第5話

 馬車は一路東へ向かう。


 王都から東西南北、七方向へ伸びる大街道はエークレット王国がアスガルド帝国に属していた頃に整備された。『帝王の道』と呼ばれる街道それは領土の隅々にまで毛細血管のように張り巡らされ、帝国の繁栄を支える礎であった。

 地域によっては廃れてしまっているが、エークレットでは現在も七割程が機能し、内陸の国の人と物の移動を支えている。


「方向が違いませんか?」

 窓の外を流れる景色に、アンナは控えめな表現で質問を試みた。

 初めて乗る四頭立ての馬車の設えは豪華で、小気味良いリズミカルな振動がなければ車両内部と思わない。座席の座り心地も最高だ。宿舎の長椅子なんか足元にも及ばない─比べるのもおこがましいが。

 車内はゆったりしていて、成人女性三人が身体を触れ合わずに座ってまだ余裕がある。進行方向に向かってボリュームのあるスカートを広げて座るロベリア嬢。この馬車は彼女の実家ポルロック男爵家の所有だ。向かいにはアンナとメリメの二人が並ぶ。

 コツン、と右の靴に杖が当たる。隣を見るとメリメがごめん、と苦笑いを浮かべていた。

 ゆとりあるベンチシートも、松葉杖二本抱えたメリメとだと、多少は手狭感がある。


道程ルート馭者マストロに任せてあるの。問題ないと思うけれど」

 ロベリア嬢は微笑みながら首を傾げた。

 アンナは地理に明るい方ではない。幼い頃、田舎の寂れた孤児院から王都の妓楼へと連れて来られた。その後は後宮へ下働きに上がり、王都どころか後宮から出ることもなく九年間暮らした。

 地理はさっぱり─だがポルロック男爵の領地が王都より西に位置し、今馬車が東へ向かっている、ということはわかる。


「王都から男爵の領地へ直に通じる街道はなくてね、いったんワグナス大公領まで東へ向かうんだよ」

 メリメが杖の先で床をなぞりながら説明する。

「そうなんだ、メリメは地理にもあかるいのか」

「そうだったの。始めて知ったわ、王都と領地うちの行き来にワグナス様の領地を通るなんて」

 ロベリア嬢が目を丸くする。後宮に来て二年、月一で実家に戻っていたとメリメから聞いている。さすが貴族の御令嬢だと、アンナも目を見開いた。

「…国の出入りって、面倒な手続きとかはないの?」

「ワグナス大公領に限っては、街道を通過するだけなら何にもいらないよ」

 国境の検問所で発行される鑑札がなければ街道沿いの街に立ち寄ることは出来ないという。

 ロベリア嬢は、それも初耳だと笑った。

 アンナは窓の外へ目をやった。

 東へ向かう道。この道は一週間前、ディルムンへと向かったヒルダが通った道なのか。

 アンナの視線は隣に向けられた。松葉杖を抱えて踞るメリメのスカートの裾から覗く左足は包帯に包まれている。

 アンナは微かに眉をひそめた。



 ヒルダの出立を見送ったその夜事件は起きた。いや朝だったのかもしれない。

 真相は誰にもわからない─被害者自身さえ。

「アンナ、アンナ。起きなさい、アンナ」

 誰かが呼んでいる、ということだけわかった。身体は重く寝台と一体化しているようだ。頭も重く深い霧に覆われている。一度浮上した意識が再び沈み始める─

 今度は先よりも大きな声が自分を呼んだ。何やら切迫しているようだ。名を呼びながら身体が大きく揺すられる。その振動で身体が寝台と切り離され、寝台だと思っていたものが別の物─長椅子だとわかる。

 長椅子、で寝てた?なぜ?と思ったと同時に意識が鮮明になった。

 頭の重だるい痛み、身体の節々の痛み、漂う酒臭さ、肩に置かれた筋ばった指。周囲の喧騒。よく響く嗄れ声はベルタのものだ。

「お前たちは何様のつもりだイ、宿舎で酒盛りかッ!」

 わんわんと二日酔いの頭に響くのを堪えて目を開けると射し込む外光が痛い。

「アンナ」

 側にはヘレナが居た。怒りを通り越して呆れ果てている、そんな表情をしていた。仕方ない。彼女は酒飲みの過ちには辛辣だ。  

 ヘレナから顔を背けると物見高く集まって来た同僚達、ベルタ、そしてベルタに叱られて居るらしいメリメが見えた。メリメの目に涙が浮かんでいる。


「酔い潰れて、長椅子から落っこちて、足を折ったのに、酔いで痛みに気づきもしないで爆睡した挙げ句の体たらくだ」

 メリメは部屋へ運ばれ、医官が呼ばれた。左足の舟状骨骨折、右足は捻挫という診断だ。酔っ払って長椅子で寝ていたが寝返りで床に落ち、その際足に負荷がかかったからではないかという看立てだが、目撃者不在のため真相は闇の中。


 問題は別にある。

「来週、ポルロック男爵の令嬢が侍女職を辞して後宮ここを出るんだが」

 アンナはベルタに呼びつけられていた。

 その日の昼食時である。

 アンナは当分の間、謹慎を言い渡された。食事も部屋で採るように、他室を訪問する際は事前にベルタの許可を獲るように、と念を押された上で

「メリメは全治一ヶ月だそうだ」

 話に脈絡がない。

 考えを見透かすようにベルタはアンナをねめつける。

「先に男爵家より申し入れがあった。ロベリア嬢の輿入れ準備のためメリメをひとつき借り受けたい、ってネ」

 メリメの話だと離宮の先王の元に送り込まれるのではなかったか。

 ベルタは何もかもお見通しだ、というふうに頷いてみせた。

「今のメリメじゃ役に立たん、侍女としてはネ。けどあの娘はお針子として腕が良い。先方もメリメの腕にも期待しておいでだ」

「…足を骨折しても手は動く、と」

 全治一ヶ月でも働け、というわけだ。

「メリメは予定通りロベリア嬢に同行する。お前さんにも一緒に行ってもらうよ、メリメの代わりの侍女として。メリメの介助もこなしてもらう」

 先方には話をつけたから、とベルタは言った。アンナの都合などお構い無し。

 まぁヒルダは留守だし謹慎中の身ではあるし、特段不都合がある訳でもないが。

「私の目の届かんを良いことに羽目を外されては困る。向こうで酒は一滴も口にせんように」

 ベルタは念を押すのを忘れなかった。

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