彼岸忌憚奇譚

白里歩

第1話 舞うは紫

コンビニから随分離れ、街灯も遠く光は薄い道を歩く。かつて塗装されていたコンクリートはひび割れ、徐々に土が剥き出しの地面となった。


シャン……



美しい鈴の音は、コンビニから出た後に何処からか聴こえてきた。バイトを終えて、帰る途中だったのに。



鈴の音の居場所が何故か無性に知りたくて、頭の中にふわり煙が入ってきたかの如く、ただ音色を追っていた。



湿った土と甘い甘い花の香り、瑞々しい草木の葉、辿り着いたのは仄かに柔く発光した赤い鳥居だった。


幾重と並ぶ鳥居のトンネル。


綺麗だ。綺麗だ……


ああ、ここだったのかと充実感に満たされる。


僅かに泥のついた靴も気にとめずに、誘われるまま段差を数歩上がる。


白い手が、鳥居の影から手招きしている。



今行くよ。行きたい。だって綺麗だ、俺もそっちに行きたい。


手招きしている袖の先、真白の着物を纏った女性は、僅かに顔を覗かせて微笑んでくれた。



シャン……



いつの間にか、幾本もの手が、俺を呼んでくれていた。


ゆっくり、ゆっくり、手招きをしている。



街灯の灯りよりも余程眩い光。仄かな発光の筈なのに。赤い鳥居に白い腕、美しい光景。



こっちへおいで……


頭の中に舞っていた煙が声として形を作ったように、静かに響いてきた。



うん、今行くよ。もうすぐ、もうそこだから。



段差を上がった鳥居の入口へと向き合い、今その手を取らんとした刹那。



「坊や。」



リン……



背後から、青年の声がした。



振り向くと、黒い着物に紫の番傘を差した黒髪の青年が立っていた。顔はよく見えない、でも小さく笑っている。


片手には、紫の小さい鐘。仄青く光っていた。


青年は続ける。


「坊や、そっちに行っちゃあいけないよ。行きたいならば止めないけれど、そこは地獄の入口だ。亡者に腸引き抜かれ、血肉を啜られ目を食われ。永劫続く苦しみを、坊やは堪能したいのかい?」



なにを言ってるんだ?この男は……



リン……



男が手元の鐘を再び鳴らした時、澄んだ高い不思議な音色と共に遠くの街灯の電球がパキンと弾けた。



「ほぉら、よくご覧。思い出してご覧。君は何処に行くんだい?何故、暗闇に向かって歩いているんだ?そちらには朽ちた林しかないというのに。」



咄嗟に、視軸を眼前に目を戻した。あれ?鳥居は?あんなに綺麗だったのに。なにもない、なにも───



腐った女が満面の笑みで俺を間近に見ていた。


その瞬間。花の香りは腐臭に、美しい鈴は狂ったような数多の笑い声に。鳥居なんて何処にもなかった。


あるのはただ、宵闇に呑まれ枯れた木々。泥に満ちた地面。


一気に我に返り、喉元から空気を吸う恐怖の音が響いた。声にもならない。



ぐちょり、女が俺の腕を掴んだ。強く、強く。腐った肉が崩れながら手首に食い込む感触が絶望的に気持ちが悪い。そして、泥からも俺の足を這って掴む手が何本も伸びてきた。履いていたジーンズには、がっちりと捕らわれた場所から腐った体液が染みていく。



『腸を──』




先程言われた青年の言葉が、更に恐怖と絶望を招く。想像してしまう。嫌だ、嫌だ!



「俺はそっちに行きたくない!!」



懇願と意思はぐるぐると、ゲラゲラ笑う女達の響く声に呑まれていく。腹を抱えるように心底可笑しそうに、逃がさないように。血液が冷えるような恐怖に涙が浮かぶ。




「ならないよ。」



リーン……



青年はふわりと着物を靡かせ、足音もなく。いつの間にか俺の背後に立っていた。



「ならないんだよ。生者を喰らいたいかい?血の味は愉快だ、でもこの坊やはそれを望んでいない。だから──」



青年は鐘を宙に投げ、それを捕えるように番傘を閉じた。



「返してもらうよ。」



リーン……




「腹が空いてならないならば、彼岸の花を喰らっておいで。それが黄泉との契約だ。」



鐘の音と共に彼岸花が舞い、女達がそれにこぞって手を伸ばし掴んだ瞬間、手指からみるみるとどろどろに溶けて、形を失い泥に落ちていった。



青年は、ゆるり落下した鐘を片手で受け止める。


そして、割れた筈の遠くの街灯がチカチカと光りだし、全てが夢であったかのようないつもの風景に戻った。夢であったのかもしれない、俺の涙が、腐った肉に強く掴まれた手首の跡がなかったならば。



番傘が無くなり相見えた青年は、小さく笑っていた。



惚ける俺は言葉が出ず、漸く開いた唇から声が中々纏まらなかった。


彼は表情一つ変えず、そんな俺を黙ってみていた。紡ぐ言葉を待ってくれているように。



そして緊張に強ばりすぎて震える俺を見て、静かに穏やかに告げた。



「家にお帰り、坊や。彼岸の亡者に気を付けて。血肉があるだけご馳走だ。」



くるり、背を向けて再び番傘を差し青年は歩いて行く。


助けてくれた。誰かはわからない、言ってる事も何をしたかもわからない。だけど、だけど。



「待ってください!」



漸く出た声は、自分が思っていたよりも大きく夜に響いた。


青年は足を止めて、ゆるり振り返る。



「なんだい?」



問われても、俺にもわからなかった。でも、でもお礼が言いたい。さっきの事を知りたい。だって24年間生きてきて、こんな出来事も、こんな人も、見た事がない。



「あなたに着いて行かせてください!」




咄嗟に出た本心は酷く突拍子がなく、だけど何故か迷いはなかった。



青年は番傘で目許は見えず、けれど口許は僅かに驚きか唇を薄く開いた後にまた弧を描いて笑った。



「……そう。ならば着いておいで。」



彼は片腕を伸ばし、手のひらを上に向けて緩慢と五指を曲げ誘った。



俺は迷わず駆け出して、まずはこの青年に礼を言わんと後ろを着いて行った。





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