来たる月
新月が迫っている。
目を閉じる。次の俺の相手は誰だろう。
高い確率で俺は死ぬ。手の中にはスリングと改良きい剤の入ったガラス瓶。スリングだけは少しだけ練習した。さほど難しいものではない。少しの練習で近距離の人間に当てることができるようにはなった。
改良きい剤は陸軍医の友人と、今度は積極的に共同研究を行った毒薬だ。陸軍スパイが手に入れた合成方法が確立されたばかりのルイサイトとマスタードガスを組み合わせたもの。この薬剤は繊維やゴムを透過し皮膚からよく吸収されて即効性が高く、液に触れれば直後に刺すような痛み、2分程度で痛みは激化し皮膚、気道、眼球等をびらんする。0.5ミリリットルの付着で重篤な全身症状を引き起こす。
相手が青嵐と紅緒じゃない場合、これを投げつける。普通ならこの液がかかれば身動きなんてできない。効く相手ならいいんだけどな、名護崎勝也みたいに。
けれどもきっとそれぞれの相手がそれぞれに準備をしているはずだ。青嵐も、夕凪も、生き残るために。
先程まで実家の手術室で施していた夕凪の行った狂気的な実験が思い浮かぶ。
夕凪が内蔵を作ろうとするのは、最初は紅緒の諸器官を再生するためだと思っていた。たくさんの蜥蜴を分解してようやく頭以外を夕凪が代替しても生存できる様になった翌日の今日、夕凪は宵紅緒を連れて現れた。最初宵紅緒は俺を睨みつけ、けれども頭を下げた。
「久我山先生、この子の心臓と頭蓋骨を私に変えてください」
「え、ちょっと待って」
「私は容易に失われませんし、心臓と脳を守ればそうそう死ぬことはないでしょう」
髄骸骨を夕凪として脳を守る。心臓を夕凪として破壊されても再生するようにする。それは確かに死亡率を如実に下げるだろう。けれども自分に他人を混ぜるなんて。
「気持ち悪い……」
言った直後に後悔したが、夕凪は困ったように微笑み、紅緒はキッと強く睨むだけだった。
「ごめん、取り消す」
「良いのですよ。それが久我山先生の真実なのですから。それに確かにこれは、気持ちの悪い行いです。私は人ではありませんし」
「いや、夕凪さんが気持ち悪いわけじゃない」
そう告げると、紅緒はきょとんと俺を見上げた。改めて見れば15歳ほどの子どもに見える。ほっそりとした手足とその雰囲気は、たしかに親子といえるほど夕凪に似た部分があった。妖怪って子どもを生むのかな。その視線に気づいたように夕凪は呟く。
「紅緒は人の子です。けれども私が発見した時、両腕がなく川に捨てられておりました」
両腕がなく?
「そして私が両腕を分け与えました。もはや分かち難いほど、かつての私の一部はこの子に混ざっております。だからこの子は私の子です」
混ざる?
よく考えれば人間も精子と卵子が結合して胚となり、それが分裂して肉体を形作る。そう考えれば、夕凪晴夜がその体の何割かを構成するのなら、子といってもおかしくない、のかな?
「紅緒……ちゃんはそれでいいの? 頭蓋骨はわからないけれど、心臓をお父さんにすると何かが変わってしまうかもしれない。それに失敗すれば死ぬだろう」
それは直感的な感覚だった。魂というものは心の臓に宿る。なんとなくそんな風に思ってしまっていたから。結局のところ俺は体を開き腑分けするだけで、その臓器を作るのは夕凪自身だ。俺にその成否が委ねられているわけではない。けれど。
「私はかまいません。父はいつも私を助けてくれました。今回もそうしなければ、私は多分死にます」
「紅緒もリューラン・マオと同じく、戦闘向きの力ではありません。ですから生き残るのに必要だと考えました。これ以上混じれば自我を保てなくなるかもしれない点も含め、よく話し合っております」
「自我が保てないって?」
夕凪は紅緒と顔を見合わせ、腕を組む。
「言いたくないなら別に構わないけど」
「いえ。父は薬なのです。薬は過ぎれば人を害します」
薬? そういえば青嵐がぬっへふほふは薬だといっていたな。たしかにその不死性、そして人の手足を接ぐことができるのなら、それは確かに薬だといえるだろう。そして薬というもの全般、過剰摂取をすれば害をもたらし時には人を死に至らしめる。
両腕の重さは体重の6%ほどだ。それが多いのか少ないのかはよくわからないが、影響を無視できるほどの量ではないだろう。
「俺は……お二人がやれというのならやるよ。俺も願いを聞いてもらうんだから」
「ありがとうございます」
「けど心臓を取り替えるだなんて誰もやったことがない」
「大丈夫です。体を開けていただいて、中の作りについてご意見が頂ければ」
実のところ、夕凪が持ち込んだ宵紅緒と同じ程度の年頃の児童の死体で一度実験をした。その時は死んでいたから、血も出ず呼吸の管理は不要だった。けれども生体の心臓を取り替えるなんて正気とは思えない。誰もそんなことを考えたことはない。けれどもそうしなければ死ぬ。宵紅緒もその場所にいる。
そうして宵紅緒が解剖台に横たわる。クロロホルム・エーテル混合麻酔を用いれば、しばらくすれば宵紅緒は昏睡した。裸体を見ればその腕に継ぎ目などはない。このレベルで細胞を混合できるのであれば、可能なの、だろうか。
夕凪は宵紅緒の胸骨の下、腹腔の上にその左手を置き、その形をどろりと崩す。時間の経過を待つ。
「紅緒に浸透しました。こちらをお切りください」
その半ば溶けて宵紅緒の表面に広がった夕凪の身を腹膜ごと切開すれば、その暖かな胃腸が現れ鉗子で固定する。奇妙なことに血も出ていない。切開面の細胞が既に混交しているのだろうか。夕凪は左腕から伸びる流体を更に横隔膜沿いに伸ばし、そこを再び切開すれば、ようやく心臓を覗くことができる。
「久我山先生。紅緒は先日の子どもと代わりありませんでしょうか」
「そう、ですね。おそらく」
先日の子ども、というか一般の子どもの体と変わりはなさそうに見える。
「太い血管が全身と肺に連なる動脈と静脈に接続するのですね」
「そうですね」
夕凪はおそらく左腕でその形を探りながら、右腕を紅緒の心臓の形に変化させる。
「中に空気が入ったり、もともとの血管を傷つけてはいけません。血流を止めてもいけません」
「心得ております」
夕凪は目を閉じ、両腕を紅緒の胸腔に突っ込む。ここから先はなにをやっているのかは想像でしかないが、各動静脈の四本に同時に穴を開けて新しい心臓に血脈を通し、本来の紅緒の心臓に続く各動静脈をクリップで止めるように閉鎖する。その後、閉鎖した心臓を摘出する。
それに要した時間はおそらく20秒ほどだった。俺のしたことと言えば麻酔をして若干の観察を行い、腹部を開いて固定しただけだ。
ふぅという夕凪のため息とともに引き出された右腕には、血に塗れた心臓が掴まれていた。
「なんとか上手くいきました。ありがとうございます」
「医者は無力ですね」
「化け物に頼ってはだめですよ」
念のため、横隔膜と腹膜を夕凪の肉ごと縫い合わせる。そうしなくても安静にしていれば翌朝には夕凪の肉が癒着するらしい。糸は夕凪の肉が消化するそうだ。
そして紅緒の頭皮を剥ぎ、頭蓋骨を取り外して代わりに晴夜の肉が注入される。実に猟奇的な話だが、これによって宵紅緒はそうそうに死ぬことがない体を手に入れたわけだ。
「その頭蓋骨と心臓はどうされますか」
夕凪は手術が終わって、手の中に収めた紅緒の頭蓋骨一式と心臓を見つめていた。
「これは本来、この子の命でした。ですから私が預かります」
そう呟けば、夕凪の両手に全てが埋もれて消える。おそらく体内に収納したのだろう。
「本当はこんなことはしたくはなかったのです」
「それは……そうでしょうね」
「けれども仕方がありません」
その様子は寂しそうに見えた。そして数時間後に麻酔から目を覚ました宵紅緒は、眠る前より随分と雰囲気が夕凪に似ていると感じた。
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