道案内を任せていいものと、そうでないもの、2
打ったところがまだ痛むのかお尻をさすっているルカの隣で、ジェシカはガタガタ揺れる粗末な荷台の上で頬杖をつく。
「始まりがこれだと先が思いやられるね」
妖精というものはこの土地に太古から存在する人ならざるもの。ジェシカたちの故郷、リュクス聖医堂では妖精とは宿敵である。しかし故郷を離れた今、堂を守るための防衛戦すら今は必要ない。
とはいえ今回のように彼らにとっての善意がありがた迷惑になるのなら相応の撃退くらいしなくちゃならないし、神は見てるだけで頼りにならない。寝ている間にちょっかいをかけられなかったのがやっぱり奇跡に近い運の良さだったのだ。
「そうかい? いい旅立ちじゃないか。なかなか面白い体験だったよ」
リツェビエルは怒る様子もなくけろりと笑っている。
「ふっふふ、まさか人の子にぶん投げられて宙を飛んで妖精に激突させられるとは思いもよらないよな。成程たまに外に連れ出されるのも悪くないってわけだ」
「楽しそうですね、神様」
「アハハ」
ただ、攫われかけた当の本人が怯える様子もなく馬車からの景色を楽しんでいるところを見ているとそう固くならなくともいいか、と膝を伸ばした。自分とルカに危険が及ばないのならば、目に入った妖精を即刻征討するなんてこともしなくていいのだ。
「楽なもんかも」
「折角契約したんだ、上手く使えばもっと楽にもなるんだぞ。仕えている神に命じるのを躊躇っているのか、若者たち?」
旅立ちの不安を一旦放り投げたジェシカを見上げて、神はまた神らしくもないことをいう。
「そう言われても……」
「頼んだら食事も出してくれるってこと?」
「無理だぞ」
そんなことまでできるなら聖医堂の連中全員を俺一人で養う羽目になるだろ、とキツネはのんびりと前足を投げ出しながら言った。
「そりゃそうか。まあしばらくは保存食があるからいいけど……」
聖医堂から持ち出してきたリュックには比較的新しい干し肉やクッキーなどを詰め込んである。旅に出てすぐに飢えるなんてことにならないように準備してきたが、これが尽きれば自分で調達するしかない。食堂で出されるような飯にありつける日々はもう遠い。
「なんか乗せた人数より口数が多くないかい?」
おおらかそうな丸っこい顔が幌もない自分の荷台を振り返って、ちょっと不思議そうに首を傾げる。道すがら出会って向かう先が同じならと荷馬車に無賃で乗せてくれた御者の男は、まさか少年の傍らで寝そべるキツネが平然とお喋りに加わっているとは思いもしないだろう。
「あとどれくらいで着くの?」
「そうだねえ、進み続ければあと半日くらいで炭鉱町に到着するかねえ」
妙に黒い埃の溜まったざらつく荷台。どうやら普段は石炭を運んでいて、炭鉱の町に帰る途中だということだった。
「でも聖銀の森からそんなに時間も経ってないし、何もない森や野っ原で日が沈んだらまずいから道中の集落に立ち寄るよ」
「聖銀の森?」
人が聞いている馬車でもお構いなしにおしゃべりを続けるキツネの姿のままリツェビエルが口を挟む。
「さっき出てきた僕らの故郷です。聖医堂のあるところですよ」
「自分が祀られた森の名前を知らないなんてある?」
丁寧に説明するルカに被せて生意気を言う小娘に煙を吹きつけておいた。ジェシカは軽く咳き込んでキツネの尻尾を引っ張ろうと手を伸ばす。
「大丈夫かい?」
「お気になさらず」
ドタバタと物音が聞こえてくる荷台を気遣わしげに声をかけてくる石炭商人に、大人びた口調でルカが返事をした。
「それにしてもどうして子供だけであんな何もない道を歩いていたんだ? ただでさえこのあたりは最近、大鳥が棲んでいるから危ないっていうのに」
「大鳥?」
鳥といえば記憶に新しいのはもちろん先程のあいつだ。
「あの大きい割に臆病なやつ?」
「あれを見たのか! それは危なかったね。あいつはまさに子供を狙って攫うから、周辺の村々は村の外に子供を出さないようにしてるんだ」
花火で驚いて逃げ去ったところを考えると聖医堂近くに現れるような恐ろしいタイプのものではない気がする。対処が遅れているのだろうか。
「あれは妖精でしょ。神官はいないの?」
「ヨウセイ? いや、よくわからんけど」
前を向いたまま彼は首を傾げて言う。
「それが罠も猟銃も効かないらしくてねえ。今は子供を狙うだけだけど、俺もいつ突然襲われるかと思うとここを通るのはやめたいところだよ」
「…………」
そうか、彼らはあれをただの鳥だと思っている。聖医堂は神官が修道士やその家族の村も守るけれど、神官以外の人たちは妖精の存在をちゃんと感じ取れはしなかった。神官がいないのなら外の人間にとって、妖精は幻のようなものなのだろう。
それは、ああいう小さな妖精でも立派な悩みの種だろう。首を傾げて、荷馬車のうえから轍を見下ろして。
「どうしたの、ジェシカ」
「祓っておけばよかったかな」
そんなこんなで二頭の馬が歩いているうちに日は傾いて、東の青が景色へ広がり始めた頃に商人の予定通りに小さな村に辿り着く。
「え、折角宿があるのに野宿するって!?」
ここに着くまで穏やかだった石炭商人が目を丸くして言った。彼の声に驚いて、ようやくあたえられた水を飲もうとしていた馬たちの手綱にもぐわりと動揺が伝わる。
「お金がないから仕方ないの。結果的に送り出される形になるならちょっとくらいもらってくればよかったね」
振り帰るとルカも肩をすくめて笑う。
「確かにね。あの場で師範がくれたとは思えないけど……」
「そうかも」
悠長に笑っているがテントを張るにしても空はいよいよ暗い。早く村の周りを探索して場所を確保して火を焚いて……。のんびり駄弁っている暇は意外とない。
「じゃ、ここまでありがとう」
「だめだめ、鳥が出るって言ったろう。代は俺が持つから宿で寝てくれよ」
手を引いて行こうとする子供二人を引き留めて石炭商の男は言う。ジェシカはその手をやんわり振り払って、静かに男を見返して。
「……行きずりの他人にそんなことまでしてもらうわけにはいかない。行こうルカ」
口をつぐんで何も言えなくなった商人を置いて、少女たちは森へ続く辻の方へ進んでいってしまった。
「炎の神でしょ。火おこしくらいしてくれない?」
「んー?」
おが屑を用意したところでリツェビエルに声をかけてみる。返事がないので振り返ると、ジェシカの鞄の上から一歩も起き上がる気のないキツネのだらけた声がにべもなく頼みを却下した。
「それくらい自分でできるだろう?」
ちぇ、と言いつつ自分の手でガリガリと太い枝を削って、一方でルカに食料を用意させる。袋を開ける少年の手が悩ましく、少し鈍い。
「あの人、すごくいい人だったね」
ルカの呟く声にジェシカはふと顔を上げた。パチパチと弾け始める薪のささやかな火花をぼんやりと瞳に映して。若葉のような柔らかい緑が赤い光に揺れるのを少し眺めてから、ジェシカは口を開いた。
「ルカ、あんたは優しいから誰かの厚意を無碍にできないけど。大人に合わせて頼ってばかりじゃ聖医堂にいた頃と変わらないよ」
他に誰も通らないような草原に侵食されかけた道。あの道で偶然声をかけてくれたのが優しい人間とはきっと限らなかった。あの時自分たちに声をかけてルカを攫ったのは妖精ではなかったかもしれない。
「警戒しすぎるのは健康によくないけど、せめて自分のことは自分でできるようにならなくちゃ」
外は怖いのだ。聖医堂の民と違い、みんな他人だから。いつか、先生はそう言っていた。
ルカは自分の膝を抱き寄せた。
「そうかな……」
「それとも私と土で寝るのは嫌?」
そう意地悪を言うとくしゃっと笑うので、髪をかき回してやった。
傍らですでに眠るキツネの鼻先がフンと動く。
◯
さて、時刻を戻して太陽が頭上で我々を見下ろしていた頃。
「あれは、花火か……?」
崖上、物見台から外を見張るダイヤ型の瞳孔が、麓の南に寝そべる湿地の果てに火花が一つ弾けるのを肉眼で捉えた。
大きな足がずしんと地面を踏む音に”何か”が歩み寄るのを感じるが、足音の癖で”誰”なのかは見当がつく。振り返らないままでいるとその誰かの厳めしい声が自分を呼ぶ。
「どうかしたか、ドイル卿」
「聖銀の森の北出口付近で極小規模のスパークを確認しました」
大きな段差の下にいる声の主に端的な報告を返した。
「人間同士の争い事というには微妙な座標だな。どの集落からも遠いぞ」
「はい。それに見えたのはたったの一回で火薬の爆発でもないようですし、妖精の仕業の可能性もありますが」
「ぐるる……」
顎に尖った爪を当てて、彼は喉の奥から水が震えるような思案の音を漏らす。
「南の湿地帯は我が国を護る堀、我々と人間界との境界。あまつさえ森が邪魔で聖医堂の監視もままならない現状、少しの異変も見逃さないのが我らの方針だ。しかしこの時期に余計な稼働を増やしたくないというのも事実……」
呟きながら、彼が隣に降り立って。
砦の低い塀に寄りかかる、しなやかな体躯。ガラスのような鱗に覆われた身体は太陽の視線に反射して乳白色に光っている。テラコッタや煉瓦のような赤茶色の自分の鱗とは違い、彼のそれは特別を体現していた。
まさに王たる荘厳な姿。
全てのドラゴンを統べる、北の君。
「どう致しましょうか、王」
陶磁器のような大きな翼を折りたたみ、長い首を少し傾げて……丸く磨かれたルビーを嵌め込まれたような瞳の奥でキュウッと狭い瞳孔が静かにこちらを見ている。
「……王?」
「部下に序列をつけてはいけないのだが、将来性という点で私は卿を最も買っているのだ、ドイル卿」
小柄なドイル卿を見下ろして、美しい直線の角が太陽の光を遮る。しかしドイル卿は嫌な予感に目の下の筋肉をひくつかせる。
「王。まさか……、」
「ちょっと見ておいで。卿であれば、このくらいの距離は一飛びだろう」
「グッ……」
若いドラゴンは思わず憚るのも忘れて唸り声を上げる。
いつもの曖昧で簡潔な下命は良く言って単純な偵察。遠慮を捨てて言えばその先の行動を指示しない、丸投げのお使いである。
しかし王の命に撤回はない。
「生還を祈る。……ディリー。」
尖鋭な身体を気流に乗せ、空を裂いて瞬く間に遠くへ疾っていく部下を見送って。白い王は優雅に城への復路に戻るのであった。
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