阿文の封書

「姐さん、大丈夫ですかい? あの浜比嘉って野郎に呪われてるってのは、本当のことだったんですね」

「そう……なの。やっと信じてくれたのね」

 ふわりと中国茶の華やかな香りが鼻腔に入る。血の気が引いて足元がおぼつかなかい私は、阿文行きつけの香蘭坊こうらんぼうという茶屋に倒れ込んだ。中華街の外にある店だ。

「姐さんの言葉を信じてないってことはないんですよ。あんまりにつねじゃなかったってだけです」

 阿文は心配そうにしながらも、慌てたようにそう呟く。私も阿文の半信半疑は、私を疑ってるんじゃないってことはわかってた。ただ、あんまりに現実味がない話ってこと。

 注がれる淡く白いお茶からは繊細だけれども強い茶の香りがして、口の中に溶けるようにほのかな甘味が広がる。

「これは白牡丹ばいむーたんって茶で、気持ちが落ち着くんですよ」

「ありがとう。ようやくすっきりしてきた。困らせてごめんね」

「いいんですよ、姐さん。いくらでも頼って下さい。お互い他に、頼る身なんて無いんですから」

「ありがとうね」

 しゅんしゅんと湧くお湯が新しく茶器に注がれる。その湯気はなんだか暖かかった。私は神津の片隅で生まれ、阿文はこの中華街の端っこで生まれ、そして互いに両親がいなかった。出会ったのはお互い二十歳を過ぎたころだけれど、会った瞬間、わかり会えると感じた不思議な人。同じような仕事をしているし、なんだか他人のようには思えなかったからかもしれない。かけがえのない人。

 私と阿文の間では恋愛なんて発生しない。

 私達は多分、情報というものでそんなものはどうにでもなると知ってしまっていたから。だから今、こんな不確かなものが溢れ返る仕事だからこそかえってお互いを家族のように感じている。

 情報屋なんて信頼がなければ成り立たない。けれども結局その信頼なんて、本当のところは魂の中で生じるものなのだ。この人の言うことを信じられるかどうか。お互いがもたらす情報が真実だと信頼することで生まれる、脆くて強いつながりだ。

「姐さん、呪いのことをもっと教えてくださいよ。今度はちゃんと聞きますから」

 阿文は随分と心配そうだ。きっと阿分も私を同じように考えているのだろう。私は阿文のかけがえのない大切な情報源。

「そうねぇ。とは言っても私もよくわかんないのよ」

 このままだと私はあと1ヶ月もしないうちに、あの塔の上で死ぬかもしれない。結局のところあの塔で行われるのは殺し合いだ。過去で見た会話からも、最終的に1人になれば、その他の唯一人は死ぬらしい。


 殺さなければ死ぬ。殺す覚悟はもうできている。

 けれども浜比嘉アルネと当たれば、多分死ぬ。

 他の唯一人ならおそらく、私は殺すことは可能かもしれない。あの八天閣に移動するのは次の新月の午前0時だ。移動する時間はわかる。それなら移動する前に銃の引き金をひき、移動した直後に即座に撃つ。そうすればオーサ・フラウリーであっても殺すことは可能かもしれない。唯一人の中に鎧を着たような人間はいなかった。そして会話を試みようとする唯一人なら、その隙をついて殺せる、と思う。

 浜比嘉アルネと出羽の山の戦いは異常だった。あの謎の札。あれが出羽の山を締め上げた。出羽の山ですら、だ。私なんてひとたまりもないだろう。それに第一私では、というより銃で殺せるとは思えない。浜比嘉アルネは出羽の山に締め上げられた時、あたかもその胴体が空洞であるかのようにひしゃげた。あれは一体何なのだろう。浜比嘉アルネの体の中は伽藍洞がらんどうなの?

 銃で撃っても殺せるとは思えない。

 浜比嘉アルネを殺せそうな唯一人は、毒を使う久我山眉山くらいだ。けれども唯一人と唯一人は殺し合うものだ。久我山眉山も話し合いをしていたけれど、最終的には殺した。殺すことに何の躊躇いもなさそうだった。あの人も本当は怖い。何を考えているかわからない人間は怖い。銃で殺せそうな分、浜比嘉アルネよりまし、というだけ。

 何を考えているかわかる人間、阿文。

 私達はそれほど親しくなっていた。なってしまっていたことに気がついた。こう言えば、阿文がどうするかわかるほど。

「阿文。多分私が生き残るには、あの浜比嘉アルネを殺すしかないと思う」

「それなら……殺すしか無いですね」

 阿文はまっすぐ私の目を見た。迷いなんかまったくなかった。やっぱり。だからこそ、私の事情に巻き込むわけにはいかないんだ。

「姐さん、これまであの野郎に送られた刺客の情報を集めてみます」

「けれどそれじゃ、あなたと大老の関係が悪くなってしまうわよ」

 これまで聞いた話だと、中華街の大老は浜比嘉アルネの雇用主だ。

「大丈夫です。あっしはそんな下手はうちませんよ。敵対してるところにも伝手はあるんで上手くやりますから。それに上手くやれなかったら、河岸を変えるだけです」

 そう言って阿文は小さく笑った。そう簡単な話ではない。阿文の情報源の大きなところはこの中華街にある。情報屋というのは機を見て情報を流すもの。危ういところに立っていて、機を見誤ると関係する全てから敵対されかねない。けれども私には阿文しか伝手はない。

 だから私はその情報をできるだけ高く買う。

「ごめんねぇ。お代はいかほどだい? 何だって払うよ」

 私は初めて、自分のために阿文を利用しようとしている。だからこそ、その対価はきちんと支払わないといけない。

「へへ、水臭いですね。じゃあ情報は情報で返して下さい。俺が凄く困った時に、1回だけ」

 普通、情報屋に後払いなんてしないのだ。次に会った時に誰の味方になっているかもわからない私達など。だからその言葉はやはり私に対する信頼で、とても嬉しかった。

「駄目よそんな曖昧なこと」

「じゃあ考えておきますんで」


 阿文が集めてきた情報は、確度の高いものではなかった。けれどもとても重要な情報だった。

 これまで何度も浜比嘉アルネに対する暗殺が試みられたらしい。呪術的なものは跳ね返されて術者が死んだ。暗殺者が送り込まれた時は返り討ちにされた。

「それが妙なことを言うんですよ。例えばあの野郎にナイフを投げるとするでしょう? そうするとよけるでもなく腹に穴が空いて向こう側に貫通するっていうんです。それでそのナイフを投げ返されて終いだそうです。そんな馬鹿なことってあるんですかねぇ」

 阿文はやはり、首をこてりとかしげた。

「それは多分、本当のことよ」

 阿文の話は私が八天閣で見た過去とも一致する。出羽の山の締付けに対して、不自然なまでに胴が細く変化した。穴は空いてはいなかったけれど、穴が空いたといわれても自然なほどに。

「まいったな、それじゃぁ一体どうしたらいいんでしょ」

「弱点はある。弱点はあるの。浜比嘉アルネは毎日必ず、午後3時過ぎに仮眠を取っている。だからその時間帯に頭を狙えばなんとか……いえ、そこを狙うしか無い」

 それが私があの家で見た過去だ。

 3時をすぎれば目眩がするようにふらつき、すぐに戸口に閉店の札をかけて室内に戻って寝台に横たわる。そこから2時間ほどは目を覚まさない。頭を撃てば流石に殺せないだろうか。それより他に方法はない。

「ありがとう、阿文。後は私がなんとかするわ」

「姐さん、なんとかって」

「ここから先は私の問題だもの」

 暗殺者を雇うか、それでなければ私が殺す。殺されたくないから殺すんだ。人を殺す覚悟。それはもうできている。懐に忍ばせた小銃の冷たさがやけに身に沁みた。

「姐さん、少しだけ待ってください。もう少しだけ情報を集めてみますんで」

 阿文はそう言って微笑んだ。情報はあればあるほどいい。けれども私が阿文を見たのはそれが最後だった。


 阿文と連絡が取れなくなって3日後、私はすがる思いで香蘭坊を訪れた。他のあては全て探して、そこが最後だった。亭主が沈痛な表情で私に一通の封書を手渡した。

「これは阿さんが自分に何かがあったら小姐お嬢さんに渡すようにとお預かりしました」

「何かって……いったい何があったんです?」

「何って……知らなかったのかい、小姐。2日前に阿さんが亡くなったのさ」

「亡くなったって……どうして!」

 思わず詰め寄れば、店主は困ったように眉尻を下げた。

「これはね、噂なんだけどね。言っちゃいけないことなんだ。私が言ったっていっちゃいけないよ」

「ええ」

「阿さんはね、手を出しちゃいけないところに手を出したって話だ」

「手を出しちゃ、いけないとこ?」

「ああ。この南京町には手を出しちゃいけないところがいくつかあるんだ。阿さんも何だってそんなところに、ね。さあ小姐ももうお行き。阿さんのことはもう、このあたりでは禁句さ」

 突然のこと。

 全ては突然訪れる。出会いも、別れも。

 香蘭坊を出て私は海風に吹かれながら、その古びた封書を開いた。それは多分、随分前から用意されたもので、そこには名前と連絡先がずらりと記載されていた。いくつかには横線が引いて消されていた。中華街に関するものだ。

「こんな大切なもの」

 つまりこれは、阿文の情報源だ。阿文の魂だ。思わず流れた涙が封書を僅かに湿らせた。

 阿文がどこにいったかなんてわかる。私はこの結末を予想していただろうか。いいえ、予感はしていた。ひょっとしたらと。でも私と阿文は家族のようなものではあっても家族じゃない。その繋がりは仕事上のものだ。阿文はあくまで情報屋だ。それこそが私と阿文の繋がり。私のために最終的に危険を冒すなんて、そんなのは私と阿文の仲じゃない。いえ、そんなこと期待はしていなかった。

「ねぇ阿文、それが私とあなたのつながりじゃなかったの?」

 封書から返事はない。けれどもこの封書こそが私と阿文の繋がりの最たるもので、阿文が決して私にはくれるはずがないもの。これが私の手の中にあるってことは、私と阿文の間になんの取引もできなくなってしまう。

「どうしてそんなことをしてしまったのさ」

 つまり私はまた、一人ぼっちになった。

「ねぇ、私はそれを望んでなんかいなかったんだよ」

 私たちの間には、本当に仕事しかなかった。だから阿文は私にこの封書をくれたのだ。万が一の時のために。そうすれば、私が危険なことをしないだろうと思って? 阿文はそう思って、私に仕事を押し付けた。つまり私は阿文を引き継いだんだ。

 きっと心の底からは、私が死ぬとは思っていなかったのかな。そんなに危ないと思っていなかったのかもしれない。万一と思って。だって私も同じように封書を用意していた。預け先も決めていた。浜比嘉アルネを殺しに行く前に預ける予定だった。だから本来、阿文が私の封書を受け取るべきだったんだ。阿文は死ぬべきじゃない。死んじゃえば、情報を売り買いできないじゃないか。

 浜比嘉アルネを殺せなければ、年末までに私は死ぬ。

 最初から全部話をしていれば、阿文はこんな馬鹿なことはしなかったかな。わからない。

 気がつけば足は中華街の奥に向かっていた。気がつけば浜比嘉アルネの家の見える路地に立っていた。そっと地面に手をつく。踏み固められた土はひんやりと冷たい。今は皮肉にも午後3時だ。そして2日前の同じ時刻、阿文はここに立っていた。

 そうして30分ほど立ちすくんでから、浜比嘉アルネの家に向かう。そして銃声とともに阿文の叫び声が聞こえた。それからしばらく何もなく、空が茜に陰り始めた時、何事もなかったように家から浜比嘉アルネが出てきた。全てが宵闇に染まった頃に数人の男が浜比嘉アルネの家を訪れ、そして人一人入りそうな包みを運び出していった。

 よろよろと男たちの過去を追えば、港湾の誰もいない倉庫の1つにたどり着く。そこで開けられた包の中から現れた阿文の額には、穴が開いていた。思わず膝をついた。

 阿文、死んでしまった。

 ねえ阿文。どうしてそんなことをしたの。

 浜比嘉アルネを阿文が殺しに行く。それは私が心の底で望んでいたことなのかしら。そんなはずはない。そんなはずがあるはずないじゃない。頭の中はぐちゃぐちゃで、自分の心がわからない。

 けれども浜比嘉アルネを殺す理由が1つ増えた。

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