5章 投げやりな勝利 久我山眉山
彼女の死体
「この死体は実に不思議だね」
「ええ。凶器がわかりません。署では氷の釘で刺したなんてやつもいましてね。お手上げです」
志賀谷はさも困ったというような声を上げた。創傷の形状からはなかなかいい線をついている。
「凍傷もなし、氷の釘なら体内から多少なりとも水分が検出されるんじゃないかな? だから違う。可能性があるとしたら空気の釘かな」
「空気、ですか?
「志賀谷さんは面白いことを考えますね。固体二酸化炭素こそ凍傷の所見があるでしょう」
確か明治の後期にイギリスで冷凍用途での特許が取られたはずだ。死体の保存には温度を冷やすのが第一次的に検討される。以前調べたことが有るけれど、使い勝手は悪そうだった。
「体の前面から心臓、そして背面までの貫通創。刺入口の直径は8.2ミリ、刺出口の直径は7.8ミリ。太さからは槍よりは矢の方が可能性が高い。組織を見れば引き抜いたような挫滅はない。でも凶器が見つからないんだね。普通に考えれば凶器が抜けた先は地面だろうけど」
志賀谷の話では、死体が発見された当時、被害者は地面に倒れていたそうだ。そして地面には血液は広がっていたけれど、それ以外の周囲に血液は散らばっていなかった。死因は心臓部からの失血死。ということは、もともと寝ている状態で体に凶器で貫かれたか、倒れた瞬間は未だ心臓に凶器が刺さっていて、それが消失することによって大量の血液が流出したということ。凶器が失われた時点で即死だろう。
けれどもそれは死体発見現場での所見で、俺は純粋にこの死体の死をもたらしたのが何かを鑑定すればいい。
「久我山先生。やはり銃じゃないんですね?」
「銃創の場合は弾丸に付着した油による汚染輪、火薬による焼輪がある。それがない。だから銃器じゃない。凶器を見つけるのは俺の仕事じゃないな。検死報告書は明日までにまとめておくから」
「お手上げですね。よろしくお願いいたします。最近は妙な事件ばかりだ」
志賀谷がのびをしながら帰った後、リューラン・マオの遺体を霊安室に運ぶ。
こんなにしまらない報告書を書くのは初めてかもしれない。空気の矢、か。
俺はそれが空気の矢ではないことを知っている。普通の木製の矢で、奇妙なことに矢の僅かな痕跡、つまり体内で砕けたようなわずかな木片ですら検出できなかった。青藍は矢を引き抜かずに全て回収した、いやその全てを用いて別のものを作ったのだろうから、リューラン・マオの体内に矢の痕跡は無い。それだけだが、それを報告書にかくわけにはいかない。
リューラン・マオの死体が俺のところにやって来たのは、背中に丸い円があったからだ。しかもその円は黒く染まっていなかった。
それは俺に1つの可能性を示した。
八天閣で死ななければ、円は黒くならない。この手の甲に円があることは許せないが、黒くなるよりはましだ。だから今のうちに自殺でもすれば綺麗な死体になるんじゃないかな。
いずれ火葬される。そんなことはわかっている。本当はね、ずっと綺麗なまま保管できればいいとは思う。けれど現実的に保管し続けることは難しい。でも俺は存在する限りは綺麗でいたい。無惨な死体を晒すなんて許せない。これまでの死体から、八天閣での戦いによる創傷が死体の外形に影響を及ぼさないのは理解した。けれどもこの忌々しい円が黒く染まった姿を人に晒したくはない。死んだら円は人に見えるようになる。なら円が黒くないうちに死んでしまって早々に火葬されるか。けど万一、俺が最後まで勝てばこの円はなくなるはずだ。きっと。
青藍なんかは死んだらどうでもいいなんていうけれど、俺はそうじゃない。
カツカツと木床を踏む音に目を上げれば、青藍がこちらに向かっていた。その左腕には手首サイズほどの人形にしかみえないものが乗っていて、ふいにこちらを見上げた。
「久我山先生、顔色が悪くていらっしゃる」
「それはよくないですね。きっと疲れがたまっているんでしょう。夕凪さん、おかえりなさい。ちょうどリューラン・マオの死体を検めていました。円は線のままです」
「そうですか。痛ましいことを致しました」
小さな夕凪はリューラン・マオを乗せた台車に飛び降り、小さく手を合わせた。思い出したように青藍も手を合わせる。死者にたいする礼儀を持ち合わせているのが人ならざる夕凪だけだというのも妙な話だ。
「夕凪さん、円は背中だからひっくり返さないといけない。先に体を返します」
奥から台車を引き出せば、その上に左手首から先を欠損した夕凪晴夜が横たわっている。リューラン・マオの台車の隣に並べれば、小さな夕凪は台車をまたいで移動しその左手首部分に触れた。するりと小さな夕凪が溶け崩れて左手首の形をとって本体にくっつき、本体の夕凪がパチリと目を開く。台車から降りてするりと立ち、再び手を合わせた。実に奇妙な生き物だ。
「久我山先生、ありがとうございます。体の保管場所があるというのは便利なものですね」
「まぁ、そうかもしれませんね」
保管場所、か。その問題もある。突然俺が死んだら不審死だ。俺の体はバラされる。やっぱりそれは我慢ならないな。リューラン・マオの体を慎重にうつ伏せにして浴衣の背を開ければ、解剖した心臓周りに縫合痕がある。他人だとどうとも思わないが、自分にこんな傷がつくと考えるだけで腸が煮えくり返る。落ち着こう。ストレスはよくない。
「ここだ」
縫合痕の少し下に丸い円があった。俺や青藍の円と同じような大きさだ。
「触れても? 私に感染症の危険はありません」
「どうぞ」
夕凪は目を閉じ、その縁をなぞるようにふれる。夕凪はその細胞こそが本体だからなのか、病気にも無縁らしい。そう考えれば理想的な体なのだろう。
「この方の円の内側には未だ力が感じられます」
「力? そういえば情報の力を持っていると言っていたね」
夕凪は目を開けて考え深げにこちらを眺める。
「久我山先生。力の中身はわかりません。けれども他の方々の遺体の黒い円からは、同種の力は既に失われていました」
「ふん。では俺が斎藤から得た力もその円から抜け出て俺に入ったということか?」
「気持ち悪いな」
夕凪が青藍の左手をとり、円に触れる。
「わかりません。常磐様の円に力が満ちていることはわかりますが、それが1人分か2人分かの区別はつきません」
つまり力が抜け出ればそこはぽっかり黒く染まる。まるで穴が開いたように。酷い直喩だ。
「じゃあ本題だ。これがリューラン・マオから預かった手紙だ」
「預かった? 奪ったじゃなくて?」
「多分、預かった」
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