私の力と秋の空

 ミルクホールの窓から見上げる八天閣はひたすら高い。煉瓦作りの瀟洒な壁が天までそそりたち、そのまま青い空に突き刺さっているみたい。私と秋山親分は多分昨日の夜、あそこの天辺で会った。

 まるで魔法。私も親分も家にいたはずなのに。

 魔法ね。魔法なら、正直どうしようもない。そんな力が働くところ。昨日秋山親分に勝ったけど、ひょっとしたら早々に足抜けしたほうがよかったのかもしれないな。そんなことを思いながら、八天閣を避けるようにぷかぷかと浮かぶ羊雲を眺めた。

「リューの姐さん、お待たせしました。なんとか渡りをつけてきましたんで」

「ああ。ありがとう、阿文アーウェン

 視線を下ろせば、カンカン帽に白い上下にステッキと格好をつけた阿文がニシシと笑っていた。阿文はモダンボーイというやつで、かっこいいような珍妙なような、その小柄な背丈が服に着られているようにも見えるおかしな格好をしている。お互い持ちつ持たれつな情報屋仲間で、小金を渡せばなんでもやってくれるんだ。その愛嬌で隙間に入り、女の私では難しいような情報の裏とりとや簡単な折衝をのらりくらりとやる。もちろん女のほうが有利な時は私が。

 今回頼んだのは、八天閣の屋上に上がる方法だ。私も阿文の指定でソレっぽい格好、つまりクロッシェ釣鐘型の帽子に白いワンピースを身に着け、それから真っ赤なルージュをひいていた。

「それにしてもあんたも私も真っ白ね」

「その分、姐さんと相性がようございましょ。姐さんは今日は神津新報こうづしんぽうの女流記者ってことになってますんで、そこんとこ宜しくお願いしますよ」

 阿文の口からポンポンと出る言葉は小気味いい。

「ありがとう。すぐに行くの?」

「ええ。こっそりとね。ところで何で八天閣の天辺なんて見たいんです? まさかヤバい案件じゃないでしょうねえ」

 阿文はコテリと首をかしげた。八天閣の天辺。そこは基本的に立ち入り禁止で、点検や何やらの業者しか入れないそうなのだ。

「アハハ、馬鹿言ってんじゃないよ。そうだね……ちょっと確認したいことがあるんだ。そんな大したことじゃぁないんだけれど。あんたの迷惑にはならないよ、絶対ね」

 迷惑にならない。その時はそう思ってた。いつもと同じ、さして難しくもない依頼。阿文は眉を大きく下げる。

「信用してますよう、姐さん」

「ねぇ、それよりももう一つだけお願いがあるの。私がもし屋上で座り込んだらさ、お相手さんの注意をそらしてくれるかな」

 阿文はやはり、不思議そうな憎めない顔で首を倒しした。


 八天閣は15階煉瓦建の高層展望。

 12階までは最新の電気式エレベータアで上り、12階は休憩室、13階から15階は眺望室と催事場となっている。そしてその15階の中央、つまり14階に設置されたエレベータア室の真上に屋上に上がる階段室があるそうだ。

 15階までは何度か来たことがある。八天閣の上層階は木組みで建てられ、例えば13階は北東側、14階は南西側、15階は南東側は柱だけで壁がない。15階の眺望。それは素晴らしいの一言だ。眼下の地面は遥かに遠く、そこから顔を上げるにつれ紺碧の神津湾が遥か外洋まで広がり、水平線というものが世界を丸く区切っている。ここより高いものは雲と太陽以外に何もない。世界の端は薄白くたなびく雲のようにおぼろげで、晴れれば遥か遠くの帝都まで眺めることができるらしい、と付き合いのある香具師が言っていたけれど、流石にそれは眉唾だろう。

 それに入場料いらずの2階から11階には外は見えなくともたくさんの銘店が入り、それを巡るだけでも時間を忘れるというもの。


 私と阿文はそのエレベータアに乗り、ゆっくりと1分ほどかけて12階に到達し、そして15階まで内階段をのぼれば背広を来た2人の男が待ち構えていた。

「お待ちしておりました。神津新報の特派員記者、マオ様でございますね」

「ええ。本日はご無理をお聞き頂き、誠にありがとうございます」

 そう述べて頭を下げれば、目の前の2人の男は破顔した。

「日本語が実にお達者で」

「ええ。もう日本には長く住んでおりますの」

 私の親は誰だかわからない。生まれて最初に見たものは、いわゆるスラムだった。そこではみんな塵芥。何の価値もありやしない。騙し騙され信じられるものは自分だけ、そんな世界だ。そんなことがふと頭に浮かび、きれいさっぱりかき消す。

 私は見た目上、異人の血が入っている。どこか青みがかった私の瞳は普通の仕事には向かないけれど、私にはとってそれは上手く働いている。

 手配は全て阿文がやってくれていたようだ。簡単な挨拶を済ませると、ギィと屋上へ至る扉が開かれる。その中は真に暗闇だ。月のない昨日の夜が思い浮かぶ。男がパチリとスイッチをつけて、漸く小さな火が灯る。まるで星あかりのようなところも同じ。

「申し訳在りませんね。ここは本来点検のため以外には使いませんので、このように最低限の設備となっております」

「まあ。この更に上など、ますます素晴らしい景色と思われますのに」

「当初はそのように営業しようと考えておりましたが、この上ではふらついてしまいますので、危険なのです」

「ふらつく……?」

「ええ。行けばわかります。くれぐれも端には向かわれませんように。危ないですからね」

 その小さな灯りを手がかりに闇の中をくるりと動けば、すぐに出口にいきあたる。それは跳ね上げ式の扉で、男が小さな鍵を外して押し上げれば、まるで暗闇が切り取られるように真っ青が現れた。


「まぁ」

 思わず出た感嘆は、誰にも文句をつけられないだろう。それほどにその景色は特別だった。暗闇からその光の世界へ一歩一歩登れば、私の世界は次第に全てが青に染まる。東の空に太陽が眩しくのぼり、西側には籠屋山かごややまの緑の稜線が見えたけれども、それ以外の方角は全て明るい青に染まり、他には何も見えなかった。見上げれば視界はまさに全て青で埋め尽くされ、夜と同じ、強い風が吹いていた。思わず足もとがグラリとふらつく。そのまま倒れそうになるのを男が慌てて支える。

「端まで行けば海や街が見えますが、見えるところまでは行ってはいけません」

「何故です?」

「只今マオ様もふらつかれましたが、まるで空を飛ぶ心地になり、建物と空の切れ目がわからなくなるそうです。ここはあまりに天が近いのですね。それに建物の端は地面から風が吹き上がって参りますから、余計に危険です」

 あまりに天が近い。その言葉に自然と頷いた。

 今も空を見上げれば足元はおぼつかなくなる。そのままふわりと浮いてしまいそうだ。空が、とても近い。足は不要だとばかりに一歩歩けばもつれてしまう。そうだ、足元。

 足元を見た。木組みの床が連なっている。そして私は目的を思い出す。

「少し座ってもよろしいでしょうか。座ればふらつきも致しませんでしょう? もう少しここを堪能したいのです。下に戻るとしても、このままあの真っ暗な中を歩く自信がありません」

「ええ。勿論です。ごゆっくり」

 男たちは微笑んだ。

 その場にしゃがみ込み、印を探す。なんとなく、それはこの建物の真ん中、つまり今上がってきた階段の周辺にある気がしていた。目を皿のようにして眺めれば、見つけた。鉛筆で書いた私のサイン。


 私は昨夜、あの玉の下の床に私の名前を書いたのだ。そしてやはり、この八天閣が私たちが呼ばれた場所。目配せすれば、阿文が男たちに話しかけ始める。

 今のうちだ。

 名前に手を触れる。目を閉じる。眼窩の裏で、世界に再び闇が満ちる。私の背中にできた円。それが私にできると言っている。私は確かにここにいた。でもここにいたのは私たちだけ?

 私はこの背中の円から特別な力を得た。願えば、その場で起きた過去を知ることができた。私は知りたい。私の他にいるという14人の人間が、どうやって昨日の夜を過ごしたのか。

 目の奥の闇が私の体の内側を満たし、閉じた瞼からあふれていく。私と接する全ての過去が、この闇に映し出される。まるで水たまりを覗くように、その奥に過去が見えるんだ。そして私が見たものは、予想より遥かに恐ろしいものだった。

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