2人目

 改めて左手の甲を眺める。くっきりと刻まれた野球ボール大の丸い円は、入れ墨のように妙な存在感を放っていた。少なくとも昨夜寝るまで、こんなものはなかった。

「夢じゃ……ない?」

 円は確かに、白い玉の破片がぶつかった箇所にあった。押しても今は痛みはない。けれどもあの内出血じみた痛みは、未だ記憶に鮮明に残る。確かにこの場所だ。

 体がやけに重いと思えば、寝間着が汗でぐっしょりと濡れていた。秋に差し掛かる時分だが、未だ夜には這い出るような熱がこもる。そのせいかもしれない。そう思って体を拭っていれば、突然自室の扉がどんどんと叩かれる。

「常磐さん、いい加減起きてください!」

「五月蝿い。今行く」

 扉に声を投げかければ、まったくもう、というブツブツとした声が遠ざかる。あの姦しい声は、この大学寮の管理人、万定院華まんじょういんはなだ。

 外に目を向ければ日は既に高く登っているようで、窓の形の光の枠がキラキラと室内に差し込んでいた。時計を見れば8時半。朝食が片付かないと怒っているのだろう。

 布団を片付け、脱ぎ捨てた寝間着と手ぬぐいを洗濯用のかごに投げ入れる。そうしておけば洗い屋が回収し、翌々日には洗濯された服が届く。それ故、俺は他所行き以外の服は3組しか持ち合わせていない。それもまた、華に先生なんだからキチンとしなさいとよく揶揄される。


 いつもの白シャツにズボンをサスペンダーで吊るして食堂に降りれば、最近流行りの断髪おかっぱに割烹着姿の華が盆を持ってすかさず現れる。そしてドンと机に押し付けたものだから、味噌汁の表面がくらりと揺れた。まったく新聞を開く隙もない。チラリと見た共用書棚の神津新報の一面では、憲政記念館前で抗日運動のデモ隊が警察と衝突したと見えた。

久我山くがやま先生は常磐さんをずっと待ってらしたんですよ」

「ああ、俺は別に構わないよ」

 俺の前で麦茶を傾ける久我山眉山びざんは俺と違って襟と袖にレースの入った小綺麗なシャツを身につけ、窓を眺めながら物憂げにそう述べた。華の考えるきちんとした先生の見本なのだろう。

 眉山は27歳の俊英で、神津こうづ大学付属病院で医師として勤務する傍ら俺と同じく神津大学で講師を勤めている。眉山の一番の特徴といえば、その美貌だ。スラリとした長身で涼やかな空気をまとい、肩口でまとめた絹のように艷やかな髪の内側に収まったやや吊り目がちな瞳、その間を通る高らかな鼻筋、そこから繋がる唇は薄く赤い。そして常にその端に浮かんだ微笑で学生や教員を魅了し、つまり絶大な人気を博していた。

 だから華も俺より5つ下で講師の眉山には先生とつけ、年上で助教授であるはずの俺はさん付けなのだ。けれども俺は幼馴染でもある眉山の変態性を知悉しているものだから、そんな無意味な尊崇など笑いの対象でしかない。眉山はただの変態だ。


「八天閣か?」

「そう」

 眉山は珍しく、秀麗な眉根を寄せた。

 昨夜の夢現の記憶をたどり、神徒とやらに選ばれる条件として『唯一人』が含まれていることを思い起こす。俺が含まれるくらいだから、眉山も当然含まれているのだろうと思い至る。

 眉山はようやく俺に顔を向け、忌々しそうに右手の薄い手袋を外すと、その甲には丸い円が描かれていた。

「本当に巫山戯てる」

 眉山の顔が歪む。酷く機嫌が悪いらしい。

「これは神徒の証だから、他の神徒に負けて神徒でなくなるか、神を下ろせば消えるんだってさ」

「うん? 何処からでた情報だ」

「何処って。最後に質問したじゃないか。これがどうやったら消えるのかって」

 苛立ちを滲ませる眉山の声に、そんな応答があっただろうかと思い返す。記憶にない。そもそも俺は一人だった。

「だから青嵐、俺と当たったら勝ちを譲るからさ」

 その投げやりな声音は今までになく真剣だった。

「そんなこと言ったって負けたら死ぬんだろ?」

「そうなの?」

 眉山はきょとんと首を傾げる。

「玉が昨日言ってたじゃないか」

「聞いてない」

「そもそもお前が俺と当たるかもわからない。けれども負けて死んでしまえば」

「死んだほうがましだ!」

 眉山は珍しく声を荒らげ、気を取り直すように再び窓を向いた。

「こんな痕が残るならな」

 眉山は暇があれば、窓を覗き込んでいる。その遠くを臨むような視線に浪漫を感じる女学生も多いようだが、実際はもっと下世話な意味なのだ。


 眉山が唯一人に選ばれるとしたら、それは眉山の優秀な頭脳ではなく、眉山が美しいからだ。客観的にも眉山はかなりの美丈夫だろう。しかしそれ以上に、眉山は自身を世界で最も美しく尊いと本気で認識している。よく窓を眺めているのは窓に映る自身を眺めて悦に浸っているだけだ。

 この認識において、眉山は常軌を逸している。なにせ時々、俺には常々、将来の老化を恐れて自殺しようかなどと嘯いているほどだ。周囲には冗談だと思われているが、幼馴染の俺には本心だとわかる。だからこそ薄給にもかかわらず大学に居座り、切実に組織の保存、つまりは美容の研究をしている。

 だからおそらく、右手甲の円を消すためなら死んでもいいと思いかねない。いや、実際に思っいてるのだろう。その程度にはイラついている。

「そもそもあの白いのが言っていることが本当か嘘かもわからない。負けたらその円以前に、どうなるかわからない」

「何故俺がこんな目に合う」

「……唯一人と自己認識しているからだろ。ところで使徒の力っていうのは何なんだろな」

 眉山は再び、不可解そうに俺に目を向けた。

「使徒の力? 何それ」

「何って、あの白いのが神徒は戦うために使徒の力を得るって言ってたじゃないか」

「知らない」

 俺と眉山の認識に齟齬がある。

 情報をすり合わせれば、『唯一人と自己認識したものが選別され、最後の一人まで戦う』と白い玉が最初に述べたところまでは、俺と眉山は共通して認識していた。けれどもその後の玉との応答は異なった。


 眉山は玉に円の消し方を尋ねたそうだが、俺は認識していない。俺が玉に力について尋ねたことも、眉山は認識していない。

「ともあれ使徒の力が与えられるといわれて光が四散し、俺の手に円が出来たんだ。だからこれは使徒の力、なのかもしれない」

「これが? 本当に? 馬鹿げてる」

 眉山は不快そうに自身の手の円を眺め、嫌そうに手をふる。

「そう言うな。神が人に力を与える時に目印を付与するのはままある話だ。キリスト教では信仰が深い者の手の甲にこんな痣が浮かぶという話がある」

 聖痕というものだ。日本でも憑き物などがそのように扱われることもあるが、それを言うと眉山はますます嫌がるだろう。

「なんで?」

「キリストが磔にされたときの痣が」

「青嵐の専門の国学って日本についての学問だろ?」

 何と答えたものか。この大正の時代、俺の専門の国学は既にほぼ息をしていない。

「趣味だ。いや、これは正しく国学の場面かもしれないけれど。これが聖痕の類だとしたら西欧系の仕組みなのかもしれない。日本では神の力としてこんな形が現れることは少ないから」

 このような痕跡は、垂直か水平な関係で生じることが多い。絶対者を中心とする一神教では上位者である神が使命に対する報奨という形で聖物を下賜することはままある。これは服従と信仰の対価だ。一方で同じコミュニティや家族といった水平関係では大切なものを贈与をし合うこともある。これらは相互の関係性の確認と関係の維持強化のために行われる。

 そもそも日本の神は、基本的に人間に関与しようとは考えていない。たいていにおいて日本の神の価値観では人間は無価値だ。だから気まぐれか、よほどの事態でなければ人間に何かを頼むこともないし、畢竟こういった痕跡を残すという関係には立ちづらい。そうするとこの円は何だ。

「青嵐、これを消す方法がわかる? 結局この気持ち悪いのは何」

 眉山のその本質的な問いに、今の俺は答えを持たない。

「今後の研究課題だな。ところで華」

「何?」

 ちょうど麦茶を運んできた華に左手の甲を差し出す。

 キリギリスの音がどこかから響いた。

「俺の手の甲に円が見えるか?」

「常磐さんの? 円? 血管のこと?」

 華は眉をよせて俺の手の甲を眺める。

「眉山の手は?」

 嫌がる眉山の手首を押さえれば、眉山はそっぽを向いた。

「久我山先生はいつもどおりお綺麗ですよ。常磐さんと違って」

 この円は華には見えない。

「眉山、他人には見えないようだから気にする必要はない」

「俺は俺に見えるのが一番嫌なんだ」

 眉山は不機嫌にそう言い、再び手袋をはめようとしたのを止める。

「ともあれ、使徒が何かが肝要だろう」

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