3章 神の啓示 アンニカ・コルホネン

vs 木島慎二

『er du Annika Korhonen?(アンニカ・コルホネンさんですね)』

「……jaそうです

 気がつけば、見知らぬ場所にいた。強い風が吹いている。足に力をいれないと吹き飛ばされそうだ。多分前に来たときと同じ場所。

 ……夢だと思っていたのに。

 神様! これは本当に神様の試練なの? いえ、疑っては駄目。私は主に愛されている。これまでもずっと、お祈りを捧げていたのだから。誰よりも。

 けれど、祈る私の手はかくかくと震えていた。

 念のためと思って靴を履いて服を整えていた。一ヶ月前にここに来た時は、裸足にパジャマでとても寒かったから。それに……朝起きたら、脇腹に丸い円ができていたから。主が槍で貫かれたのと同じ場所。だから、聖痕。けれどもあまりに荒唐無稽。だから、正直な所半信半疑だった。

木島慎二きじましんじさんですね』

「そうだ」

 その声に、私の身はすくんだ。信じられなかった。

 その名前は今朝も教会の新聞で見たからだ。すぐ目の前に、短い黒髪の30すぎの男が赭色ほそいろの簡素な服を身に着けて立っている。木島慎二、女性ばかりを23人も残忍な方法で殺害した人。

 私はこの神津の沖合にある波照島はしょうとうの小さな教会で暮らしている。島での暮らしは牧歌的で、だから本土のニュースはどこか少し、他人事だった。

「俺はこの女を殺せばいいのか?」

 目の前の男から下品な声がする。

 違うと言って!

 そう思って慌てて空中に浮かんだ玉に祈ったけれど、玉は何も答えない。木島もそれをチラリと見て確認し、おそらく肯定と捉えたのだろう、愉快そうに舌なめずりをした。

 慌てて周りを見る。けれども、何もない。ただ冷たい風が吹くだけで、私を助けてくれる人など誰も。思わず後ずさる。足元はキィと小さな音をたてた。

「へへ。もう女を殺せないと思ってたんだ。いいね。あんた異人だろ。これまで異人の女は殺したことがない」

 慌てて、鞄から念のためにもっていた包丁を取り出しお腹の前に構える。けれども私は本当に包丁を持っているの? 手に全く力が入らない。感触がない。私はこれまで誰かを傷つけようとしたことなんかない。どうしたらそんなことができるのかも、全然わからない。頭の中は真っ白になった。

Hold deg unna meg!近寄らないで!

「何いってんのかわかんねぇや」

 木島は一層、にやにやとその顔を歪めた。さらに一歩、後ずさる。

「こないで、ください」

「なんだ。ちゃんと喋れるじゃん」

 木島慎二がここにいるはずはない。だって今、神津拘置所に収監されているはずだから。でも……夜目でもわかるこの暗い赤色の服……つまり囚人服を……着ている。でも私は教会の私の部屋にいた。だから木島が突然拘置所からここに現れても……おかしくはない?

 更に後ずさる足は震えて、ちゃんと足がついているという感触もない。

「まったく天国だな。あとは死刑になるだけだと思ったのによ。こんないいチャンスをくれるとはな。神様に感謝だぜ」

Gud!神様! Gud ga den til deg?神が許したですって!

「何言ってるかわかんねえっていっただろォ!」

 木島の言葉に思わず反射的に口をついた私の言葉は、これまでの人生で初めて聞く怒声でかき消された。身が竦む。

 けれども神様がこんなことをなさるはずがない。そんなことを認めていいわけがない。だって私は神の家に住んでいる。だからそんなことは認められない。絶対に。

「いいねぇ、その目」

 けれども私の思いとは対象的に、私の体は恐怖に震えていた。この男は本当に私を殺そうとしている。それも嬉々として。それがその声音から理解……できてしまったからだ。その証拠に、私は後ずさるのに失敗して足がもつれ、尻もちをついた。見上げた木島の赭色の服はその背に玉の光を浴びて、色も何も判別がつかないほど真っ黒な影に染まっていた。その頭部が不意に、右側を向いた。追って目を向ければ、そこにはキラリと何かが白く光っていた。

「Ah!」

 慌ててそちらに向かおうと立ち上がりかける私を木島は蹴飛ばし、右掌を踏みつける。骨が軋む鈍い痛みに油っぽく湿った素足の気持ち悪い感触。振りほどこうとする前に、木島はそれを拾ってしまう。

 全身の力が抜けた。私はどうして持ってきたのだろう。どうして奪われる可能性を考えなかったのだろう。もう駄目だ。ただでさえ男女の体格差がある。もう……駄目だ。包丁を掲げる木島の姿を見上げ、全てを諦めかけたとき、声が聞こえた、気がした。

overvinne打ち勝て

 風に紛れたその声は確かにそう、聞こえた、気がした。

 けれども打ち勝つって、どうしたらいいの。勝ちようなんてない。木島は包丁を持っていて、私の手にはなにもない。けれども、それは私にとって、神の声に聞こえた。この絶望的な状況で私が最後にすがれるのはもう、その声しかなかったから。

 祈り、目を閉じる。毎日繰り返した祈りの言葉を口にする。けれども私は再び木島に蹴り飛ばされ、背中を強打し、その痛みに思わず呻く。そしてドンと腹にうけた衝撃に思わず上を見上げた。木島は私の腹の上に馬乗りになり、掲げる包丁が玉の光を反射して白く光っている。

 もう駄目だ。まもなくその白刃は、私の体のどこかに刺さる。ちらりと脳裏に木島の記事が思い浮かぶ。木島は女をバラバラにして殺す。生きたまま。

 嫌だ、そんなの嫌だ。助けて。だれか助けて。ねえ。誰か! 神様!

 木島を押しのけようとしたけれど、両手首をまとめて頭の上で押さえつけられ、体が弓なりに反る。木島の力は圧倒的で、もはや足をばたつかせることしかできない。

「威勢のいい姉ちゃんだな。嬉しいぜ」

 愉悦を含んだ声とともに振り下ろされる刃に思わず目を閉じる。

hjelpたすけて!」

 私が一番に思い浮かべたのは親友のヘレカ。でもここには居ない。助けて、ヘレカ。それからみんな。思い浮かぶのは親しい人の顔ばかり。どさりという衝撃を左肩口に受けた。けれども……奇妙なことに痛みはなかった。

 恐る恐る目を開けば、肩口に包丁が突き刺さっていた。木島は何度か肩口に刃を振り下ろす。それを呆然と見つめる。けれどもやはり、鈍い衝撃を受けるだけだ。そしてその次に衝撃は胸に走り、首に走り、そして右目に走ったけれど、私のぼんやりと開いた右目はその視界が左右に分割されつつも、木島が初めて、狼狽えた姿を浮かべるのを見ることができ。

「何……なんだ? お前?」

 何?

 何が起こったのか私にもわからない。けれども神様が私を守ってくださったのだ。そうに違いない。そして先程の声の意味がわかった。

 打ち勝て。

 それはこの状況に、そしてこの悪をもたらす男に打ち勝てという意味だ。それは私の心に天啓のように訪れた。だから。私は木島が狼狽え、思わず私の両腕の拘束を解いた瞬間、木島の手から包丁を奪い返し、その喉元に突き立てた。

 途端にたくさんの温かい液体が私に降り掛かる。なんだろうと混乱し、そして木島が私の上から倒れ落ちるそのときに、鉄臭いそれが血だったのだと気がついた。心臓がバクバクしていて、体が強張っている。おそるおそる体を起こして隣に倒れ伏す木島をみれば、まだその首筋からはどくどくと血は流していたものの、動く気配はすでになかった。

 私はその瞬間、戦いた。

 人を殺した……?

 そんな罪深いこと。

 けれども私は自覚する。

 いいえ、違う。神は私に打ち勝てと仰った。だから神はこの悪を打ち勝つ力を私に与えたのだ。私は神に選ばれた……?

Annika Korhonenアンニカ・コルホネンさん, Gratulereおめでとうございます

 呆然とする私に、その光の玉は讃えるように語りかけた。

「Ble jeg utvalgt av Gud?(私は神に選ばれたのですか?)」

Ja, det er riktigええ、そうです

 私は神に選ばれた。これまで強張っていた体から、急に力が抜けた。そして胸の内から何かが湧き出てくる。その瞬間の気持ちをどう例えればいいのだろう。私は私をとても誇らしく感じた。全ての人間の上に立ったような、そのような気持ち。

『Vi sees til neste nymåne(では次の新月にお会いしましょう)』

 その声を聞きながら、いつしか私の意識は薄らいでいった。



補足:ルビのサイズをアウトするものは()表記にしています。

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