ナイフで南極に行こう
半ノ木ゆか
*ナイフで南極に行こう*
「遅刻するよ!」
母に言われて、
「大丈夫だって!」
そうは言っても、彼はリビングのあっちに行ったり、こっちに来たり、バタバタと落ち着かない。ワイシャツの
「あと五秒しかないじゃない!」
「いってきます!」
歩は鞄から白いナイフのようなものを取り出した。それを空中で振り下ろすと、あたりが光に包まれた。
光がおさまる。しかめっ面の母が一人、リビングに取り残された。
「お待たせ」
教室にチャイムが鳴り響いた。先に席についていた
「これのおかげだよ」
「オットリナイフ……昨日発売の!」
白いナイフを持って、歩は「へへん」と胸をそらした。
「オットリナイフ」は、近道を作り出す道具である。
この刃物は、時空に裂け目をつくることができる。行きたい場所を設定し、その場で振り下ろすと、任意の場所へ通じる近道ができる。言い換えれば、一般庶民用のワープ装置である。
「どこへ行こう」
休み時間、歩は親友に持ちかけた。電子黒板の端っこで樹はうちわを扇いでいる。窓からは夏の日差しが照りつけていた。
「南極はどう?」
樹の提案に、歩は乗った。
「いいね!」
オットリナイフをふりおろす。時空の裂け目に二人は飛び込んでいった。
「やべー超すずしい!」
「寒いくらいだよ!」
一面の銀世界。
ふと、樹が静まる。歩の服装を指差し、言った。
「お前、釦がズレてるぞ」
「あっ……」
赤くなる歩。ワイシャツの釦を片手でとめ直す。肩にかけていた鞄を落っこどした。
「海も見えるじゃん! 行ってみよう」
鞄をひろって、歩は待ったをかけた。
「遠くまで行って、午後の授業に間に合うかな」
オットリナイフで作った近道は、数分経つと自然に消滅するのだ。
「また近道をつくればいいだろ」
「……それもそうだね」
雪の平原を駆け下りてゆく二人。背後で、時空の裂け目が光を放って消える。
その下にオットリナイフが落ちていた。真っ白なナイフは、真っ白な雪と見分けがつかなくなってしまった。
「へっくしょん!」
樹が大きなくしゃみをした。自分の腕をさすりながら、歩に言う。
「そろそろ学校に戻ろう。さすがに寒い」
空は雲でおおわれた。雪も舞っている。歩は「うん」と頷いて鞄のなかをさぐった。
「僕のオットリナイフで……あれ?」
おそるおそる訊ねる樹。
「まさか、失くしたとか言わないだろうな」
歩の顔は真っ青になった。
「そのまさかだよ。いつき」
樹は歩に迫った。
「うっそだろ! あれがなきゃ授業に出られないどころか、家にも帰れないんだぞ」
「だ、大丈夫だよ。人が住んでるところまで行こう。すえおきのワープ装置を貸してもらえば」
歩は携帯でネット地図を開いた。南極大陸の岸に赤い印がある。携帯の現在地……つまり、二人の居場所だ。
樹はうなだれて首を横に振った。
「あゆむ、無理だ。ここから一番ちかい基地まで一〇〇〇キロもあるじゃないか。一週間歩いても着きそうにない」
「……きっと、僕が釦をかけ直してる時に落としたんだ。鞄からナイフが飛び出して、そのまま」
樹は意を決したように、海に背を向けた。駆け下りてきた雪原に、登りながら手をつっこむ。
「こ、ここから探すの?!」
樹は、オットリナイフを見つけ出そうというのだ。
「当り前だ。あゆむも捜せ。こうなったのは、全部お前のせいなんだからな……」
いつきも悪い、と反論しようとして、歩は口をつぐんだ。
「南極に行こう」と言ったのは、たしかに樹だ。でも「遊びに行こう」と持ちかけたのは歩である。オットリナイフを落としたのも、学校に持ち込んだのも、すべて歩だった。
時間にゆとりを作らず、いつもバタバタして、注意をおろそかにしていた歩がいけないのだ。
歩は斜面を登って、雪をかき分けはじめた。まだ降り出して間もない。表面ちかくに埋まっているはずだ。
「こっちのほうなのか」
見ると、すぐそばに樹がいた。
「あしあとが残ってるんだよ」
歩の言うとおり、うっすらではあるが確かに足跡があった。斜面をくだって海の近くまでつづいている。二人が南極に降り立って初めて付けたものだ。
「……頭、いいんだな」
手探りしつつ、樹が言った。歩は答えず、「寒いね。夏なのに」とつぶやいた。
「俺たちは北半球から来たんだ。日本が真夏なら、南極は今がいちばん寒い」
「……物知りだね」
手探りしつつ、歩が言った。樹は返した。
「さっきの授業で習っただろ。先生の話を聞け」
歩は顔を赤らめて、黙ってしまった。
吹雪になった。ほとんど前は見えない。二人は諦めかけていた。だだっぴろい雪原に背中合せで坐り込んでいる。
「体育のジャージでも持ってくればよかった」
半袖姿の歩が言った。樹が自分の息で両手を温める。
「僕たち、ここで死ぬのかなあ」
「縁起でもないこと言うなよ……ラーメン食べたい」
「ああ、わかる。でも、僕は焼立ての食パンが食べたい」
けさ、歩は何も食べずに登校した。母がトーストを二枚、用意してくれたというのに。一枚も、一口も食べずに学校に行った。
歩がいなくなったあと、母は食卓を前にカンカンに怒っただろう。
早起きしていれば、トーストを食べられたのに。ゆっくり支度をして、樹と一緒に歩いて登校したのに。
オットリナイフなんて必要なかったのだ。最短距離で行かなくても良かったのだ。
「お母さん……ごめんなさい」
歩がつぶやいた、その時だった。
吹雪の中に、細い光が見えた。平原の先に、白い光の縦筋が、一本だけ、小さいけれど確かに見える。
樹も気づいて、目を丸くした。
「そんな、まさか。俺たちがここにいるってこと、誰にも言ってねーのに」
そして、人影が現れた。
「あゆむ! いつき君! そこにいるの?」
「お母さんだ!」
歩は声の主に向かって一直線に走っていった。しかし、母の表情を見て急ブレーキをかける。彼女は鬼の形相だった。
息子の正面に立ち、母は怒鳴った。
「どれだけ心配したと思ってるの!」
しかし、歩は力いっぱい抱きしめられた。彼はわけがわからず、されるがままとなった。
樹がよたよたと近づく。吹雪のなかに、もう一人の人影があった。樹は驚愕した。
「せ、先生……どうしてここに」
「説明はあとでゆっくりする。とにかく学校へ戻ろう」
白く光る近道から、ぞくぞくと救急隊員が駆けつける。樹と歩は毛布を羽織り、極寒の地を立った。
夕日の射し込む教室で、樹はカップラーメンの蓋を開けた。白い湯気がスクリーンになり、窓の影がうつる。おいしそうなにおいが机の上にひろがった。
「いただきます!」
「い、いただきます」
待ってましたとばかりに麺をすする樹。歩はていねいに手を合せてから、箸を割った。
「言っておくけど、これは特別だからな」
向かいの先生は、苦笑いだ。
歩の母が真剣そうに頷く。
「二人が行方不明だってうかがって、押取刀で飛んでいったのよ」
歩は小首をかしげた。
「オットリがたな……新しいワープ装置かな」
「慣用句だよ、あゆむ」
箸を止めて樹が突っ込んだ。
「何はともあれ、二人が元気でよかった。いつき君の御両親も、そろそろいらっしゃるそうだよ」
先生がやさしそうに微笑む。樹は、さっきからずっと気になっていたことを訊ねた。
「それにしても、どうして俺たちの居場所がわかったんですか?」
先生は答えた。
「GPSだよ」
「じいぴいえすう?」
歩も身を乗り出す。
三人のやり取りを見て、母がくすくす笑っている。
「世界居場所
二人の前に置いてあるカップは、からっぽだ。スープの一滴も残っていない。窓に目を移せば、空は一面の紺碧だった。白い光の粒々が動いていた。
「今も地球のまわりを、星の数ほどの人工衛星が飛んでいるんだ。もちろん、南極の空も通るよ。その中のいくつかが信号を出してくれる。それを、あゆむ君が受け取った」
樹が「わかった!」と手を挙げた。
「はい、いつき君」
「その、信号を受け取るまでの時間をはかれば、衛星とあゆむがどれくらい離れているかもわかりますよね。だから、あゆむの居場所を割り出せたんです」
歩が「ちょっと待ってよ」と手を振った。
「どうして僕が話に出てくるの? 僕、アンテナでもあるまいし、電波なんて受信できません」
こらえ切れず吹き出して、母が説明した。
「あゆむは昔からよく迷子になるでしょう? お母さんがあゆむの居場所を、文字どおり把握してるの」
取り出された画面に、歩は釘づけになった。
「これって……僕の携帯とおなじだ!」
大陸の東端。緑の島国に赤い印があった。歩もネット地図をひらく。親子の画面は、完全に一致していた。
「あっ! 父さん、母さん!」
樹が席を立った。教室の入口に、樹の両親が立っていたのだ。二人は我が子をあたたかく迎え入れた。
樹が振り返る。彼の両親と目が合って、歩は縮こまった。
「あゆむ」
母が呼ぶ。
「ここにいる全員に、何か言うことがなあい?」
歩はおそるおそる腰を上げ、言った。
「ご、御迷惑をおかけしました。本当に、ごめんなさい」
そして、深々と頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
歩はトーストを食べ切り、席を立った。
「今朝は早く出られそうね」
朝日の射し込むリビングで、母が茶化す。苦笑して鞄を肩にかける歩。
「忘れ物はなあい?」
たずねる母。歩は指折り確めた。
「教科書に、ノートに、筆箱に……あっ! 歯みがきし忘れた!」
咄嗟に駆けだし、鞄を落としそうになる。歩は思いとどまって急ブレーキをかけた。
鞄をゆっくりと床に下ろす。歩は深呼吸をしてから、洗面所へ向かった。
母はにこやかに笑った。
通学路で樹に逢った。葉の生い茂った木の下で、彼は立ち止まった。腕時計と歩を見比べて、びっくりしたような、よろこんでいるような。
「珍しいな、あゆむと登校するなんて。何十年ぶりだろう」
「僕たち、そんなにおじさんじゃないよ」
笑い声が並木道に
歩道をのんびり歩く二人。歩が何かを見上げる。それにつられて、樹が空を見た。木々やビル群に並んで、入道雲がそびえている。
樹はつぶやいた。
「オットリナイフ、南極に置いてきちゃったな」
歩は親友を見た。樹がつづける。
「俺は、もうちょっと遊びたかったな。寒いのはもうゴメンだけど……パリとかマチュピチュとか、涼しそうな場所ならいい」
アスファルトを踏んでゆく。
「あゆむはどこへ行きたい?」
樹は親友に訊ねた。歩が答える。
「遠いところもいいけど、僕はこの街をもっと探検したいな。……ゆっくり進めば、いろんな景色に気づけるし。時刻が変われば、陽なたは陽かげになってて、全然ちがう風景を見られるんだもん。しばらくは自分の足で、僕は歩いていくよ」
ナイフで南極に行こう(終)
ナイフで南極に行こう 半ノ木ゆか @cat_hannoki
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