久我山眉山 vs

 やはり上手くいかないものだ。紅緒の相手が久我山眉山と知った時、そう思った。

 いや、久我山眉山にとってはこれがよかったのだろう。とても変わった方だった。生死よりも大切なことがある。それが自身の自己同一性だというのは私にとっては奇妙な話に聞こえた。自分が自分であること。通常疑いようもないそれが、誰も穢せない久我山眉山の価値だ。私など自身が何かがはっきりとしたことなどないというのに。

 私は私の情報のおおよそを久我山眉山に与えた。けれども一つ、伝えなかったことがある。それは私の試みについて。そしてそれは成功したらしい。紅緒にまざって随分時間が経過した両腕には、私は意識を移すことはできなかった。おそらく長い年月で紅緒にすっかり混じってしまったのだろう。その両腕は怪我の治りがやや早いものの、私の持つ不死性は失われていた。

 けれども新しく移した心臓や頭蓋骨ならば? 未だ紅緒と呼べぬもの。


 今、私の目の前に久我山眉山が立っている。そう感じた。冷たい風が吹いている。そうも感じた。奇妙な妖力というべきものが四囲を渦巻いていた。これが、八天閣か。

 紅緒の骨を通じて周囲の音が入ってくる。紅緒はナイフを久我山眉山に突きつけているようだ。けれども紅緒は躊躇している。そんな状況が聞き取れた。

「久我山先生の仰る通りに」

「父さん?」

 骨を通じて伝えた言葉に、紅緒は口の中で小さく返事をする。

「試みは上手くいったようです。久我山先生を刺しましょう」

「でも」

「それが久我山先生のご希望です」

 久我山眉山の声は穏やかだった。だから紅緒を見つめる視線もきっと穏やかで、いつも通り透き通っているのだろう。

 紅緒は腕に力を込める。その意志が私である心臓が送り出す血流を通して理解できる。ということは、今私と紅緒はぎりぎりのところでバランスを保っているということだ。もう少し私が過ぎれば、紅緒は私に耐えられなかっただろう。それでも紅緒は私によく慣れていた。だから極限のところで、紅緒も自己同一性を保っている。

 自己同一性。自分が自分であるということ、その認識。様々なものを取り込み分裂を繰り返しながら長く生きる私には、最早よくわからないもの。この意識のおおよそも貰いものだ。


 おそらく紅緒が久我山眉山の胸にナイフを突き立てようとした瞬間、体がふらついたのに気がついた。そして私である心臓は、体に求められるまま血流を素早く体内に送り込み始める。直後、頭蓋、頭の左上部に衝撃を受けた。

「紅緒?」

「ナイフ、取られました。攻撃されてます」

 その事実は俄に信じられなかった。何故? 久我山眉山が約束を反故にしたというのか? そんなはずはない。人を見る目は普通以上にあるはずだ。

「予備のナイフを」

 自律神経にその動きを任せているものの、心臓の拍動は只事ではなかった。何度も頭蓋骨に衝撃が走る。衝突の形は鋭く平たい。つまり紅緒が持っていたナイフ。そうして次は心臓が変形する。細く長い刃の形に。紅緒のくぐもった呻き声が骨を通して伝わる。つまり、紅緒は明確に攻撃を受けている。なんとかするには、まずは状況確認をしなければならない。

「紅緒、私に左目をください」

「はい」

 眼底骨から私の細胞を増やして紅緒の左目を吸収し、目を再生すれば眼前でナイフを振るっているのは確かに久我山眉山だった。その瞳は何も映していないように不確かだ。作りたての左目を口に変化させれば左眼窩は忽ち口内に変わる。

「久我山先生! どうされたのです! お約束は」

 そのように叫べば再び左耳の上に衝撃を受け、口を目に戻す。喋ればその分、見えなくなる。そして紅緒の体を改めれば見える範囲だけでも無数の傷が出来、服が赤く染まっていた。

 久我山眉山を観察する。その右手に持つナイフの軌道は直線的だ。迷いがないとも言えるが何かがおかしい。観察すると奇妙なことに気がついた。久我山眉山の以前との違い。

「使徒の力……?」

 久我山眉山の左手を中心に、その全身に奇妙な力が巡っている。あれは紅緒が声を発する時に漏れ出る力と同質のものだ。使徒の力。これまで発動できていなかったと言っていたのに何故今。そしてこれは、どんな力だ。

 けれども考える余裕はない。目の前の久我山眉山への対処を第一にしなければ。洗練はされていないが大人の男だ。紅緒との体格は比べるべくもなく、その一撃が重い。紅緒はなんとかナイフでその切っ先を弾こうと試みているけれど、半分は体をかすめて怪我を増やしていく。このままではただでさえ少ない体力が失われ、失血死する。動くこともままならなくなる。


「紅緒、体表面を覆い、傷を塞ぎます」

「はい、父さん」

 眼窩から極力薄く広げ増やした私の組織は紅緒の衣服の下、その皮膚表面に広がり全身の傷口に浸透してその傷を埋める。これである程度の止血はできるはずだ。けれども焼け石に水だ。内臓も既に傷ついている。けれども内臓を代替することはできない。おそらくこれ以上その機能を代替すれば、紅緒の部分が私に負けてしまう。経験則がそう告げる。一方で組織に代替しなければ、問題はないはずだ。なるべくつなぎ合わせ、保全する。けれどもすでに失われた血液は補充できない。どうしたらいい。血液を作って紅緒の中に混ぜたなら、紅緒はきっと私になってしまう。けれども血液を作らなければ、紅緒が死んでしまう。

 そう考えるうちにも新たな刃がまた傷を作る。こうなれば最短で久我山眉山を殺さなければならない。広道先生、ごめんなさい。

「紅緒、動きを補助します。力を抜いて」

「……はい」

 その声はいささか不明瞭だった。まずい、紅緒の声から生気が失われはじめている。

 紅緒の表面に広がる私を筋状に変化させて巡らせる。体内のつくりについてはある程度把握はしていたが、それぞれがどのような働きをするのかを理解したのは皮肉なことに久我山眉山と生きている蜥蜴や人の死体で実験した時だ。

 紅緒の筋肉と腱に沿うように補助すれば、その体を外部的に動かすことは出来た。久我山眉山の直線的な攻撃をいなす。私も無為に年月を過ごしてきたわけではない。戦闘の経験はある。単純な攻撃を弾くこと自体はさほど難しいことではない。ナイフを掻い潜り喉元を狙うが、反対の腕で払い飛ばされる。近づこうとしてもその長い腕に阻まれる。やはり力と体格差は圧倒的だ。


 ……八天閣で勝てば、負傷しても回復する。そう信じれば致命傷にならない範囲、たとえば左腕を犠牲にしてナイフを絡め取り、空いた右側から久我山眉山の頭部を狙う。それなら左腕に邪魔されない。殺せさえすればいい。けれどもこの方法は過度の損傷と痛みを伴う。

「紅緒。左腕を犠牲にしてナイフを奪います。これ以外勝ち筋が見えません」

 返事はない。紅緒はまだ15歳だ。それほど簡単に決断できることではないだろう。けれどもこのままでは先に紅緒の体力が尽きる。久我山眉山のナイフを掻い潜りながら、その勢いに衰えがないことを確認する。

「紅緒、現在あなたの体は失血しています。このままでは動かなくなり」

 そうして私は唐突に気がついた。ある時点から完全に、紅緒の体の力が完全に抜けていたことに。つまり既に紅緒が失われていることを。

 心臓は動いている。体もまだ動く。その脳もまだ生きている。けれどもその体から動きは失われていた。紅緒の許容値を超えてしまった。大きな間違いに気がついた。私はこれ以上、紅緒の割合を減らさなければなんとかなると思っていた。けれども割合的に私が増えてもいけなかったのだ。今の私の全ては紅緒に内在しているのだから。紅緒。もう、戻らない。


「久我山先生、私たちの負けです」

 紅緒がそう述べれば、久我山眉山は動きを止めた。私たちが争うのは最早無意味だ。

『宵紅緒さん。あなたは負けを認めますか?」

「はい」

 紅緒から使徒の力が抜けていくのを感じた。そしてそれが久我山眉山に、もっといえばその左手に吸い込まれていくのを感じる。

『久我山眉山さん。あなたは勝ちを認めますか?」

 久我山眉山は朦朧としているようで、何も答えない。意識があるのかないのかすら定かではないが、こちらを攻撃する様子はなかった。

『久我山眉山さん、おめでとうございます』

「この使徒の力の形の違いは何から生まれるのですか」

『神徒の唯一つ求めるものです」

 久我山眉山が求めたものは明白だ。そして何故これまでその力を発揮できなかったのかも理解した。紅緒、あなたが生きていれば、使徒の力などなくてもその欲したものを得ることができたでしょう。そして久我山眉山も。なんと無為なことか。

『では次の新月にお会いしましょう』

 その声は酷く空虚に聞こえた。



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