《幽鏡》のドロレス(1)

  理力マナの灯りを頼りに、夜の〝慈悲の森〟をわたしは歩く。滑翔用ブーツの分厚い靴底が腐葉土を噛んで、くぐもった声を上げた。

 日中に低く垂れ込めていた鬱陶しい灰色の雲は、南からの風に追われるようにどこかに消えていて、痩せ細った月明かりがわたしの歩みを助けてくれる。木々の合間をすり抜ける七月の夜風は生暖かく湿っていて、むせ返る緑の匂いが油のようにわたしの身体を覆った。

 森の中を五分も歩くと背中に汗がにじんで、けれどそのどれも別段不快なことではなかった。


 夜の森はいつもの通り静かで、逆立ったわたしの神経をいくらか落ち着かせてくれた。

 森の静寂は、あの部屋の居心地の悪い静寂とは根本的に違っていた。木立の隙間にはフクロウの羽ばたきがあり、獣たちの息づかいがあり、小虫やカエルの鳴き声があった。でもそれは、森の静寂に組み込まれたものだ。

 ひげのない髭編みドワーフが居ないように、耳の短い耳長エルフが居ないように、彼らの営みは静けさというものの一部分に過ぎない。特に素晴らしいのが、彼らが一様に今日の出来事について無関心だということだった。

 わたしには、そういう場所に身を置く時間が、少しの間必要だった。


 いくつかの林道の分岐を正しく進むと、ぽっかりとした広場に出た。〝慈悲の森〟にはこういった広場がいくつか口を開けていて、わたしはそのうちのひとつを日々の日課をこなす場所に決めていた。あるいは正しい地名があったのかもしれないけれど、わたしはその場所を勝手にそのまま〝日課の広場〟と呼んでいた。


 わたしは広場の真ん中に立ち、深呼吸をした。それから身体を曲げたり伸ばしたり、手足をぶらぶらさせてみたりする。準備体操が必ずしも必要かと言われると多分そうでは無いのだけれど、ある種の儀式というか手続き、ルーティンのようなものだった。

 短く息を二度吐いて、浅く吸い、深く吐く。両手を前に突き出して、開く。


「チェック」


 声に出して、両手の指を確認する。皮膚に焼き込まれた呪術刻印は、十指の根元に指輪のように巻き付いていて、その爪先は炎の緋色と血の赤色のちょうど中間の色――アネモネの花の色に染まっている。


――全弾装填済み。異常なし。


 周囲の木立の中から一番太いものに当たりをつけ、杖帯から杖を抜く。右足を半歩前へ。顎を引き、杖腕ききうでを肩の高さに構える。授業で習う、攻性魔術の基本の構えだ。


「【Bullet呪爪】【N-roj 1 ĝis 3.一番から三番】」


 呪術刻印の起動鍵となる言葉を口にする。左手の親指から中指までの爪がほのかに熱を帯び、理力は胎で練られることなく、直接的に杖先に集中する。


「【Fajro.射抜け】」


 激発の呪文とともに三発の光弾が斉射され、あやまたず木の幹に着弾する。標的として思い描いていたのは、もちろんジュディス・ヘイワードの仏頂面だった。大抵の場合は皮肉屋でたばこ臭い魔法薬学教授をはじめとした単位の渋いお歴々のご尊顔を思い浮かべるのだけれど、その日はそうせざるを得なかった。

 憂さ晴らしとしては下等もいいところで、陰湿かつ小市民的に過ぎるそれはでも、わたしにとっては必要なことだった。

 いくらジュディスのことが気に入らないからといって、本当に魔法をぶち当てたり、胸ぐらを掴んで顔面をひっぱたいたりするわけにはいかない。

 人類の歴史の大部分はそういう小市民的人びとの我慢によってかたち作られている。歴史の流れや国家の都合なんかの、そういった大きな流れの中で、名も無き人びとはいつだって我慢してきたのだ。

 すべての人びとがナコト先輩やクリス先輩のような生き物だったとしたら、人類という種は三日くらいで滅亡してしまう。


「【4 ĝis 5.四から五番】」


 だからわたしは、あの時も我慢すべきだったのだ。少なくとも「くそ馬鹿」なんていう言葉でジュディスを罵るべきではなかった。物事に対しての立ち位置を表明するときに、敵対者を罵倒する必然性なんて存在しない。言うべきことを言うだけでよかったのに。


「【Fajro.射抜け】」


 放たれた二発の弾丸は空気を裂き、幹に当たってくぐもった音を立てる。想像の中のジュディスの顔が、あの困った狩猟犬の表情に変わった。

 彼女は傷ついただろうか? そうかもしれないし、そうでもないかもしれない。でも、残りの弾を全部ぶち当てたら、素直に謝りに行くべきだ。そう思った。


「何だか変わったことやってるのね」


 不意に、森の奥から誰かの声がした。


付与呪術エンチャント? 自分の身体に直接、っていうのは初めて見るけど」


 わたしは目を細めて、声の方向を注視する。標的に使っていた幹の向こう側だ。そこには誰も居なかったはずで、実際に眼を凝らしても人影のようなものは見えなかった。

 ひと気のない夜の森とはいえ、射撃訓練をするのだ。撃つ方向に誰か居ないかくらいは事前に確認するし、わたしは夜目だって利く。本当の真っ暗闇ならいざ知らず、月明かりがあれば、正直なところ灯りなんて要らないくらいには視えるのだ。


「ねえ、それってとっても非効率じゃない? そんなことしなくたって、アタシたちはその場で理力を練れるのに」


 森のお化けにしてはもっともらしいことを言いながら、声は移動する。姿は相変わらず視えないし、足音も聞こえなかった。樹精スプリガンのたぐいでもなさそうだ。慈悲の森には彼らが守るべき財宝も無いだろうし、その声は梢の葉ずれに意味を無理矢理乗せたもので、もっとずっと不明瞭なはずだ。


「どちら様ですか」


 わたしは眼だけをきょろきょろ動かしながら、虚空に尋ねる。害意はなさそうだけれど、こんな風に一方的に見られながら会話をするのはあまり良い気分ではなかった。


「冷たいなあ、昨日会ったじゃない」


 声は応える。先ほどよりずっと近い。目と鼻の先と言っても良いくらいの位置から、声がする。驚くべきことに、腐葉土の地面には何かが移動した形跡は一切見て取れなかった。

 ただ、まあ、声の調子と「昨日会った」ということで、なんとなくの当たりはつけることが出来た。


「冷たいも何も」ため息が出る。


 まったく、魔女という人びとはどうしてこういう登場の仕方をしたがるのか。せっかくだから、とか、もののついでに、みたいな感覚で、どうにかして誰かをからかったり驚かせようとする。特に若くて力の強い魔女に顕著な傾向と言え、その筆頭格は我らが《柩》のナコトだ。


「こういういたずらじみたことは、もうちょっと仲良くなってからにして欲しいです。……ドロレスさん」


 ばつが悪そうな笑い声が、背後から発せられる。振り返ると、王立学院の純白のローブを着た魔女が佇んでいた。ナコト先輩に墜とされたときに折れた右腕は、三角巾で吊られている。

「ごめんごめん」と微笑みながら、彼女は肩をすくめた。「君なら驚いてくれそうだったから。アテは外れたけどね」


 ドロレスは踊るようにくるりと身を翻し、器用に片手で魔女のお辞儀をした。おどけた様は、まるで宮廷道化師のよう。肩口で切りそろえられた暗緑色の髪が、束を作って揺れる。


「我が身、我が枢機、我が忌み名は白錆。ミスカトニックの魔女がひとり、《幽鏡》のドロレス。そして、こんばんは。ニナ・ヒールド」


 王立学院代表箒手、白錆の魔女、《幽鏡》のドロレス・ホワイト。うやうやしいお辞儀に人懐っこい笑顔で、彼女は言った。


「で、何やってるの? それ」

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