死ぬ準備

 敷かれた二組の布団のうちの一つに寝転がる。吊り下がる照明が木造の天井に淡い影を描いている。ここは夕凪の家で、他人の家で寝ていると考えるとなんだか落ち着かない。

「久我山様、ありがとうございました」

 顔を左に傾ければ、こちらを向く宵紅緒と目が会った。少女スタァというものを間近でみるのはこの子が初めてだけど、たしかに可愛らしくその瞳はキラキラと輝いている。スタァ性というものがあるのかもしれない。

「紅緒ちゃんも律儀だね」

「短いお付き合いとなるかもしれませんが、礼はきちんと伝えるよう父に言われておりますので」

「ええ。そのとおりです。久我山先生、誠に感謝申しあげます」

「たいしたことしてないし、俺のためだから別にいいよ」

 頭の上を眺めると、俺と紅緒の布団の間、窓を背景に夕凪が正座をしている。流石に晩秋だ。風が冷たい。窓は閉められている。

 夕凪はなんとも評し難い表情で俺を見下ろした。今日は3回目の新月だ。8人が八天閣で戦いおそらくその半数が死ぬ。そんな結果は実のところ、俺はさして興味がない。俺は青嵐かこの紅緒に当たった場合は勝ちを譲ることになっている。

 リューラン・マオの遺書を見ると、対戦相手に降伏すれば死ぬことはないらしい。けれどもいずれ死ぬし、円は黒くなる。他人に見える。最後が決まるまで2ヶ月ほどだろうけれど、その変化は耐え難かった。

 だから俺が死んだら夕凪に食べてもらうことにした。ゆっくり消化される。それはなんだか嫌だが、夕凪が俺を食べれば他の誰かに見られることもない。つまり俺は行方不明になる。青嵐や家族を煩わせることはない。とりあえず無難な遺書も書いた。


「久我山様は本当に使徒の力は使われていないのですか?」

「使い方なんてさっぱりわからないよ」

 嫌々ながら、青嵐に言われる通りいろいろ試してはみたけれど、うんともすんとも言わなかった。自分の中に違う何かがあるとは感じられない。

 時計に目をやると、0時まで後5分。前回は青嵐と一緒に俺の部屋にいた。あいつは今、一人で部屋にいるだろう。

「久我山様、本当によろしいのですか? それなりに同じ時間を過ごしましたし、その体を頂戴するなら姿を写せるようになるかもしれません」

「構わないよ。それは俺じゃないから」

「その死を隠したいのでしたら他にも方法はあるかと思いますが」

「これが一番確実だと思ったんだ」

 俺にとって大切なのは俺だけで、俺に似た誰かがどうなろうと正直どうでもいい。夕凪は観察した人間の姿を模すことができる。試てもらったらなんとなく俺に似た姿に変化した。青嵐にいわせれば親しい者には一目瞭然なほどの差異らしいけれど。あの精巧な臓器が思い浮かぶ。おそらく夕凪はその人間を溶かすうちによく観察したんだろう。

「それにひょっとしたら何かの役に立つかもしれないし? 俺は綺麗だから」

 夕凪がくすくすと微笑む。

「久我山様は相変わらずですね」

「それより俺が死んで青嵐が生きてたら、助けてやって欲しい。あいつは頭がちょっと変だけどいいやつだから」

「勿論ですとも。友人の頼みですから。けれども常磐様がどのような方なのか、測りかねます」

「あいつは自分が大事でちょっとおかしいってだけだよ」

 青嵐は俺の5つ上で、近所に住んでいた。小さいころはそんな変でもなかったが、変わったのは確か中学のころの夏休みかな。そこで変な神社かどこかに行って、誰かにお前は特別な人間だと言われたんだっけ。


 あれ? そんな話、最近どこかで聞いたような気はする。とにかく青嵐はその頃から自分のことを特別な人間だと思うようになって、でもそこまで頭が悪かったわけではないから特別だけども他より優れているとは考えなかった。

「特別だけど、優れていない?」

「頭はいいと思う。けど英雄になれるような能力はないってことは本人が一番知っている。だから今も弓を改造したり頑張ってるわけ」

「よく……わかりません。それは特別なのでしょうか」

「きっと夕凪さんみたいな特別な人にはわからないんだと思うよ」

 夕凪は困惑げに眉をひそめる。ちょっと嫌味っぽかったかもしれない。俺にはその不老性というものはとても尊い。自分の姿をずっと保てるなら。でもよく考えれば夕凪は肉の塊で、今のその姿ももともとの姿ではない、のか。

 『特別』とは何か。

 我ながら抽象的な話だ。そしてその『特別』という言葉は青嵐にとって呪いのようなものだ。もしその何かと会わなかったら、青嵐は今と違っていただろうか。

「そう考えれば、この八天閣こそが青嵐にとって特別になるために巡ってきた機会かもしれなくて、だから青嵐が勝つといいなと思うんだ」

「常磐様はこの八天閣で勝ち残って、成したいことがあるのでしょうか」

 成したいこと。そういえば最後の唯一人になれば願いがかなうんだっけ。どうでもいいからすっかり忘れていた。

「夕凪さんはなにかある?」

「そう、ですね。私はそろそろ土に戻りたいです」

「父さん、そんなこと言わないでください」

 心配そうに上を向いた紅緒の頭を夕凪は優しく撫でた。

「紅緒、成せないからこそ夢なのです」

 夕凪は500年くらい生きていると聞く。想像できない長さだ。その間に色々試したのだろう。極限までバラバラになってもいつのまにか集まって意識を取り戻したというのだから、簡単に死ぬこともできないんだろうな。そう考えれば俺の悩みは夕凪にとって贅沢なものかもしれない。

「青嵐に成したいことなんてないよ、青嵐にとってそもそも自分は特別なんだから」

「そういうもの、なのでしょうか」

「そうそう。だから妙な連中が勝ち残るより、青嵐が残ったほうがいいな。あいつはあれで常識的なんだ」


 そうして時間になり、気がつくと八天閣の上にいた。そして目の前にある光る玉の向こうにオレンジ色の明かりが見えた。俺の左手にあるのと同じ光だ。

 八天閣には物を持ち込める。服も弓矢も、そしてランタンも。寝る前に俺は小型のランタンの上に手を置いていた。目の前にもあるということは、あれは青嵐か紅緒だ。

「よかった」

「私はよくはありませんでした」

「そう? 結果的によかったと思うよ。紅緒ちゃんも誰かと戦わなくてすんだわけだし」

 目の前の紅緒はナイフを構えていた。150センチほどの身長で華奢だ。死ぬことは困難になったとしても、誰かを殺すのは酷く大変そうだ。

「歌ってもいいですか?」

「もちろん」

 紅緒は歌い出す。綺麗な声だと思う。けれども俺にとっては綺麗な歌という意味しかない。紅緒の声は相手を魅了するらしい。この秋以降、少女歌劇団の中で宵紅緒の人気はうなぎのぼりだそうだ。最初と2番目の敵は話しかけて油断したところを演劇の一場面だと思って殺したそうだ。けれども俺にとって唯一価値があるのは俺だけで、だから他人に魅了されたりはしない。

「やっぱり駄目ですね」

「相性が悪いんだよ。じゃあ、どうぞ」

「……本当にいいんですか?」

「勝ちを譲る約束だ。心臓はここ。この持ち手のところまで刺して、抜く。簡単だよ」

 紅緒のナイフの刃先をつまんで胸に当てる。左第三肋骨と第四肋骨の間に9センチ以上刃が入れば心臓に到達し、3秒で死に至る。最も簡単なのは耳の後ろから脳を刺すことだけど、頭を刺すのは抵抗が強いらしい。そう考えれば演劇で胸を刺すシーンはあっても頭を刺すシーンって見たこと無いな。

「このあいだ劇場でやってただろ、プッチーニのトスカ」

「え?」

「あのトスカみたいに思いっきり刺せばいいだけだ。今の俺はスカルピア」

 この間、初めて見に行った少女歌劇団の演目はトスカだった。画家カヴァラドッシと恋人の歌手トスカの話。トスカは政治犯の逃亡を手伝い収監されたカヴァラドッシを救うために警視総監のスカルピアを殺す。

 あれ? でもこの話、結局カヴァラドッシもトスカも死ぬのか。ちょっと不吉だったな。

 紅緒の腕はわずかに震えていた。やっぱり子どもが人を殺させるなんておかしい。俺がこの子を殺すのも嫌だ。誰も殺したくない。本当にろくでもない。

「これがトスカのキスよって感じで刺してくれないとさ。ジュリエットみたいに俺が自分で刺さないといけなくなっちゃうじゃん」

 そういえばハムレットにしろトゥーランドットにしろ、オペラは自分で自分を刺す人間が多いな。

「久我山さん、ありがとう」

 困ったように笑顔を作りながら手に力を込める紅緒は、やっぱり夕凪に似ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る