水盆の上
次の日の朝も何事もなく訪れた。陽が昇る前に起床して寝所を片付け、裏庭で稽古をする。井戸水で体を清めて自室に戻れば朝餉が用意され、それを食べ終わるころに夜明けとなり、会堂を訪れて信者とともに神に祈る。それが終われば執務室に場所を移し、教団の運営や些事について幹部と細々とした仕事の割り振りを行い、そうしてようやく時間が確保できる。
「尊主様。ご無事でなによりです」
「ありがとう」
「今朝より各神徒宅を検めましたところ、生存が確認されたのはオーサ・フラウリー、常磐青嵐、久我山眉山の三名です」
数は合っている。8名が戦い、4名が生き残る。その組み合わせは神の導きによるもので、誰にも関与できない。
「浜比嘉アルネは?」
「家を見張らせておりますが、出入りの様子はありません。宵紅緒の死亡は同様に確認しておりませんが、今朝久我山眉山が夕凪晴夜宅を出て以降、出入りはありません。端照島の動きは追ってとなりますが、複数人が死亡したようだとの報告が上がっています」
「そうですか。引き続き、何かわかれば教えてください。しばらく下に降りますから、この部屋には誰も入らぬように」
一礼して相模が退出した後、部屋の奥にある階段への扉を開く。ここから先は一般の信者には知られていない空間だ。特別な儀式や修行を行うときに利用する清められた場所に繋がっている。ランタンに火を灯して真っ暗な階段を降り、岩肌も露わな通路を抜けていけば扉がある。その奥は20メートル四方ほどの広さの空間に繋がっていて、小さな堂が建てられている。ひたひたと水滴の滴る音が反響し、空気が静謐に振動する。
堂の中には八畳ほどの部屋が一つあり、壁際に設えたいくつかの燭台にランタンから火を移していけば漸く部屋は明るくなる。部屋の中心には大きめの水盆が置かれ、水が張られている。
注意深くそれを観察すると、中心に一つの光、そしてその周囲をいくつかの小さな光がきらめいているのが見えた。その小さな光は4つ。4つのうち一際強い光はこの神津の地図に照らせば端照島にあたる。だからきっとこれがフラウリーだ。次に明るいのは神津大学あたりと、ここ理真天教本部のある士風山の南東端。つまり常磐と私の光だろう。もう一つ八天閣あたりにある顕著な光は消去法では久我山なのだろうが、何か妙だった。その明かりはぼんやりと拡散している。このような光はこれまで見たことがない。浜比嘉が住んでいた中華街のあたりには光はない。昨日まではあった。とすればやはり、浜比嘉は死んだのか。
昨晩の戦いは実に奇妙だった。
結論としては、力を補充することができない浜比嘉に削り勝った。その力の源である符を一枚ずつ消費させた。消耗戦だ。鉄壁の防御を誇る符をすべて使い潰せばあとは通常の戦いとなる。戦いとなれば遅れはとらない。そう思ったが、符をすべて潰したところで浜比嘉は消え失せていた。おかげで刀を抜くこともなかった。
浜比嘉はもともと実体がない存在だったのだろうか、八天閣の上ではそう感じた。一方で信者からの報告では、浜比嘉はお守りなどを売って生活している。食料を買い込む姿も見られている。時には中華街の屋台で粥をすすっていた。つまり実態のある人間だ。
そもそも人ではないものはこの蠱毒の対象に選ばれない。あくまでも同じ種の存在をすりつぶして力を一つに集めるのが蠱毒というものだからだ。
文机の前に座り筆を顕現させる。
「浜比嘉アルネは今後私の前に現れますか」
ー否
否。ということは、浜比嘉は死んだ。そうとしか考えられない。未来知が明確な答えを出すということは、それ以外の未来は存在しないことを示す。今後偶然会うこともない。ほっと胸をなでおろす。けれどもそれではおかしなことがある。私は浜比嘉の神力を昨夜、吸収できなかった。神徒が死ねば、勝者に敗者の力が移るはずなのだ。
「浜比嘉の神力はどこへ?」
筆は動かなかった。これは今の私では知識がたりないか、理解できないということを示す。未来知は私の中から生まれる。だから私がその
改めて水盆を見る。フラウリーは一際強い光を有した。とすれば敗者の神力を吸収したのだろう。では久我山と常磐は?
神徒のうち、マオの光は先日唐突に失せ、同時に水盆全体がわずかに光度を増した。このような事態は想定していなかった。その時に筆にマオの生死について尋ね、死亡したとの答えを得た。死亡時の状況はマオが浜比嘉の家に矢を打ち込み、それが打ち返されて心臓を射抜かれたそうだ。
知人の情報屋から浜比嘉の居所を入手したようだが、何故そのような行動をしたのかはわからない。過去知はその過去に起こった事実を描写するもので、その内心を描くものではない。人の内心などわかりようがない。けれどもその行為によって、漸く私の頭の中に浜比嘉の使う力が反射であることに確信を得た。
この未来知も過去知も文字によって伝えるという伝達方法は同じだ。複数の断片的な事実を並行してを検討する際には整理しよいが、即応性には欠ける。
「アンニカ・コルホネンの敗因を教えてください」
ーオーサ・フラウリーのサーベルによってアンニカ・コルホネンは首を切断された。
初戦でもフラウリーはサーベルで戦っていた。浜比嘉とは異なり純粋な戦士の姿が浮かび上がる。それは信者が聞き取りをした結果からも同様だった。フラウリーは端照島群の治安維持のような仕事をしている。その戦いの状況についてはこれから何度も神問わして確かめなければならない。
「宵紅緒の敗因を教えてください」
ー宵紅緒が久我山眉山に降伏した
降伏? 何故?
「宵紅緒が八天閣に上ってから降伏するまでの行動を教えてください」
ー宵紅緒がナイフで久我山眉山を刺そうとしたところ、久我山眉山はそのナイフを奪った。久我山眉山は宵紅緒を複数度切りつけた後、宵紅緒は降伏した
「その戦いに異常はありましたか」
ー不明
「……符や呪具は用いられていましたか」
ー否
わずかにため息を吐いた。最近とみに多いことだ。
異常がある場合、その特定が私の中でできていない。何が異常足り得るかは検討し、改めて問わなければならないだろう。この力には不便が多い。すなわち、過去のことであればわかるが、その問いかけに厳密性が必要なのだ。それに誤算だったが、目の前にいない限り神徒について直接には知ることはできない。生きている久我山について問うことは出来ないが、死んで神徒ではなくなった宵についてはとうことができる。神力同士が干渉でもしているのかもしれない。
一方の未来知はその可能性を示唆するだけだ。けれども私はこれまでもこの不確実性に多くの情報を加えて可能性を絞り、生き抜いてきた。ならば、できぬことなどない。
そういえば今朝、久我山は宵の保護者である夕凪の家から出てきたという。信者は宵が昨夕、夕凪の家の中に入るのを見た。そうであればこの二人は知己であり、何らかの関係性があったのかもしれない。だから、死ぬまで争うことなく降伏した?
「宵紅緒が八天閣に登ってから降伏するまでに宵紅緒と久我山眉山の間で交わされた会話をすべて教えてください」
浮かび上がったのは、宵が久我山を殺すことに同意があったことだけだ。何故久我山が生き残っている?
検証しよう。まだ一月ある。
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