神官の剣

 母上、と掠れた声がジェシカの耳に届く。

 白い最高修道女官フィーエは、ルカを見つけてほほえんだ。厳かな微笑は、まるで聖なる光が差し込むよう。しかし一方で包み込まれるような威圧感にも満ちていた。

「巫女様。お聞き届け下さい!」

 ジェシカが足を踏み鳴らし、迫るように立ち上がった。

「やめろジェシカ」

「私は、ルカは祭壇には戻らない。彼がこの丘に戻ることはないでしょう!」

 ジェシカは上官の制止にかまわず声を張り上げる。

「こんなところで妖精を滅ぼしながら埃をかぶっていくのはごめんだ。ルカを縛ろうとする奴は、たとえ巫女様でも私は振り切ってみせる。……止められるものなら止めてみろ!」

 再び炎が燃え上がる。ジェシカの瞳に火花が舞い散る。構えた剣が淡く光りだした。

 森の一端が少女の魔力で満ちた。上昇気流で髪がふわりと持ち上がる。

 その魔力に惹かれるように巫女はジェシカに視線を遣った。それからすうっと息を吸って、小鳥のような声で言った。

「こどもだけでこんなに暗いところにいるのは何も見えなくてこわいでしょう? はやく祭壇にお戻りなさい」

「巫女様、」

「わたしたち火守りの民はこの地よりほかに居場所などないわ。みんな知っていることだけど。だから一緒に帰りましょ」

 その言葉を合図に、さらにジェシカの魔力範囲の外から、矢の切っ先のような殺気が四方からジェシカを狙っているのを肌で感じた。

 勘と、ほぼ生存本能に突き動かされて、ジェシカは頭を下げた。毛先を掠めるように光の杭が数発、頭上を通過する。

 聖医堂の丘を護る神官たちだ。

「くそ、」

「う……っ」

 ルカのうめき声にジェシカが振り向けば、彼が拘束魔法に捕まって地面に伏している姿が視界にうつる。

「斎を確保しました」

「そのままジェシカも取り押さえろ!」

 周りから大人たちが好き勝手声を掛け合っているのが耳に入ってきて、ジェシカの腹にふつふつと苛立ちがわきおこってくる。

 ……そういう所が。

「私は……」

 斎が大事だと言っておいて子どもの柔さにつけこんで、そうやって冷徹に振り落とす。あまりに不自由な世界。ルカや私の自由が許されない、見えない檻がここには存在する。

「近寄らないで!」

 剣を薙ぎ払って牽制し、神官たちの気配から位置を探る。ジェシカの数少ない魔法が届く範囲の外に、五人。近づいてくる。

「故郷といえどもう我慢ならない。私は、こんなところに氷漬けにされていたくはない!」

 抜け出さなくてはならない。ここにずっとはいられない、そんな予感は確かにあった。それが今日だ、今日この日にここを出るんだと。

 失敗だったかもしれない。

「諦めろ、ランパス」

 最後の足掻きにひびを入れたのは、巫女のそばで口を閉ざしていたウィロー先生だった。

「お前にここを切り抜ける力はない。命が惜しいなら、戻れるうちに許しを乞うんだ」

「嫌だ」

 ウィロー神官は溜め息を吐く。

「……先生、あんたはなんでこんなところにいて平気なんですか」

「ジェシカ、ここはお前が嫌うほど悪いところじゃない」

 欲しい答えなど返ってくるわけがないのに、どうして訊いてしまったのだろう。これが最後の質問になるかもしれないのに。

「ジェシカ……」

 ルカのか細い声が胸に刺さる。ここで諦めるということは彼の人生を余計に振り回しただけで終わるということだ。後戻りはできない。

「提案を、します」

「お前は……」

「先生、私と一騎討ちをして下さい。先生が勝った場合、斎はお返しします」

「……お前が制した場合は?」

 そんなことはないとは思うが、と言いたげな間を置いて続きを促す。

「私が斎を連れて去ることを、七日だけ許して下さい」

「たったの七日でいいのか」

 永久に見逃せと言ってもきっと彼らにとって無理な相談だ。これ以上の譲歩は望めない。

 先生は一呼吸の間、何も言わずにジェシカを見据えていた。やがて徐に巫女が首を傾げる隣から歩み出て、長剣を抜く。

「お前を封じるだけなら短剣で充分だと思ったが……先程のような加減はしない。戦いを挑む以上、命を惜しむことは許されないよ。分かっているな」

「だめ!」

 ルカの叫びを聞かなかったことにして、ジェシカは即答した。

「分かっています。」

 先生が本気を出すなら、自分が負ける場合はほぼ間違いなく死だ。そうなればルカも結果的に聖医堂に帰ることになる。

「……いいだろう」

 ゆっくり間合いを詰めていくウィロー神官の背中に、フィーエが問いかけるように投げかける。

「指揮官」

「フィーエ様、ご心配なく。あいつが私を越えることを認めた覚えはありませんから」

 処刑人が刃先を撫でるように、ウィロー神官はまた目を細めた。

「だめ、だめだ! 師範、ジェシカ、やめて!」

 ルカが蒼醒めた顔で制止するのも聞き入れられず、ジェシカとウィローは口を閉ざして向かい合う。

 だめ、だめ、だめ。

 ウィロー神官はこのリュクス聖医堂の戦闘聖職である神官の中でも指折りの剣士であり、その能力をもって今は神官をまとめる役割を担っている。そのウィロー指揮官を師事していたとはいえ、まだ十四歳のジェシカが彼女に敵うはずがない。

 戦いについてなんの知識もない十二の少年でも、今までの二人の稽古を見ていれば力の差は頭に刻み込まれている。これまでどんなに努力していても、まだジェシカは師匠に勝てない。死んでしまう。

「ルカ、止めても無駄だ」

 ジェシカは振り向いてもくれない。数秒間、いいや、もしかしたら瞬きの間だったかもしれない。ウィローとジェシカの視線が交差した後、剣が激しくぶつかり合う音で空間が満ちた。

 ルカやフィーエの眼には捉えきれない、魔力を纏わない純粋な剣戟。

 ジェシカは真正面からウィローの攻撃を受け止める。鍔迫り合いになる前に切り払われて吹き飛んだ身体をひねって地面を滑るように着地すると、細い身体に不釣り合いの重い剣を両手に握り、低姿勢のまま突っ込んでいく。

「んぐあああああ!」

 些か特徴のある気合いの声と共に切りかかっていくジェシカ、それを迎え打つウィローの剣が横薙ぎに襲ってくるのを跳んでかわし、剣を振り下ろす。それを神官はカンッとはねのけ、間をおかずに回し蹴りをしてジェシカの身体をふきとばした。

「っぐえ、」

「ジェ——」叫び声は音にならなかった。

 呼吸ができない。

 苦しい。

 自分が戦っているわけでもないのに、心臓がすごく早く鳴っている。

「や、やめて! やだ!」

「…………ルカ。神官は生涯戦うものだ」剣を持った手をぶらりと下げ、追撃をする気がないのか棒立ちでジェシカをただ見ている。

「無論、人間同士の殺し合いは滅多にありませんけどね。我々の掃討対象は妖精とそのような類の……人でないもの。人道を理解しないものとのせめぎ合いを長年続けているんだ。一体何名の神官が犠牲になったのか、それは慰霊碑に彫りきれないほど。故に、」

「ゆえに……」

 言いかけた言葉とジェシカの声が重なって。剣を支えにジェシカが起き上がる。その瞳は赤く鋭く、ウィローを見据えたまま。

「……”ゆえに我々の命は短い糸で縫い継ぐものなんだ”」

「なんだ、覚えていたのか」

「先生が言ったんじゃないか」

 神官は肩をすくめて、かと思うと瞬時に左手から杖を呼び出した。そしていつの間にか近付きかけていた周りの神官たちの爪先へ向けて火花を放つ。

「お前にそれを言ったのは一度きりだったと思うが」

 ジェシカは鼻をフンと鳴らしてほんの僅か笑うように口角を歪める。

「余裕があるなら再開だ。いつまで脚を杭にしたままでいる?」

 ジェシカは再び走り出す。

「どうしてなの……」

 打ち合いを続ける二人を見ていることしか出来ないルカは唇を噛む。激しい銀のぶつかり合い、突き、かわし、切りつけ……少女はまた地面に叩きつけられる。

「っぐ」

「…………」

 投げられて受け身を取りきれず剣をとり落としてしまった。背骨に響いた振動が身体中に伝わる。

「いった…………」

「遊びじゃないよジェシカ」

「こっち、の台詞。せんせいだ、ったら、ほんとはもう決着つけられてるんじゃ、ないの」

 何回目かの空白の時間。ジェシカが立ち上がって、再び彼女に挑むまでの、静かな間。先生はジェシカを見下ろすだけで、何もしてこない。

「……そうだなぁ」

 ウィロー先生はその無粋な指摘を受け止めて、木々の間に隠れる星を仰いだ。

「少し、惜しかったのかもしれない。お前は優秀で、強い子だから。あと一日、あと一晩、私はお前と共に戦っていたかった」

 巫女様からの視線を後頭部に感じつつ、彼女の顔つきが指揮官たるそれに変わっていく。

「しかし迷いは神官にとって火を消しかねない風だ。お前が迷いなく進んでここまで来たのだとしたら、私が揺らぐわけにもいかないな」

「その通りだね」

 ジェシカは呼吸を整えながら立ち上がる。頭がくらくらする。

「最後に問おう。お前は一体何を求めて生きていたんだ。この先にどんな希望をその胸に抱えて、私の前に立つんだ」

「自由だ」ジェシカは淀みなく、澄んだ空気に誓うように即答した。「私の自由がどこかにあるから。私はそれを手に入れるために、どこへでも行く」

 ジェシカの瞳がきらりと光る。それはウィローも同様に。お互いの光を映して。


「や、やめなさい!」

 見かねたルカが叫んだ。少し震えた、しかし高らかな声がその決闘を確かに制止し、二人は糸を引かれたように彼に顔を向けた。

 気付けばいつの間にか彼の拘束は焼き切られ、細い脚で立ち上がっている。

「許して、師範、……母上。僕らをこのまま行かせて」

「斎……?」

 ルカは何かを捧げ持つようにふるえる手のひらを上に向けた。その手元から弦楽器のような音がブワッと空間を揺らして。

 その手のひらに浮かぶ妖精火が現れる。

〈……そうだな。炎の熱は銀を溶かす。言葉の通りにさ〉

 その声は低く、いつかの誰かの言葉に答えるようにそう告げた。

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