すすむとき

 その気配は、声は、確かに先程ウィロー神官が祓ったはずの妖精のものだった。

 ぼんやりと光るその火はルカの手のひらのわずか上のところで滞空しながら少しずつ輪郭を帯びていき、徐々に光の糸が寄り集まって編み込まれて、そいつの形を作っていく。

 形成されたその姿はその場の誰も、見たことのないものだった。いや、その形自体にはある程度馴染みのあるものではある。燃えるように揺れる尻尾、細い四足、尖った耳を持った赤毛の獣。

「キツネ……?」

 犬型のものはよく聖医堂の墓地に現れるが、キツネの形をした妖精を見るのは初めてだ。毛皮に刺繍のような装飾が浮かび上がっていて、それがちらちらと灯籠のように光を帯びている。

 その姿はウサギを追って野を駆け回るキツネに全く違いはない。毛皮が焚き火のように明るいこと以外には。……間違いなく、紛れもなくただの生き物ではない。妖精の類だ。

「なぜ、こんなところに妖精が。結界は張っているはず……」

 周囲を固めていた四人の神官たちが異変を目視して、巫女の護衛のため駆け寄ってくる。妖精はざわめく神官たちの声は気にも留めず、鼻先を少し動かして剣を交差したまま呆然としている二人に赤錆色の瞳を向けた。

 と、その眼が細まる。

「ああ、それはもう邪魔だなあ」

 突然、ジェシカとウィローの剣が蒸発するように溶けて消える。

「なっ…………」

「え!?」

「ふう。これでうるさい銀の音を聞かずに済む」

 この場にいるすべての神官の剣を液体にした妖精はふわりとした足取りでルカの肩に乗り、委ねるように目をつむった彼の頬に額を近付ける。

 ジェシカだけでなくウィロー神官でさえも一時言葉を失って、柄だけになってしまった己の武器をしばし見つめた。それから只事ではない存在感を放つそのキツネを見る。

「これは——斎、あなたが呼んだのか」

 少年は歳に見合わない笑みを浮かべて妖精を見上げている。ルカが問いに答える前に、キツネは集まった聖医堂の者たちに顔を向けて言った。

「こんばんは、ソニヤの継承者とその民たちよ。手を貸すときか?」

 ——その赤い獣は人間の言葉を使ってそう言った。尾の先にぽたりと落ちた夜露が蒸発したのが見える。

 ルカは妖精の質問には答えず、キツネを乗せた腕をそのままに厳かにお辞儀をした。

「……こんばんは、リツェビエル。僕を導いてくれますか?」

「!?」

 その名が呼ばれるのを聞いて驚かないものはこの聖医堂にはいない。


 だってそれは、我々が祈りを、命を、あらゆるものを捧げてきた神の名前だったから。

 リツェビエル。

 リュクス聖医堂という小国が千年以上も前から信仰してきた祭神。光の丘に鎮座する、炎と生命の神だ。


「——召喚に応じた時点でお前の願いは受諾してる。確かにお前がこの先を往くのは大変だろうな。いいとも、リュクス・ルカルロ。幼きシャーマンよ。人間であるお前に手を貸そう」

 キツネは事もなげに答えて、ルカの目をじっと凝視すると、瞬間、ゴオッ……とその体の毛を大きく膨らませる。全身が神聖な炎に燃え盛り、その周囲を花火のような火の玉がいくつか弾けた。

「る、ルカ!?」

 その炎はルカの身体のどこも燃やす事なく、冷たかった夜に真昼のような緩やかな熱をもたらした。光が届いた周りの木の幹は金に輝き、ルカを中心にして、ジェシカや神官たちの立つ足元に太古の陣を描く。

 最後の火花がジェシカの眉間のすぐ近くで弾けたとき、炎の勢いはじわじわと失われていった。そして森の夜は闇を取り戻し、音も眠る静かな時間が再び訪れる。

 妖火が全て消えたあとの森に燃えた形跡はかけらもなく。

 誰もが言葉を無くして呆然とその光景に魅入られていた。

 それから神は不意にひょいとその肩から濡れた草地へと降りる。

「まあしかし今は違うらしい。一眠りしてるから、出番が来たら起こしてくれ」

 キツネは突然勝手な判断を下して、その場に四肢を預けて眠り始めてしまった。

「あっだめ、まだ眠らないで、……ああ、眠ってしまった……」

 皆が戸惑ってただキツネを見下ろす中、ルカだけが動じる事なく残念そうにそばにしゃがんだ。


「なんてこと…………」

 囁いたのは、ずっと黙ってジェシカたちの決闘を見守っていたフィーエだった。

 キツネはすっかり脚を揃えて地面に寝転がっており、神らしい威光など欠片もない。

「ただの獣にしか見えないんだけど」

「限りなく妖精だ。いや、……微かだが別の脈を感じる。これが霊力というものならばこれは神格に準ずるものなんだろう。しかし、」

 戦闘していたことも忘れて呆然と神を見下ろす神官たちに、ルカは微笑んだ。

「まちがいないよ、この方は僕らの神様リツェビエルだ。聖医堂を出発するまえ、本の通りに陣を描いて、僕が喚んだんだ」

「なんで……そんなこと、あるわけない」

 ジェシカが低くつぶやいた。実在する神を顕現させる力なんて、人間にはない。それを、たった十二の男の子が成し遂げて無事でいるなんて。

 しかしフィーエが一番遠くから一歩も動かずに言った。

「いいえ、この方は確かにわたしたちの神だわ」

「そうでなければ説明がつきませんね」

「信じるんですか! 先生まで!」

 ウィロー神官が手に残った銀の燃え滓を払い、巫女の下した判定に首肯する。ジェシカは慌ててその袖を引っ張った。

「信じるも信じないもない。斎は神を感じる力が強く、私たち神官とは比較にならない魔力を先天的に持つものだ。齢は十二であってもその感性は既に磨かれている」

 深い夜にも輝く鮮烈な夕日のような毛皮。それをそっと撫でる少年の顔が神への敬愛を象っていて、十二歳の男の子と思えない美しさがあった。

「……そしてそれなら、話が違ってくる。我々はかつての記憶に倣い、先達の通った道をたどらなければならない」

「…………」

 巫女は前を開けていた外套を引っ張り、自分の両腕を抱き締める。

「な……何の話?」

「肝心なものを覚えてないじゃないか」

 終着点が見えなくて眉を寄せるジェシカの眉間を指で小突いてから先生は言う。

「かつて、我々リュクスの民がこの地に到達した頃。先祖の前に現れたリツェビエル神と共に不毛の大地を開拓した。我らの創世神話だ、なぜ忘れてる」

「あ〜、えっと、それは聞いたことあるけど」

 決して神話について忘れていたわけじゃない。その大昔のお話が、今の状況とどう結びついているんだ。

「私はお前に寝物語を聞かせてやった覚えはない。神話は語り継ぐべき史実だぞ。お前は今まで何を学んできたんだ?」

「うああ」

 散々聞いて育った先生の苛立ちの声にジェシカはいつものように耳を塞ぐ。直前までいざ斬り合おうという所だったのに、邪魔が入ったせいですっかり気が抜けて以前の師弟に戻っていた。

 ルカはほっと胸を撫で下ろす。

「そう。わたしたちはご先祖様と同じように神と出会ったの。千年よりもっと前から……わたしたち斎の血が焦がれてきた、太陽の化身に。」

 一歩、二歩と歩み、手のひらを星空へかざしながら、巫女が静かに言葉を紡ぐ。

「——すすむときがきたんだわ。そして、それには神の供が必ずいる」

「……は、」

 ルカが呼ぼうとするのに気付いたのか偶然か、フィーエは置物のように静止したキツネの前に膝をついている息子を見下ろした。

「斎の呼びかけに神が応える。それは元来聖医堂の理想だわ。……あなたの旅に常に神がいるならば、導きは絶対に消えることのない太陽の光。迷うことはないでしょう」

 そう言ってフィーエは目を瞑って祈りの仕草をするとすぐそばに膝を抱えて屈んだ。それから目を閉じたまま沈黙する神をそっと持ち上げてみる。

「わたしの後継は神と共に島を巡りなさい。その間、聖医堂があなたを丘へ連れ帰ることはしません。神の導きのままに、進むべき方へ進むならばわたしに制止する権限はないわ」

 どうぞ、とぬいぐるみでも与えるように少年にキツネを差し出す。

「……はい」

「そういうことだから、さっきの話は無しにしましょう。今日はもう人同士の戦いは禁止。いいわね?」

 振り向いた巫女が見上げてきたせいでジェシカはたじろいだ。最高修道女官とは聖医堂の王のような存在であり、代表である。先程はなりふり構わず申立てをしたが、ジェシカのような使い神官は本来滅多なことでは姿を見る事もない、尊い存在だ。それがこんなに近くで動いて話しているというのは妙な感覚だった。

「かしこまりました」

 しかし実際彼女が話しかけたのは横に立っているウィロー指揮官なのでジェシカが返事をすることはない。先生が殊勝に受け入れたので戦いの決着はその瞬間に霧散した。

「今すぐにでも出発するといいわ」

「巫女、」

「なあに指揮官」

「いえ……」 

 ルカはリツェビエルを抱いて立ち上がり、ジェシカに手を差し出した。

「行こう、ジェシカ」

 何だか拍子抜けしてしまったジェシカが反応に遅れると、その背中を急かすようにトンとかたいものが押した。

「……行くがいい、ジェシカ、私の弟子よ。餞別の品も無くてすまないが」

 先生のせいで身体中打撲だらけなんだから治癒くらいしてくれてもいいんじゃないだろうかと思わなくもない。これでは稽古した後みたいだ。

「もう行け。お前に行けるものなら渡り鳥のように、果てまでも。ルカを置いては行くなよ」

 ジェシカは振り向かないで歩き出す。


「いいのか、神官。戦士よ。本来ならお前が器の守護者だろう」

 ルカの腕で眠っていたはずのキツネがいつの間にかウィローの隣に座っていて、低い声で囁いた。巫女はすでに他の神官に守られながら聖医堂に戻ったあと。

「これは彼らの旅立ちです」

 神官は目を細め、二人が向かった方向を見つめていた。

「目的がなんであろうと、この島に、太陽の下にいる限り、彼らがリュクスの丘から道を外れることはない……どうせ自由を探すなど、雲を目指すようなものなのだから」

 神は笑うように鼻を鳴らす。

 胸の前で両手の平を重ね、ウィローは誰にも知られないように祈る。

 その隣に、神はもういなかった。


「……神よどうか、私の糸を、彼らの道を見守り給え」

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