られるようなことは無いけれど、このまま見ているだけでは地面をえぐる勢いで暴れる大鳥の巻き添えになる。

「うるさい、……これくらい平気、だよ。リツェビエル、これは一体何」

〈ああ! ウワァ、いやだ……!〉

「想定より浸食が早いな」

 訳の分からないことを叫び続ける妖精を見上げてキツネの眉間に皺が浮き出る。それだけで、これが異常事態であることを物語っていた。

「こいつはもうダメだ、ここまでなってしまったら祓ってやらないとどうしようもない。放っておいたら被害はお前たちだけではすまないだろうね」

 神が斜視するのは後ろの家々。そしてジェシカたちを助けようにも黒煙で近付けない、あの商人や異変に駆け付けた村人たち。

 何よりこの場で一番苦しそうなのは当の妖精だった。神が顔をしかめるほど、見るに耐えない哀れな存在が目の前にあるのだ。よたよたとおぼつかない足を振り回しながらあまりにも悲しい声で鳴く鳥は、あっという間に何か不吉なものに取り憑かれてしまった。たとえ昨日の敵でも、なんとかしてやりたいような気がしてしまう。

「……剣はあんたが溶かしたんだ……」

「おっとそうだった」

 キツネは謝るわけもなくジェシカの非難と妖鳥の爪をひょいとあしらって苦笑する。鳥の嘆くような声に耳を塞ぎたくなる二人や後ろの人たちと違って涼しい顔をしているのは、きっと神として対処のしようがあるからなのだろう。

「……ここであれを巻き込んだら神官の名折れ、」

 ジェシカは立ち上がる。妖精と対峙すれば未だ、ないと分かっていてもうっかり腰の柄に手を伸ばしていて。

 その手でぎゅっと拳をつくって思い切り振り上げた。

〈ピイ!〉

 少女のパンチでも妖鳥がバランスを崩すのには十分で、可哀想な声をあげて大きな体が地面に伏す。一瞬動きの鈍くなるその巨体によじ登る彼女をルカの悲鳴が追いかけた。

「ジェシカ! どうしたの!?」

「あんたたちもなんか手伝って! もう少し、こいつを止めて」

「何かってお前。神官が斬る他に方法があるのか?」

「それは私がなんとかする!」

 言っている間にも再び立ちあがろうとする妖鳥の上で振り回されて、少女の身体が落ちまいとしがみついている。その下では踏み潰されそうになりながら少年が鳥の足に抱きついて無謀にも動きを止めようとしていた。

「仕方ないな……」

 人間の肩があればすくめていただろう、リツェビエルはキュウと喉の奥を鳴らし、ステップを踏むように肉球の足で地を踏み締めた。

 キツネの光る朱い毛皮が炎のように逆立って、地面が割れたかのような衝撃が足元を走る。

 時刻は朝。東が眩しい時間帯。朝日からのびる黄色の光が風のように地面を駆けてくるのが見えて、周囲の木々や建物から影が追い出され、ルカと村の人々の足元を細長い何かがすり抜けていった。

「千年ぶりの旅だ、お前たちのために面白く舞ってやろう。花火にするよりも愉快になるぞ」

 鳥の足や翼を掴んだ複数の触手。いや、太陽の手であった。子供二人の力で抑えられない妖精の体を小さなキツネの神の力がいとも容易く押さえ込んだのだ。

「おーい、押さえたぞ。何をするって?」

「離れて、今すぐ!」

 一言そう警告してからしがみついていた羽毛を放し、両手指を丸めて筒を作る。

 深く息を吸って、あとはその体に——羽毛の奥、その核とも呼ぶべき場所へこの息を吹き込むだけ。

「…………」

 鳥のか細い声が耳に届いた。


 太陽の手がそっと消えていく。縛られるものがなくなった妖鳥はしかし完全に力が抜けて、ずしんと地面を震わせたきり少しも動かなくなった。

 つい今しがたの騒ぎが嘘のような静寂。

 鳥が倒れた衝撃で地面に放り出されたジェシカも瞼が重くなっていく。肩を揺らすルカの手も自分に触れているのかどうかすらよく分からなくて、目の前が星のない夜に覆われた。


 ああ、これ。

 確かに怖いね。


 奇妙な感覚だがものすごい眠気と恐怖が同時に身体を襲い、たまらずジェシカは意識を手放してしまった。

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