尋ね人、来たらず
朝も名護崎のことを考えて出勤したのに、帰りも名護崎のことを考えているというのは妙な気分だ。そう思いながら15分ほどの路を歩いて大学寮に帰宅する。体が重い。昼飯はいつも食べないからその点に問題はないのだが、集中力が限界だ。
寮は
視線より高く見えるのだから、あの楼閣の天辺はこの寮のある場所よりも更に高いのだろうか。改めて構造物の巨大さに思いを馳せる。あの一番上を眺めるならば、四風をもっと登らないといけないだろう。しかも新月の真夜中だ。あの玉1つ浮かんでいたところで、遠くから見ても星星の明かりに紛れて視認は不可能だ。
とすれば、この奇妙な会合の主催者は、この殺し合いを隠したいのだろうか。そもそも、わざわざ公にすることもないだろうけど。
「久我山先生、おかえりなさい」
「ああ万定院さん。只今戻りました」
門前で行きあった万定院は手に持つ籠にたくさんの食材を抱えていた。
「少しですが、お持ちしましょうか」
「いえ、すぐですから。久我山先生は紳士ですね」
「そうですか?」
厨房まで運ぶのはそれほど手間ではない。これで紳士扱いを受けるなら、紳士とはさほどに安いものなのだろう。せめてと思い、先に立って格子の入った玄関の引き戸をカラカラとあける。
正面に食堂と集会室に浴場、2階が全て一人部屋の寮となっている。若い男性教員専用の寮だ。学生寮のように一部屋を2~8人で使うわけでもない。
履物を下駄箱に入れて2階にあがり青嵐の部屋の戸を叩いだが、生憎不在のようだった。一番風呂に入って自室で今日の検死の報告をまとめていれば、いつの間にやら夜の帳が落ちていた。気づけばすでに20時を回り、そろそろ夕食が仕舞いになる時間だ。耳をすませば誰かが集会室で寛いでいるのだろう、義太夫のレコードの音が聞こえる。
部屋を出れば、青嵐の部屋の扉が開く。丁度いい。
食堂で万定院が運んできた盆には麦飯と浅利の味噌汁、はやと瓜とキャベツの炒めものに鮭大根がのっていた。炒めた鮭を大根と一緒に煮込んだもので、香りが食欲を刺激する。一口含めば、美味いには美味いものの、少し油っぽい。
「青嵐。病院で俺の敵の名護崎と、斎藤我堂という男と、出羽山の死体が回ってきた」
「……斎藤は俺の敵だった」
「そう。3人とも外傷は全くなかった。俺らの手にくっついているみたいな円が体にあったけど、塗りつぶしたように真っ黒だった」
「外傷がない?」
青嵐が眉を顰める。
「うん。俺の毒も、青嵐の矢も。所見としては心不全、その健康状態は死に直接結びつかないものだから、死因は心不全、他は不明と書くしかないね。特に斎藤の肉体は健康そのものだ」
青嵐はそんなはずはと呟きながら、不審げに首をかしげる。
「ひょっとしたら、あの八天閣での戦いは幻覚なのだろうか」
「幻覚? 俺と青嵐で同じ幻覚を見たっていうの?」
「わからない。けれども色々と不審な点は多い」
「でも実際、人間が三人、死んでいる。出羽の山にあたっていたらヤバかった」
相撲取りの突進は容易にかわせるものではないだろうし、俺の毒も精神の力というもので耐えるかもしれない。第一肉が厚いから毒によっては効きが悪いかもしれないし、青嵐の矢も筋肉に阻まれてうまく刺さらないかもしれない。さすがにそんな特殊体型は考慮にいれていなかった。より確実に人が殺せる対策が必要だ。
「そうだな……改良の必要がある。その出羽の山を殺した人間がいるわけだから。それで黒い円で何かわかったことはあるのか?」
「何も。調べた範囲、今のところ普通の皮膚と変わる結果は出ていない。ただ、黒いだけだ」
黒い円。顕微鏡でながめ、様々な薬剤を塗布し検査した。けれども特異な知見はない。常在菌はその上で繁殖していたし、通常の皮膚と変わるところがない。今は組織の培養をしているが、おそらく結論は変わらないだろう。けれども1つだけわかった点。それは死んでしまえばこの黒い円は他人に見えるということだ。
自分の手に黒い円ができるなんて、許せるはずがないじゃないか。
「そうか。お前がわからないなら、調べても無駄だろう」
「……そうかもね」
「俺の方でも報告がある。迷子石に応答があった」
「え、本当に? こんなに早く?」
反応があったのは
「それ、本当に『唯一人』からなの?」
「ああ。会いたいと連絡があった。お前が明日空いているなら、同行して、俺がそいつに会うからおかしな点がないか、その様子を観測してほしい」
これもまた随分迂遠な返事だ。休戦を求めているようにも思えるけれど、真意はわからない。
「午後を示唆しているようにも思えるけれど、明日かどうかはわからないよ」
「こいつは翌日に返事を寄越した。だからきっと、明日いる。次回まで1月あるが、1月しかないとも言える。準備に十分というものはない」
それは確かに、出羽の山のことを考えれば対策に絶対というものはないのだろう。
「明日は午前に講演会があるだけで午後は空けてるけど‥‥どうやって相手を見分けるのさ」
「俺たちにだけわかる見分け方がある。迷子石のそばでこれを晒していればよいだろう」
青嵐は左手を上げた。確かにこの円は、俺たちにだけ意味がある。けれども俺が信用できるのは青嵐だけだ。
「俺が立つよ。そいつは少なくとも一人は殺しているわけだろう? そいつが青嵐を殺そうとしても止められない。俺の毒は遠隔じゃ無意味だ。それに相手の円を確認するには近寄る必要がある。洋弓銃の間合いじゃない。それなら俺が会うから、何か不審があれば青嵐が射ろ」
青嵐はわずかに目を伏せる。
「いいのか? お前はそれを人前で晒したくないんだろう?」
「……嫌だ。心底嫌だけど、普通の人間には見えないなら、いい」
ああ、嫌だ。
そうして俺は今、新地教会の入り口近くにある迷子石のそばの
小瀧川を挟んで八天閣の北側にあるこの遊郭街の入り口たる大門をくぐると、大路の左右に妓楼が並ぶ。その突き当りにあるのが新地教会だ。明治31年に民法から妾の記載が削除され、法律上は一夫一婦制が明確になった。それでも未だここでは大金をかけて遊女の身請けは行われ、この教会でひっそりあるいは豪奢に式を挙げると聞く。派手な時は新地をあげて祝われるそうだ。けれども昼日中で見上げた新地教会は白く塗られた美しい木造教会で、十字が掲げられた尖塔には鳩が数羽とまっている。狂乱とは縁遠く清楚に見えた。
「ひょっとして、久我山先生のご縁の方でしょうか」
声に見返れば、美しい男が立っていた。髪は肩口ほどにゆるやかに長く、年は20を少し過ぎたほどだろう。少し藍みがかった瞳が俺を見つめていた。けれども男なのだろうか。男にしては少し高い声、藍に美しく染められた着流しの裾には風流に
「私は確かに久我山ですが」
「
夕凪はそう述べて鈴蘭のように微笑んだ。
何かがおかしい。広道は俺が子供の頃に亡くなった。俺より若そうにみえる夕凪が親しくするはずがない。けれども夕凪の名前は広道から聞いた覚えがあった。そうすると、見た目より随分年上なのだろうか。そういえば広道から夕凪について聞いた文脈は、少しおかしかった。
けれども今、俺には待ち人がある。誰かと話していては、話しかけてきたりはしないだろう。
「広道といえば大叔父にあたりますが、本日はこちらで待ち合わせをしておりますので」
「ええ。了解しております。あなたは『唯一人』でございますね。少々おまたせ致しまして申し訳有りません」
そう述べて、夕凪は俺の右手の甲を指さした。見える。ということはこの夕凪が『唯一人』か。わずかに手のひらに汗をかく。こいつは俺を殺そうとしているやつか。わからない。表情は変わらず
「念のため、あなたの印も見せていただけますか?」
「それは……差し障りがございます」
そう述べて夕凪は悩ましげに目を伏せた。
そういえば俺と青嵐は手に円があるが、名護崎や斎藤、出羽の山は体幹部に円ができていた。人通りは少ないとはいえ、この往来で脱ぐのは確かに差し障りがあるだろう。けれどもこいつは信用できるのか。
「ここでは何でしょうから、ご指定の場所に伺いますよ。ご不安でしたら、検めて頂いても結構です」
夕凪は着流しだ。刀や弓などのわかりやすい武具を持っていないことはわかるが、ゆったりとした袖や懐に何かを隠すことはできる。そう思って簡単に探っても、特に異常は見当たらなかった。だから、判断がつかない。
「なんなら拘束して頂いても結構です」
艶やかな表情で拘束と言われても、流石にここで手錠でもするわけにはいかない。それに見るからに細腕だ。現れたのが出羽の山のような巨漢であれば考えるところだが。どうしたものだろうか。とはいえ、隠れている青嵐に相談するわけにもいかない。
「あちらにいらっしゃるご友人の方もご一緒に」
夕凪の視線の先には、少し先の腰掛けで見るともなくこちらを見る青嵐がいた。
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