廃屋の中身

 阿文と一緒に潜ったゴテゴテとした中華街の朱色の大門の先は、ざわめく人波と呼び声、蒸し物や八角、シナモンといったスパイスの香りが溢れかえっていた。平日なのに中華街の昼下がりは賑わっている。

「本当にこっちなの?」

「ええ。一度下見をしましたからね」

 南京町なんきんまちに来るのは久しぶりかもしれない。そう思いながら色のあふれる大通りを抜け、気づけば細い路地に立ち入り、雑然とした荷物や大きなゴミ箱なんかが転がる隘路あいろを抜けていくとどうみても貧民街としか見えない一画に差し掛かる。

「もうすぐですよ」

「この先?」

 本当にここが道なのか疑問なほどだ。古びた洋服が干された合間を抜け薄汚れた男たちが路面に座り込み、象棋シャンチーに興じるそばを潜り抜けた先にようやくたどり着いたのは、柱も曲がり地震が来れば倒壊するのではないかと思えるようなあばら家だ。それがぽっかりと空いた空き地に建っていた。

「ねぇ、ここに人、住んでるの?」

「ええ。あっしはこのあたりの元締めともちょっとした仲なんで」

 なんだか、嫌な気分。

 この道程は私が生まれたスラムを僅かに思い出させる。

「ところで姐さんと浜比嘉アルネは会ったことがないってぇことで宜しいんですね?」

「その通りよ」

 阿文になんと話せばいいか随分悩んだ。私は過去を見ることができる。けれどもそんなこと、証明できない。過去を知る能力を証明うるには、阿文の過去の行動先に行ってその過去を視るしかない。

 けれども阿文も情報屋だ。過去を見せるという意味は、その情報と情報源を開示するということだ。私の過去視が真実であれば、私は阿文に情報源を奪うことができるということだ。そうすると阿文の情報の価値は私にとって相対的に下がるだろう。また、阿文も私との接触を避けるはず。

 私は阿文とのこの気楽な関係を気に入っていた。誰も信用することなんてできないけれど、お互いが持つ情報なら、信頼ができる。それはとても得難い関係性。

 だから結局、とある情報筋から浜比嘉アルネに呪われているらしいと聞いた、程誤謬の混じった情報しか開示できなかった。そして交渉できるなら呪いをやめてもらいたいと思っていること、くらいしか。


 あばら屋の入口近くには妙なものが置かれていた。簡素なお守りやたくさんの石でできた唐辛子や古銭が吊り下がった組紐なんかだ。普通の商品ならもう少し刺繍なんかが入っているだろう。

「あれらは浜比嘉アルネが作ってこのあたりの住民に売っているそうですよ」

 中華街の大通りにもお守りを売る店はたくさんあったけど、ここにあるものはどれも簡素な作りで、貧相に見えた。

「阿文、これが本当に効くのかしら」

「効くと聞いてますよ。ではあっしが行ってまいりますから姐さんはここでお待ち下さい」

 阿文は少しだけ緊張を見せながら、すてすてとあばら屋に向かう。扉は開け放っているらしく、沓脱板くつぬぎいたの上には石でできた珠暖簾たまのれんがじゃらじゃらと風にそよぎ、その向こうに僅かに揺らぐ人影が見えた。

「浜先生はいらっしゃいますか」

「ああ、何か用かな」

「お邪魔いたします」

 阿文の重みで沓脱板は大きくたわみ、石の暖簾をかきあげて足が上がり框を超えた時、暖簾がざらりと何かの模様に見えた、気がした。

 その声は若かった。そしてやや高く、抑揚がない。けれども過去で視たものとは、少し印象が異なる気がした。遮る戸がないせいか、声はよく通る。

「妻が呪われたようで、老大親分に相談したところ、浜先生にご相談するのが良いと伺いました」

「呪い? いったいどんな?」

「それが私もよくわからないもので。どうやら殺されるという気分がつきまとうそうなのです」

 少しの沈黙。

「それは気鬱の病ではないのかね」

「いえ、妻は変わらず朗らかで、医者にみせても特に問題はないと言われましたので」

 また、少しの沈黙の後、ガタリと立ち上がる音がしてすだれの隙間から白い指先が見え、続いてそれを押しのける手のひらが見えるにつけ、びくりと心臓が波打つ。

「あそこにおられるのが奥様ですね。直接お越しいただけませんか?」

 暖簾に遮られて表情はわからないものの、その隙間からじっと目が合っているのに気がついた。何故見つかったのか。曲がり角の暗がりで、外からは簡単に見つからないはずなのに。

 いくべきか、いかざるべきか。

 浜比嘉アルネは私が過去が見れることは知らない。私が浜比嘉アルネの過去を覗いたことを本人は知らない、はずだ。だってその場に浜比嘉アルネはいなかったんだから。

 見つかった以上、今後安易にここに来ることは難しいだろう。なら。おそるおそる足を進める。

「はじめまして、その、お邪魔いたします」

「お前、大丈夫なのかい?」

「ええ、あなた。私のことですもの」

 じゃらりと暖簾を持ち上げた時、その向こうにいたのはざんぎり頭に丈の長い道士服のような見慣れない服を着た、30ほどの男だ。やけに瞳孔が大きく、見つめられるとくらりと目眩がする。

「おい、お前」

 慌てて阿文が腕を支え、簡素な、やけに足が短い椅子に腰掛ける。目が眩むふりをしてそっと床に触れると同時に周囲を見渡す。広い、といっても10畳ほどの1間で、入って左手奥が寝床、右側が土間の作業場、その間のここは応接のための場所だろう低い机と3つほどの椅子がある。

 今だ。視るなら今しか無い。

 わずかに呼吸を整え、触れた床に根を張るようにその隙間に感覚を広げていく。次々と芽吹くように時間の隙間に侵入し、その範囲でこの場所にあった過去を視る。見れる過去は1ヶ月と少しだけ。つまり最初に八天閣に呼ばれてから現在まで。

 何を見るべきかは決まっている。それはこの浜比嘉アルネの隙だ。この浜比嘉アルネを殺せる方法だ。けれども何故か、いつもよりうまく行かない。ぶつぶつと意識は断片的に途切れ、そう思った瞬間、急に頭に締め付けられたような痛みと血圧の上昇を感じた。

 八天閣ではなかったこと。ぶわりと頭の中の血管が拡張し、くあんくあんと妙な音が耳の奥に鳴り響き、急にプツリと体が動かなくなった。そのままドサリと床に倒れ、額に冷たいものが触れた。

「お、おい大丈夫か?」

 耳鳴りがして、阿文の声が重複するように聞こえる。けれども其の中で1つだけはっきりしているものがある。額に触れている冷たい何かだけ。その冷たさを起点に頭の中が冷えていき、焦点が次第に定まっていくと、真っ黒な瞳が見えた。それから額に触れている浜比嘉アルネの指先。その冷たさにがくがくと小さく体が震えていく。直感する。私は浜比嘉アルネに勝てない。それは理屈じゃない。

「今、何をしましたか」

「何、も……」

 阿文に支えられ、椅子に身を起こした時、ぽたりと手のひらに熱いものが落ちた。たたたと流れる赤いものがワンピースを濡らし、阿文がハンカチを顔に当ててようやくそれが鼻血だと気がついた。そうして再び浜比嘉アルネと目があい、意識が遠のく。

「ぱ、浜先生、申し訳ない、妻の調子が悪いので、また改めて」

「……お大事に下さい」

 阿文に肩を支えられ、力の入らない膝を動かしよろよろと外に出れば、ざわめきが再び耳に聞こえはじめ、ようやく人心地がつく。冷え切っていた体温が戻った。

「あの女は何をしていた?」

「何かを視ていたようだが、なんだかはわからん」

 背後から小さな話し声が聞こえた。あそこには浜比嘉アルネしかいなかったはずなのに。

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