《嵐》のジュディス(2)
一方でアビゲイルはひとり、もっと現実的なものの見方をしていたようだった。
「ところでぇ、
間延びした調子とは裏腹に、彼女は神妙な面持ちでジュディスに尋ねる。
慎重に、言葉をひとつひとつ確認するように、《嵐》のジュディスは答えた。
「……少なくとも私は、彼女は無実だと考えている。多くの〝書架〟の魔女たちも、同じように考えていると思う。だが……」
「本気で疑ってないのなら、逆に悪いんじゃないですかぁ?」
「……どういうことだ?」と、怪訝な顔をするジュディスに対して、今度はアビゲイルが言葉を選びながら話し始める。
「怒らないで聞いて欲しいんですけどぉ、部外者から見ると、王立学院の動きが、ナコト先輩が居るせいで《
一瞬、ジュディスの顔から虚を突かれたように表情が消えた。そういうものの見方があることに、たったいま初めて気づいたようだった。
「まさか。それは、王立学院に対する侮辱だぞ」
言いつつも、ジュディスが自分の言葉に確信が持てていないことは傍目にも明らかだった。いくぶん白くなった顔色でジュディスはうなり、それからはたと気づいたように顔を上げた。
「……アビゲイル、きみ、部外者だったのか?」
ジュディスの気づきに、クリス先輩はあきれ顔で眉根を寄せる。
「お前、このでぶっちょがまともに空飛べるように見えるのか?」
「でぶって言ったぁ」クリス先輩の暴言にアビゲイルが非難の声を上げた。「自分はちびのくせに」
「ちびはいいんだよ的が小せえから」
クリス先輩はアビゲイルの批判を鼻でいなして、《嵐》のジュディスに向き直る。
「その様子じゃ、お前はなにも疑問に思ってなかったんだろうけどよ、上の方はどうなんだ? ナコトが〝いばら〟だって確証があってのことなんだろうな、このふざけた騒ぎは」
毛布にくるまったクリス先輩は普段よりもいくぶん覇気がない。それでもその声は、わたしに巨大で獰猛なヤマアラシを連想させた。返答を違えれば、鈍い銀色をした剣の
「……わからない。ただ、上には……何らかの事情があるのだと思う。そうでなければ、院長や黒杖院までもが動くはずは――」
ジュディスが言い終わらないうちに、ヤマアラシが吠えた。
「じゃあてめえがうちの鉄棺の魔女にくだらねえ喧嘩ふっかけたのは、『多分違うと思うけど、きっとなんか事情があるから』だってのか? ああ? お前、仮にもナコトと一緒のチームで飛んでたんだよな? のん気こいてクッキー食ってんじゃねえよ。ぶっ殺すぞ」
そうだった。この人はナコト先輩を陥れた張本人なのだ。ジュディスがナコト先輩とどういう会話をしたにせよ、本当に口下手なだけのいい人なら、そんなこと出来るはずがない。ほんの少しでも彼女に親近感を覚えていたわたしは、呪わしい馬鹿だ。
ジュディスに対する怒りが、お腹の下の方で静かに急速に成長していくのを感じた。
唯々諾々と言われたことに従い、友人を陥れ、あまつさえ自分が何をやっているのかすらわかっていない。こんな人が、ナコト先輩との過去を懐かしむなんて。ナコト先輩のことをわたしよりも知っているなんて。
芽生えたいらだちと不信感は、音が聞こえてきそうなくらいにすくすくと根を張ってゆく。
ジュディスはふたたび朝食を吐きそうな顔をして黙り込む。それが彼女なりの真摯さの現れだということをわたしの頭は理解していたけれど、それすらも苛立たしかった。聞かれて、黙って、考えて、ようやく出てくるのは見当違いの返答で。その様子が誰かさんとそっくりで、まるでうすら馬鹿みたいだ。
「私は、部品なんだ」と、困った狩猟犬の表情でジュディスが口を開いた。想像通りの調子外れの返答だった。部品だって?
ジュディスは切れ長の目を、どうしたら良いのだ? と悲しそうに細めて、それから自分の両手をじっと見た。見ようによっては、目に見えない動物の死骸を抱えて途方に暮れているようにも見えた。
「……王立学院という装置を正しく動かすための部品だと、そう規定している。個人的な見解や疑問は、学院の決定に背く理由にはなり得ないのだ」
ジュディスは顔を上げ、クリス先輩の目を見つめる。切れ切れの言葉を紡ぐうち、彼女から悲しみや迷いの色がだんだんと消えていった。
「私は《柩》のナコトが〝血のいばら〟だとは思っていない。だが、彼女は〝いばら〟だ。王立学院がそう決めた。私はそれに従う」
彼女は彼女自身の言葉によって自らの感情を漂白しているようだった。けれど彼女のそれは、苦し紛れに自分に言い聞かせるといった類いのものではなくて、自分の考えを口に出すことで正しさを補強しているといった様子だった。組織を取るか友人を取るかといった葛藤は、もうずいぶん前に済ませているのだろう。細められた彼女の目は、石の塊のように見えた。
「それでいいのかよ、お前は」とクリス先輩。
「私にとって私の善し悪しは意味が無いんだ。きみたちを怒らせたのは、すまないと思っている」
諦観でも投げやりでも無く、静寂の魔女は言った。わたしたちと同じ言葉を使っているのに、彼女の言葉にはどこか未知の文明から来たような隔たりの感触があった。理解できるのは、「それでこの話は終わりだ」という、ジュディスの確固たる意思だけ。
クリス先輩は彼女を値踏みするようにねめつけ、それから嫌悪たっぷりの表情で鼻を鳴らした。
「くそが」
それだけ言って、クリス先輩はカウチに身体を投げ出し黙ってしまう。石の塊と話しても無駄だと思ったのかもしれない。
決まりの悪い沈黙が流れた。アビゲイルは右手の人差し指で鼻の頭を掻いて、クッキーを口に運び、何故か申し訳なさそうに咀嚼し、手を膝の上に戻した。石の塊は微動だにしなかったし、ヤマアラシにもその気はなさそうだった。
沈黙はその後もしばらく続いた。誰か気の利いた音楽でも流してくれればいいのに。そう思ったけれど、もちろん音楽は鳴り始めなかった。応接室の中には蓄音機も鉱石盤もなかったし、そういうやり方が得意な人間もいなかった。
わたしはしばらく迷ったあげく、一旦席を立つことにした。前日からの騒ぎで、日課に手を付けることが出来ないでいたからだ。少なくともそれは、最悪の空気の中でクッキーをかじりながらナコト先輩を待つよりはましなことに思えた。
アビゲイルの非難がましい視線に微かな心の痛みを感じながら、わたしは断りを入れて席を立つ。彼女には申し訳ないけれど、《嵐》のジュディスと同じ部屋の空気を吸うことが、たまらなく嫌になってしまっていたのだ。
彼女の主義信条は知ったことではないけれど、事実として彼女は友人との思い出を懐かしみながらその友人を裏切ることの出来る人物で、それはわたしの価値観とはあまりにも大きくかけ離れている。このままここに居ては、きっと彼女にひどいことを言ってしまうだろうという予感があった。
息苦しい無音を背にわたしは出入り口まで歩いてゆき、でもやはり、わたしには言っておくべき言葉があることに気づいた。
ジュディスの思想や内心がどうであれ、ナコト先輩が〝血のいばら〟だなんて、馬鹿げた話だということには変わりないのだ。少なくとも、それだけは確信を持って言えることだったし、ジュディスに対してはその見解をはっきりと示しておかなくてはならなかった。それだけは、わたしの立ち位置だけは、彼女に表明しておかなければならないと思ったのだ。
「ジュディスさん」
わたしはジュディスに向き直り、声を掛ける。静寂の魔女は顔を上げ、無言のうちにわたしの声に応えた。石の双眸がわたしを捉え、ただ言葉の続きを待った。わたしは息を吸い、口を開け、彼女のまなざしに応えた。
「絶対に、ナコト先輩は〝血のいばら〟なんかじゃない」
用意した言葉の半分も音にはならず、ジュディスの口下手を笑えはしない体たらくで、けれどわたしは言った。
ナコト先輩は〝血のいばら〟なんかじゃない。
本当に? と、不意にわたしの中の誰かが言った。本当にそう言い切れる? お前は彼女のなにを知っている? 妹がいることすら知らなかったのに?
いらつきの根が口からせり上がってくる。身体中に張った根っこが、わたしの口を、舌を、喉を、勝手に動かす。
「あなたが、仮に」と、わたしの中の誰かが言った。
「仮に自分の脳みそで何も考えることが出来ないくそ馬鹿だったとしても」
これは台本に無い、とわたしの中の誰かが言い、別の誰かが、それでも言うべきだ、と言った。
「ナコト先輩が〝いばら〟でないことと、あなたの馬鹿さ加減とは、何も関係ない」
思いのほか強い語気――というか、罵倒になってしまったわたしの言葉に、アビゲイルは面食らった様子で曖昧に頷き、ジュディスは微動だにしなかった。クリス先輩の仰向けの大きな胸がくっくと震えていたのが見えた。
わたしは逃げ出すようにドアを閉じ、そのせいでドアのフレームは激怒したみたいに大きな音を立てた。やってしまった、と思うには時すでに遅く、それも半分は嘘だった。
わたしは多分、それをやりたくてやったのだ。
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