ソニヤジニアの歓びの魔女

端庫菜わか

キロンの火の見送り

キロンの火

 あれは何の火だろうか。

 先程から歩いている背後を、ちらちらと揺れる炎がついてくる。ジェシカはしかし、生まれ育った大聖堂を振り返ることなく暗闇に染められた草木を踏み分けて進む。


「……あれがキロンの火?」

 傍らで少年がこそりと囁く。

 この暗い森の中で決してはぐれてはいけない。間違っても離れないようジェシカは彼の手を握って、さらに互いの手首に紐の髪飾りをしっかり巻き付けて繋いでいる。そのせいで指先はすっかり悴んでいた。けれど彼の手の温もりがあるおかげでジェシカの手が震えることはない。

「初めて見る」

「あまり後ろを見ないで」

 夜の闇深い森の中、とくに湖のほとりに現れる鬼火を聖医堂では古くから『キロンの火』と呼んだ。太陽神が眠りにつく夜にもこの大地に降り立って人間界を見守ることができるよう作られた彼自身の『目』の代わりなのだと言われている。

 ジェシカが低い声で諌めると、少年は「すまない」と素直に言い、遅れていた歩調を早めた。十二歳の狭い歩幅で、生来早足のジェシカに足並みを揃えるのは疲労も溜まるだろう。小さなランプひとつで歩き続けて、気が削がれてしまっているのかもしれない。

 先の見えない道への恐れはあれど、それでもその足取りは文句も言わずに進む辛抱強さだけはあった。

「……ジェシカ、ねえ、ジェシカはこれでいいのかい」

「今更私の道を問いただしてどうするの、ルカ。」

 少し棘の残る声色でジェシカは答える。

「神官の誓約書も燃やしてきてしまったしね、私はもう撤退不可能なんだ」

「誓約書……って、神に仕えることを宣言するっていう神官の誓約書?」

 ルカと呼ばれた少年は寒さですでに血の気の引いていた顔をさらに蒼くして、か細い声で言った。

「君は、なんてことを……だってあれは神官一人に一枚しか授与されないものだと……」

 今更置かれた状況に気付いたのか、というようにジェシカは皮肉げに鼻を鳴らした。

「あんなものはいらなくなればいつでも捨ててたんだよ」

 それにジェシカはまだ神官になっていたわけではなくて、誓約書というのも見習いの階級である使い神官のための物だから言うほど重要な品ではない。神官になるには使い神官として修業を終える必要があるから、二度と神官になる機会が訪れないことに変わりはないのだが。

「…………」ルカの指が不服そうにぴくりと動く。

「ルカ。私は別に、あの堂舎にこだわりがあるわけでもなかったんだ。あんたが気にすることじゃないよ」

「……僕のせいで君はすべてを捨てたのに?」

「あんたのせい?」

 彼はどうでもいいことを気にしているようだがこれ以上この件に関して話すこともない。ジェシカは軽く笑い飛ばして歩き続ける。唐突に会話を投げ出されたルカは溜め息を吐いた。

「わっ」

 繋いでいた手が大きく揺れる。ルカがつまづきかけてようやく、ジェシカは少年の体力が残り少ないことに気付いた。

「休憩する? さすがに歩きすぎたかもしれない」

「だいじょうぶ……」

 綺麗に結われた少し淡い黒の髪は夜露と風で冷えきって乱れ始めている。ただでさえ、ルカはこんな舗道もない森の中を歩いたことはない。負担もその分大きいだろう。


「——休むなら休んでおけ。夜の道は聖医堂の庭園とは程遠いぞ」


 滑らかな女性の声がルカのすぐ隣で提言した。さも初めから話に加わっていたかのように、自然な口調で。

「……っ!」

「何者!」

 ルカが声の方へ振り向くより早く、ジェシカがローブの下の剣を抜いていた。右手で振り抜いた重い剣を声のした方へ向ける。

「……誰?」

 剣先を向けたところには誰もいなかった。周囲を見渡してもただずっと、闇が横たわっているだけだ。どこかから誰かの暗い視線が肌を刺す。

 ジェシカは剣を構え直す。声の主は亡霊か、はたまた妖精の類か。先程の浮遊火が追いかけてきたのかもしれない。どれにしても夜道を頼りなく歩く人間に興味を抱いて寄ってきたことに変わりはないし、どれも人間にとって決して安全なものではない。

「こんな聖堂のすぐそばで人間にちょっかいかけたらどうなるか、知りたいなら出てこい」

「ジェシカ……」

 ジェシカが牽制するように足を踏み鳴らすと、瞬間、何かが燃えるような音が響いた。

「……だが姿を現さないなら即刻去れ、妖精!」

 月の細い夜。光も飲み込む森を、ジェシカの剣がぼんやり赤く照らして。

「ジェシカ待って、」

 ルカがジェシカを制止しようとかけた声に重なって、別の方向から複数の足音がこちらに近付くのが聞こえてきた。

「誰かいるのか! ……妖精か?」

 人影から発せられたのは馴染みのある神官の声。もうルカが祭壇から消えたことがバレたのだろうか。こんなところで脱走が見つかれば一貫の終わりだ。

「くそ、守衛か、それとも追手?」彼らの様子を見るに、幸いまだルカの失踪には誰も気付いていないようだ。ジェシカはまだ慌てて草むらにルカを押し込んで、賭けだが堂々と返事をする。「ランパスです! 異常ありません!」

 するとこちらに向かう足音が止まって、返事が返ってくる。「そうか、なら引き続き頼む」

 聖医堂の周辺を見回る守衛神官たち。こちらには寄ってこず、彼らの持ち場に戻っていく。それを確認したジェシカが胸を撫で下ろすのも束の間。

「…………ふ、」

 こぼれるような吐息が少女を笑った。と、同時にパチパチと火花が散るような音がする。

「いいや、わかっているよ。あの聖医堂から逃げるとは度胸がある」

「……あ、あなたは、誰ですか」

 ルカは冷や汗が首筋を伝うのを感じながら、姿も見えない妖精に問いかけた。しかし姿の見えない妖精は「誰というわけでもないさ」と曖昧に言う。

「それより子供がこんなに暗い森をふらふら歩いていたら、心配で声くらいかけるだろ? なあリュクス」

「へ、」

 ただ言葉を無くして妖精を見つめていたルカは突然呼びかけられてまごついた。

「その名前、あんたどこで」

「だからまあ、そこの娘も剣を収めな。どうせそんなもので切り付けても無駄だ」

 ひゅう、と風が耳元を掠める。

 その風に紛れて来たのか、急接近する者の気配にジェシカもルカも気付かなかった。

「…………無駄か。その剣は貴様のようなものを斬るために鍛えられた銀の剣だ、妖精」

 不意に聞き慣れた声がジェシカの背後から降ってくる。その直後、縦に亀裂が走るような攻撃が妖精の気配のあるところを襲った。高く細い笛のような一音が響いて、夜闇が白い蒸気で何も見えなくなる。

 ……ああ、最悪だ、とジェシカは胸の内で歯ぎしりした。

「魔力消滅。目標を撃破」

「ウィロー先生……」

 そこにはいつもより少し険しい顔をした、ジェシカの師が立っていた。

 いつもはおろしている長い髪を後ろで束ねて、黒い装飾の入った杖を持った神官はジェシカをじろりと見下ろして唸るような低い声で言う。

「やはり斎を連れ出したのはお前か、ジェシカ=ランパス。お前の衝動は予測に容易い、その稚拙な脱走計画もな。降級では済まないと思え」ルカの無事を目視で確認すると、神官は踵を返して聖医堂の方へ向き直った。「……早く戻るぞ。幼い斎に夜風は毒だ」

「いいえ、戻りません」

 歩き出そうとする神官の足がぴたりと止まって、細めた目がジェシカを刺す。

「それは私と交戦になることを覚悟した上で、斎を攫うと言っているんだな?」

 妖精と対峙するよりこの人に追いつかれる方が都合が悪い。そう思って急いでいたのに、結局逃げきれなかった。ジェシカはルカと自分を結ぶ髪飾りを解くと、剣を抜き直す。

 先生は幻滅したような溜め息をついて杖を火の束にして小さくし、手のひらの中へ収めると、着込んだローブの懐に仕舞う。……刹那、ジェシカの剣は閃くような短剣との衝突で火花を散らし、少女の軽い身体は重い攻撃に耐えきれず吹き飛ばされた。ルカの息を飲む音が聞こえてくる。

「っげほ」

「たしかに……お前の世話は昔から手を焼いた。いずれこんな日が来ると思っていたよ」

 転がった剣を拾って、息を整える。大丈夫だ。この人の訓練で、壁に叩きつけられたことなんて幾百回。これくらい痛くない。

「お前一人が逃げたところで誰も困りはしないだろう。しかし斎を害せば極刑だ、罪人は火に炙られて死ぬことになる」

「先生、私はその斎という呼び方が気に入らないんです。ルカも、私も、こんな小さな丘の国で埋められるために生きてるんじゃない!」

「斎は特別だ。それにリュクスで生まれた者ならば丘のために身を捧げるのは当たり前のことだろう、炉のための薪と同様に」

 ジェシカの嫌悪する目を冷徹に見据えて、ウィローは短剣に火花を纏わせていく。今度はジェシカが突進し、神官はその剣を逆手で受け止める。押し返されそうな自分の手元に噛み付くように少女はうめく。

 勝てない。

 血の滲むような修行を重ねても、この人に手が届いたことなど一度もない。今まで積み重なった厳しい訓練の記憶が、師と自分の差を深く刻み込ませていた。

 しかし——幸か不幸か、その時訪れたものは神官の手元を緩ませて。


 サク、と、草を踏む音が妙に響いて、白い足が彼らに歩み寄る。

「しかしそれは今ではありません。まだ彼女はリュクスの若木なのだから、くべてはいけないわ」

 か細く、しかし芯の堅い声。

 白い絹のドレスをゆったりと着て、夜の川のような透き通った髪を櫛で纏めた背の低い女性が、闇に浮かぶように立っている。

「巫女様……」

 神官が彼女に駆け寄って自分の外套をその白い肩に羽織らせる。「何故貴女まで、しかもお一人でこのような場所へ」

「勿論、周囲には結界を張らせています。妖精が来たらこわいもの」

 女は寝所から出てきたばかりのように目をこすりながら言った。神官にかけられたローブを自分で少し直すと、ふわりと人差し指を持ち上げる。

「それで、——わたしのだいじな後継がどうしてこんなところにいるのかしら」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る