3つの死体

 朝6時。俺の朝はたいてい早い。だから昨夜、少し睡眠時間が足りていないことがわずかに気にかかった。いつもなら午後10時に就寝しているけど、昨日寝たのは結局午前1時だった。鏡で見る範囲には隈などができていないことにほっとする。

 食堂で万定院が運んでくる朝食はいつも栄養のバランスがよい。実家は比較的近くにはあるのだが、病院と大学が近いこの寮はそれなりに居心地がよかった。

 大正8年10月25日の神津新報を眺めれば、今月頭から激しくなった労働争議の広がりやスペイン風邪の流行などが誌面を飾っていたけれど、俺の気になる記事はなかった。つまり異常死体が8体出たという知らせはない。

 病院へ至る煉瓦路を歩いていると、名護崎のことが気にかかる。名護崎の死は、その後どうなったんだろう。やはり昨夜のことは俺の精神に何らかの影響を与えているのかも知れない。

 そんなことを考えながら病院にたどり着けば検死の依頼がきていた。3件だ。神津大学附属病院に運び込まれる検死件数自体はもっと多いのだが、俺は検死に時間をかけすぎるから頼まれる数は少ない。だから1日に3件というのは極めて多い数だ。

 解剖室に踏み入れて足が固まった。解剖台の上に横たわっていた1つは名護崎だったからだ。

 よく俺のところにくる体格のいい検察官、志賀谷しがたにが俺に楚々と近づき、いつもどおり小さく背を縮めて頭を下げた。

「顔見知りで恐縮ですが、久我山先生のお見立てはたしかでございますので。それに他の先生だと萎縮しちまいかねませんから」

「そう言って頂けると幸いです」

 俺の検死報告は一番上最高裁までいっても覆ることがないらしい。だから難しい事件には重宝されている。俺から言わせれば、みんな適当すぎるんだ。

 けれども俺は、内心の動揺をうまく隠せているか気が気でなかった。

「それで、この方はどのような状況で発見されたんです?」

「こちらの名護崎氏は昨夜自宅で突然倒れ、同居していた奥方がすぐに気づいて病院に運び込みました」

「ご遺体に不審な点でも?」

 声は上ずってはいないだろうか。気取られないか僅かに気にかかる。

 通常、警察が異常があると判断した場合、司法解剖のために死体を病院にまわす。病死であれば医師が死亡診断書を出し、警察の出番はない。とすれば病院が警察に不審を通報し、警察が異常があると判断したということだ。

 けれども俺は混乱していた。なぜなら横たわる名護崎の表面に、取り立てて異常がなかったからだ。俺は昨夜、こいつに濃度の高い催涙剤をかけた。本来暴徒鎮圧用に投げて使用すべきものを、至近距離で使用したのだ。だから名護崎の目や喉、鼻は充血し腫れ上がっているはずだ。それに昨夜と同じ背広を身に着けているが、上向きに寝転ぶその白いシャツには血糊どころかナイフが刺さった痕跡もない。

 つまり、見た目に異常がない。それが何故だかはわからないが、異常がないのに何故、名護崎はここにいる。

「心の臓が突然止まるということは往々にしてございます」

「ええ。担当した医師もそのように話していました。しかしこちらを御覧ください」

 検察官が名護崎のシャツの前を開く時、わずかに自分の拳に力が入るのを感じた。

 胸にナイフによる傷はない。かわりに大きく開かれた左肩口に、真っ黒い円が現れた。

「はは、久我山先生、そんなに緊張されなくていいですよ。いくら名護崎裁判官でも久我山先生を祟って出てきたりはしないでしょう」

 志賀谷は法廷でのやりとりのことを言っているのだろう。

 口の中で浅く深呼吸する。大丈夫だ。俺と名護崎は昨夜別々の場所にいた。俺が大学寮にたことは、青嵐も万定院も証言してくれる。

 しかし志賀谷は観察眼が鋭い。俺の検死結果にいつも、鋭い質問を投げかける。けれども俺が名護崎を殺したとは思うまい。なにせ俺が名護崎に与えた傷は既にない。

「ええ。後ろ暗いところはないのですが、いつも法廷では睨まれましたので」

「先生にはいつも感謝しておりますよ。……それにこの名護崎氏が祟るなら他の人間でしょうから、ご心配無用です」

 志賀谷は声を潜めてそう呟く。

「他に……? 名護崎裁判官は誰かに恨みでもかっていたのですか?」

 珍しく、視線が外された。この男はいつもまっすぐに俺の目を見るものだから、このような姿は珍しい。

「恥ずかしながら、名護崎氏はいわゆる外面と内面が大きく異なる人でしてね。裁判官室では権力を傘にきて、常に怒鳴り散らすようなタイプでした。異を唱えようものなら検察官でも殴られます」

「へえ。そんなふうには見えませんでした」

「はは、書記官が言うには、先生が名護崎氏の意見に沿わなかった日には酷い荒れようだったらしいですよ」

 内弁慶というやつだろうか。そんな人間はこの界隈にも多い。思えば社会的な地位というものが高くても、いや、高いからこそそれを守ろうとして下らない縄張り争いというものが増えていく。

「それじゃあ周りに嫌われるでしょう?」

「七光りというものですよ。誰も逆らえないんです。我々検察官も同じ司法省の管轄ですので、下手ことは言えんのですよ」

 志賀谷は懐から出したハンカチで汗を拭く。権力構造というものは、どこも変わらないものだな。

「それよりこれ、気になられますか。奥方が言うにはこれまでなかった痣だということです」

 痣。痣というには黒々としている。大きさは俺の右手の甲にある円と同じほどで、その内側は墨を塗りたくったように真っ黒だ。手で触れれば、感触としては他の皮膚とかわらない。固くもなく、糜爛びらんしているわけでもない。

「さあ、何でしょう。調べてみなければわかりませんが、これがそれほど異常でしょうか?」

 確かに目立つし痣にしては均一に黒い。しかしそこから結びつくものは身体の異常、つまり病気だろう。通常、このような痣は外傷ではつかない。検察は何故これを犯罪に結びつけたのか。

「名護崎氏はここ1ヶ月ほど、なにかに怯えていたようでした。それは奥方からも、書記官連中からも確認がとれております。そして異常と思われるのは、本日ご依頼する他の仏さんにも同じような痣があることです。ほぼ同時刻に二人が死に、同様に黒い大きな痣がある。同じ病院に担ぎ込まれたからこそ、通報されたんですよ。奥方がおかしいと大騒ぎしましたしね」

「なるほど。奥様はなんと?」

「名護崎氏が死亡した24時頃、名護崎氏はいつもなら既に就寝していたそうです。それなのに外に出るような上下を着用し、鞄まで持っていた。そのため事件性があると主張されました。そうだからにはきちんと調べろと上がうるさいのです」

 志賀谷は眉をへの字に曲げた。その七光りというやつだろうか、志賀谷にも何らかのプレッシャーがかかっているのだろう。

「では、残りのお二人は名護崎氏に恨みを持つ方ですか?」

「いえ。一人は斎藤我堂という男で、天道団てんとうだんという学生の団体を主導しております。近頃流行りのデモクラシィというやつですよ。先生も大学で見かけるでしょう?」

「ええ、多少は」

「団体としては比較的穏当な活動を行っているのですが、同種の団体を裏でまとめていたようですな。昨夜セクトで活動していた折、突然倒れたとのことで、名護崎氏と同じ病院に担ぎ込まれました。もう一人は出羽の山でわのやま関。言わずとしれた、現在この神津巡業中の現役横綱です」

 志賀谷は手帳も見ずにスラスラと述べる。

「二人に同じ痣が?」

「ええ。斎藤は左脇腹に同様の痣がありました。出羽の山は右肩口に。横綱は昨夜、深夜だと言うのに化粧廻しまでつけて稽古場にこもり、朝に冷たくなっていたのが発見されました。こちらは徒弟からの別口の通報ですが、もとより不審死となります。よって解剖案件ですが、同様の痣がございましたので、先生に合わせてお願いすることにいたしました」

 出羽の山といえば有名だ。野獣もかくやという途方もない怪力を誇る。まさに唯一人と呼んで差し支えない。当たらなくてよかった。逆に言えば、出羽の山を殺した者とこの先対戦するということだろう。毒では心もとないな。

「名護崎氏と斎藤、出羽の山の間に接点は見つかっておりません。名護崎氏は相撲にさほど興味はなかったらしい。それから名護崎氏は政治的な立場は斎藤とは真逆と言っていいでしょう。けれども二人はほぼ同時刻に死亡し、近似した時刻に三人に同じような痣があるのだから調べろと命じられれば、調べざるを得ません。久我山先生にはご自由にお調べいただき、その所見を述べて頂ければ、それで解決です」

 志賀谷もあまり関わりたくないのだろうなという空気を感じた。

 そして改めて名護崎の死体を前にする。まずは名護崎からだ。その表面を目で見て異常を探す。目に充血はなく、口腔内や鼻の粘膜も異常はなさそうだ。虫歯が三本。金継された歯が二本。肥満、所謂中年太りだ。おそらく開けば血管の閉塞なども見つかるだろう。

 けれどもその程度で、異常はない。見た範囲では、特筆すべき中毒や感染症及び外傷というものはなかった。肩口の痣の原因はわからない。まるでインクで塗り込めたように均一に黒い。これは後で組織を採取し、調べてみよう。

 思わず溜息をつく。死んだらこの円が黒く染まるのだろうか。

 それは嫌だな。ますます嫌だ。

 それからもうひとつ。死んだら解剖に回される可能性だ。それだけは絶対に嫌だ。俺の体にメスを入れられるなぞ、考えただけれ身震いする。だから通報されないよう、状況を整えなくては。

 体を開き、その他の異常を調べる。胃にわずかに潰瘍ができている。タバコの脂が肺につまっている。その他予想された疾病以外に、特筆すべき所見はない。

 斎藤の体は左肩甲骨に重なるように黒い丸がある他、異常はなかった。むしろ健康そのもので、死んだこと自体が不審だ。異常を裏付けるものはない。

 出羽の山の体は巨大で、体位を変えるにも難渋した。稽古や取り組みによってできたと思われる古傷や新しい傷、それから各靭帯の損傷や軟骨の挫滅、糖尿病による様々な体内の異常は見受けられたが、死に直結するような痕跡はない。

「黒い痣については組織を調べてみますから、時間がかかります。それ以外には犯罪を疑う所見は見あたりません」

「わかりました。後ほど報告書をお願い致します」

 志賀谷は安心するように首を縦に振り一礼をして立ち去った後、大きく伸びをした。一日立ちっぱなしで体中の筋肉が硬直していた。部屋をでて空腹に気が付き荷物をまとめれば、窓の外は世界に警鐘を鳴らすように赤く染まっていた。

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