道案内を任せていいものと、そうでないもの

 暁光と共に空が白む。森はずれの木の根元でそろそろ行こうと立ち上がって背伸びをしたジェシカの髪が光を反射して、カエデの葉のような赤が風をふくんで広がる。

「はあ……」

 思わず喉の奥から感嘆が漏れる。森の外で朝日を浴びることがこんなにも気持ちがいいとは。肺に吸い込む空気がいつもより格段に軽くて、このまま浮いていけそうな気さえする。


「さあそれで、このさきどこへ向かうんだ」

 いつの間にか肩に乗って話しかけてくる神は、神のくせにずしりと重さが肩にかかってくる。

「まだいたのか」

 ジェシカは煩わしさを隠す気もなくキツネを振り落とそうと身体を大きく傾ける。しかしキツネはそれに合わせてするりと肩を移動し、落下を回避していく。

「俺がいなければお前たちの旅はここで終わりだが、それでもいいのかな」

「あんたに関係ない。降りろ、このっ」

「こらジェシカ、失礼はだめ」

 ルカに嗜められてどうにも納得がいかないまま神との攻防をやめて肩に乗せたまま、ルカの出発準備を待つ。

 リツェビエルは伸びをしている契約主をちらりと眺めて言った。

「存外肝の座った少年じゃないか。夜の森も怖がらずにちゃんとついてきて、箱入りとは思えないな」

「私はあんたもまだ神には見えないけど」

 ジェシカは寝不足のせいか苛々しながら言う。

「何も特異なことなんてない。ルカは普通の子供だよ」

「そりゃジェシカに比べたら大抵の子はふつうだと思うよ? ジェシカは剣の天才でしょ」

「それは周りの人達が言ってただけ。先生はそんなこと言ってなかった」

 神がフウンと興味があるのかないのかわからない相槌を打つ。ジェシカの不敬な態度に対して特に何か気にする様子もなく、はじめの質問を繰り返した。

「どこに向かっているんだ? あてがあるとは思えんが」

「あてはないけど、当面の目的地は考えてる」

 そうなんだ、とルカが小さくつぶやいた。

「なんだよ、何も考えずにあんたを誘拐したと思ったの?」

「じっさいほとんど衝動だったじゃない。師範の言った通りだよ」

 師範とはウィロー先生のことだ。ジェシカは妖精と戦う術を叩き込まれていたが、その傍らでルカは笛の魔法を教わっていた。彼にとっても先生は先生なのだ。

 で? と質問を流され続けている神が軌道修正してきたのでジェシカはようやく答える。

「北だよ。あの山の向こう」

 これまで聖医堂の裏から北にある森を抜けてきた。ジェシカの指が示したのはさらに北の方角。高原の広がる、この島で最も古い文明の大地。

「ドラゴンの国だ」


「……あそこはこの島で一番神聖なところだから入ったらだめだよ」

 ルカは聖医堂で教わったことをそのまま繰り返す。

「入っていいかは人間に決められることじゃない。あそこに住んでるのはドラゴンなんだから」

「アッハハ」

 神が笑う声が天に響く。

「いいじゃないか、行ってみるといい。案外住みやすいかもしれないぞ」

「別に安住の地にしたいってわけじゃないからね」

 ジェシカが進み始めるのを見て、ルカは立ち上がって慌てて追いかける。

「どうやっていくの?」 

「歩いていく」

「無理だぞ」

 リツェビエルがあっさり切り捨てて言った。

「別に無理じゃない。食糧も十分にあるし、足を動かせばそのうちに」

「無茶だ。お前はともかく、こんな距離を十二の子どもが歩ききれるものか。大体この先は湿地帯だから歩くなんて以ての外だぞ」

 遠くに見える山地の手前にあって、ジェシカの目の前に広がる平地。草原のように見えるけど。

「地図とか見たことはないのか」

「禁足の地としか教わってない。どうせ見習いは森の外まで行かないから」

 そんなわけあるかい、と神は苦笑して言う。

「ちなみに地理については一緒に教わったことあるよ。師範に怒られそうだなぁ」

「ほんと? それはまずい」

 ジェシカはようやくひとまず立ち止まる。確かに進行方向はゆるく下りになっていて、地面の色が変わり始めているように見える。これ以上進めば、神のいう通り湿地に入っていくんだろう。

「これで手段が絶たれた。提案があれば受け付けよう」

「ないなあ」

 計画は練り直しか。馬でも湿地は渡れないだろうか。

「考えなさい。もっといい手はあるだろう?」

 案があるなら教えてくれたっていいんだけど、簡単に答えを与えないこの感じは覚えがある。

「馬は?」

「ないな。でも惜しいぞ」

 キツネの尻尾が背中にぱたぱたと当たる。人の肩で寛がないでくれないかな。

「逃亡から一転、見事正式に旅として送り出されたわけだからのんびりやったらいいんじゃないか? 人間の街に行ってみるのもありだと思うがね」

「ジェシカが決めていいよ」

「ごちゃごちゃうるさいなあ」

 むしろ最初に考えてた時よりもあの山が遠のいた気がする。ジェシカ一人なら極論何とかなった気がするが、ルカを連れていくことが前提なのだからそれをもう少し考慮すべきだった。あまり歩かせるのは酷なのかもしれない。

「——助け舟が欲しいならそう言えばいいものを」

「あはは、でもきっとジェシカなら何か思いつきますよ」

 眉間を押さえて黙り込んでいるとジェシカの傍で神とルカが呑気に囁き合うのが聞こえる。……それと、耳に障るクスクスという笑い声。

〈……困っテル?〉

 ジェシカが深く考え込んでいる間にその足元に好奇心に駆られた様子の小さな妖精が寄ってきていた。二人の前をうろうろと歩くそれをジェシカは足で払って舌打ちした。いつも妖精を祓うのに使っていた剣が今はないので、いちいち相手にするのは面倒だ。敵意がなくとも余計なことしかしないし。

「困ってない。早くどっか行って」

〈乗り物イル、ちがう?〉

 運んでくれるってことだろうか。こんな小さな妖精が、と言ってもやりようはあるのだろうけど、今はあげられるようなものがない。代償なしで妖精に身を預けてはいけない。

「あっちに行け」

「……あ、ジェシカ、」

「は? ……あ」ルカの声に顔を上げると、直前まで小人の形をしていた妖精は大きな鳥のような形になっていた。

〈運んだげる!〉

 鳥の妖精はルカの肩を大雑把に掴むと折りたたんでいた翼を大きく羽ばたいた。

「い、」

「は!?」

 鳥の爪が肩に食い込んでいるのか頭上に遠のいていくルカの顔が歪むのが見えて、突然生じた理不尽な危機に、呆気に取られて固まっていた頭が一気にヒートする。

「ジェ、ジェシカ〜!」

「あ〜〜もう〜〜!」

 慌てて悲鳴を上げるルカをその爪の中におさめた妖精は、望んだ方とは全く違う方向へと悠々と運んでいく。死に物狂いで妖精の羽根が落ちるあとを追うのだった。


 ルカは昔からなにかと妖精に好かれるようで、聖医堂のそばでも外に出ようものなら何かしらが寄ってくるし一人にすれば連れ去られそうになることもあった。

 それにしても最悪。最悪だ。

「なんでルカの方についててくれなかったの。あんたルカと契約したんでしょ?」

 全力疾走する肩にがっしり掴まる鋭い爪の痛みを感じつつ、言わずにいられなかったことをぼやくと、首筋の辺りにのんきに居座る神が言った。

「まあな。でもこうなってしまったものは仕方ない。そんなことよりあれをどうする? そのままやつの目的地まで運ばせてみるか?」

「冗談言うな、あいつがあのままいつどこかに消えるかしれないのに。私の手の届かないところであの子に何かあったら先生に殺される……ルカ! 魔法使って! 笛あるでしょ!」

 ルカは鳥の足の中で必死にもがいていて、風が強いのか叫んでも聞こえている様子はない。こちらがなんとかしなければ。

「ハハ」

 視線を妖精から片時も離さないで集中したいジェシカにとっては苛立ちを増長させるだけの快活な笑い声のあと、リツェビエルはまた言った。

「構いたがりのブラウニーがすることだ。ただの善意だよ。困りものではあるがルカ自身に害を及ぼす意図はないさ」

「でも子供を連れ去るだけで十分実害が出てないかな」

「そのくらいの常識はあったか」

 本当に余計なことしか言わない。頭上でただぶら下がってるルカの足を見上げて、走っていさえいなければ深い溜め息をついていただろう。

「それでどうする?」

「……神様なら姿を変えたりできるの?」

「ん? ……出来なくはないぞ、ものによるけどな。飛んで追いかけて欲しいのかい」

「そんなことは別にしないでいい。あいつを驚かしさえすれば!」

 ジェシカの踵が突然地面を滑って勢いを殺す。と同時にキツネの腹が掴まっていた肩から掬い上げられて。

「え?」

「ふっ」全身を使って振りかぶり、掛け声と共に投擲の要領で思い切りキツネを空へと放り投げる。

 ルカの方はというと妖精にがっちりと掴まれて抜け出そうにも身動きが取れないままで、風を切る音ばかりが耳を裂いてジェシカの声も聞こえない。下を見れば想像以上に遠い地面に眩暈を覚えて、まずい、と思う間もなくルカはパニック状態になりかけた。

「うわあああああ」

 しかし自分が悲鳴を上げる前に誰かの声が近付いてきて、振り返ると目の端に映ったのはリツェビエルがこちらに真っ直ぐ飛んで来る姿だった。

「ええっ!?」

 神はそのまま妖精の鳥の脚に頭突きした。しかしその小さな衝撃に妖精が気付いた様子はなく、キツネの体は勢いを失って後は落ちるだけ。

「リツェ……っ」

 重力に引きおろされるその一瞬、神の高笑いが響いた。

「……はははは!」

 落下しかけるキツネを見送るしかないルカの視界で、神の体が爆発音とともに火花に弾けた。

〈!? なに……〉

 繊細な妖精は至近距離の花火に驚いて跳び上がるように翼をばたつかせ、うっかりルカを放してしまった。狼狽えた妖精がバタバタと飛び去っていくのを捨て置いて、再び駆け出したジェシカは墜落していくルカへ視線を集中する。

「ルカ! 風!」

 今度は聞こえたらしい。笛を取り出す時間もないルカは咄嗟に指笛を鳴らす。

 ピイ、と確かな音が小規模な上昇気流を呼ぶ。地面から吹き起こった旋風の手は狙ったようにルカの細い身体をすくって、地面近くまで落下の速度をやわらげるとそのまま弱まって消えていった。

「あいてっ」

 結局自分の身長程の高さから尻餅をついて、その傍らにリツェビエルもポコンと落ちた。

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