平穏で不穏な翌朝

 チチリといういつもの鳥の声にうっすら目をあければ、清涼な光が差し込んでいた。あわてて身を起こして窓辺に駆け寄れば、丁度日が昇りかけていた。同時に教会の尖塔の鐘がなる。6回。だから6時。

 全身がぐったりと重い。

 手のひらを見る。

 必死で木島の首を刺したとき流れ出た血液と、ゴリという骨に当たる感触。けれども生々しい記憶とは異なり、手には血の跡も何もなかった。あのあと、気がついたらいつの間にか部屋にいて、そのまま眠ってしまった。だから靴を履いたまま。そして床に包丁が転がっているのに気づき、動転した。

 恐る恐る手に取った包丁を眇めても、やはり血なんてついてない。鞄の口が開いている。だから、そこから転げ落ちただけなのかも。

 あれは夢? それとも現実?

「やっぱり、夢?」

 夢にしてはリアルすぎて、現実にしてはありえなさすぎる。でももう、起きなきゃ。

 祈祷会の時間は6時半。寝坊したわけじゃない。昨日、念のためにヘレカに朝の当番を代わってもらったんだから。急いで着替えて窓辺で朝の祈りを捧げ、礼拝堂に向かった。けれども祈祷会の時間なのに誰もいなかった。

 いつもと違う。

 何かがおかしい。まるでこの世に誰もいないみたいだ。やっぱり夢? 昨日木島を殺したその夢が続いていて……。

 そうだ。新聞。

 そう思って郵便受けに走る間も、教会内に人がいないことが気にかかる。鉄でできた蓋を引き上げ、取り出した新聞の見出しに目を走らせる。大正8年10月25日のDaily News Kouzu。日付は正しい。はらりとめくっても特におかしな記事はなかった。私がもし本当に木島を殺したのなら、その記事が載っているだろう。だって木島は収監されてるんだから。私が殺したのなら。殺したのが、夢? それともいまが、夢?

 ……殺した。私が人を殺すという行為こそ、酷く現実離れしている、気がする。足早に教会の周りを回る。

 礼拝堂にも教会前にも人影がない。

「どうして誰もいないの?」

 食堂なら。

 いつもこの時間には当番が朝食の用意をしているはずだ。ヘレカもそこにいるはずだ。ヘレカならなにか知っているに違いない。

 この本島教会では隣接する墓地を管理、つまり夜番が巡回警護しているから、輪番制をとっている。祈祷会が終われば夜番の人たちが軽食を食べて眠りにつく。だから本来は最も人が多い時間帯の一つ。食堂にはきっと誰かいる。

 けれどもパタリと開いた食堂の扉の奥にも、12人がけのテーブルのある広い食堂にも、誰もいなかった。机の上にはテーブルクロスもカトラリーも置かれていない。朝食が用意された様子もない。さらにその奥にある厨房にも向かう。香ばしく焼かれたパンはあるけれど、慌ただしく放り出されている。

 みんなどこに行ったの?

 急に不安になった。最近変なことばかり起こるから。今は夢? それとも現実? 酷く曖昧だ。世界の隙間にはまり込んでしまったように足元がおぼつかない。

 そう思って窓の外を見ると、空には羊雲があふれ、ゆっくりと風に乗って流されていた。空は変わらず青く世界に繋がっている。そうだ。みんな外にいるのかも。


 もう一度教会の外に出て、郵便受けを超えて敷地の外に出る。人影が見ててホッとした。

 この教会は帽子のような丸い形の波照島の、南斜面の丘に建っている。なだらかな草原を見下ろせば、南端にある船着き場に人が集まっていた。何かがあったのかしら。けれどもみんな、いた。

 ほっと一息つき、丘を吹き登る潮風にスカートが巻き上がらないように押さえながら歩道を駆け下りて船着き場に辿り着く。ようやく牧師様と何人かを発見した。

「みなさま、一体何があったのですか?」

「ああ、アンニカ。おはようございます。それが……」

 そこまで述べて、パーヴォ牧師は口ごもる。憔悴し、今にも倒れそうだ。その顔色は不幸を呼ぶようで。

「ヘレカはどこでしょう?」

 私の幼馴染。教会の孤児院にいたときからずっと一緒で、一緒に教会で働くようになった私の親友。昨日も当番を代わってもらったばかり。けれどもみんな、顔をそらすばかりだ。その様子に、私の中の不安が膨れ上がる。

「マウノ先生、ヘレカはどこ?」

 10歳ほど年上の牧師に尋ねた。マウノも同じ孤児院の出身で、勉強して牧師になった。今や教会の中核の一人を担っている。だからマウノに聞けば何かわかると思った。けれどもマウノも鎮痛そうに唇をかみしめて、目を逸した。

「ヘレカになにかあったの!?」

「アンニカ……。ヘレカは亡くなった」

「亡く……なった? 何故! どうして! そんなはずない!」

「落ち着いて聞いてほしい。今朝ヘレカが起きてこなかったから、シスターカレルが起こしに行ったんだ。そうしたら……」

 マウノがぱくぱくと口を動かしている。

 マウノが何を言っているのかわからない。

 急に周囲のざわめきが大きくなる。振り返れば、船着き場に一艘の船が到着し、中から見覚えのある背の高い人間が降り立った。短い銀色の髪にエメラルドのような瞳、スラリとした体つきで細身のブーナッド、つまり刺繍の入った赤のベストの上に黒のジャケット、黒の七分丈のパンツに白のタイツ、黒の革ブーツをまとっている。

 パーヴォ牧師が深く頭を下げた。


「オーサ様、ようこそお越し頂きました」

「うむ。早速見分に向かいましょう。本土の警察には連絡しましたか?」

「オーサ様が確認の後、通報する予定です。ご指示ください」

「よろしい。検死で何かわかりましたか?」

 オーサ・フラウリーはこの波照島の南部に浮かぶ富札島ふれいとうの本家の一員だ。波照島とその周辺の諸島郡は徳川幕府の末期に移住した本家に長期借款され、この島の自治は、基本的には富札島に住む本家が担っていた。治外法権が失効した10年ほど前に本家が権利を全て買い取ったけれど、その関係は続いている。そして現在、この波照島の管理はオーサが担当している。だからオーサは時折この島を訪れ、住人に異常はないか声をかけていた。

 パーヴォ牧師の先導で、オーサは緩やかな坂道を教会に向けて登っていく。その上の青い空をカモメが数羽、飛んでいく。

 何かが、おかしい。私の背中をマウノが押す。

「アンニカ。詳しくはあとで説明する。ともかく行こう」

「マウノ、その、本当にヘレカが……。信じられない」

 そう。信じられない。そんなこと。ひょっとしてヘレカもあの場所に行って、そして殺されてしまったのだろうか。まさか。隣を歩くマウノの拳も固く握られ、ふるふると震えていた。

「俺だって信じられない。けれども俺も見たんだ。ヘレカの、その、死んでいるところを」

 それでも信じられない。だってヘレカは今も私の隣にいるように感じるから。あの教会の入り口から、何してるのもう御飯の時間なのにって、そう言って出てきそうな気がする。風が吹いた。顔が冷たい。不思議に思って触れると、涙が流れていることに気がついた。けれどもヘレカは確かに、私と一緒にいる。そう確信している。

 みんなについて坂を登り、教会の入口についたとき、オーサが振り返り、その低い声が響く。

「みなさま、しばらく外でお待ち下さい。中に入るのはパーヴォ殿と私だけです。立ち入る者は拘束します」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る