2-4:《嵐》のジュディス - Judith the "Serenity"

《嵐》のジュディス(1)

「それで、結局どうなるのぉ?」と、〝チャビー〟・アビーは言った。

「……わからない」


 アビゲイルの問いかけに、わたしは答えた。椅子の背もたれに寄りかかって天井を見上げる。背もたれがきしんで、ぎし、と乾いた音を立てた。


 代表チームにあてがわれたクラブハウスの窓からは、中央塔が見える。夜のとばりの中、学長室の灯りは未だについていて、話し合いがまだ終わっていないことが見て取れた。

 代表箒手クラブハウス――正式な名前を「ライダーズ・パーチ」という――は、学院の敷地内にある二階建ての建物で、オーゼイユ市内の一般的な家屋と同じくらいの広さがあった。伝統と栄誉の匂いが染みついたこの古い建物は、ミーティングや休憩などの活動、備品やトロフィーの保管場所としての役割のほかに、朝の弱いナコト先輩が普段寝泊まりする部屋としても機能していた。

 寮棟の彼女の部屋よりも〝止まり木パーチ〟のほうが彼女の学部棟の近くに建っているからだ。二階建ての上階部分は実効支配的にナコト先輩個人の空間と化していて、だから、話し合いが終わったら彼女はここに帰ってくるはずだった。


 先に学長室から解放されたわたしとクリス先輩、それに一緒に学長室を叩き出され、ひとりで手持ちぶさたそうにしていた《嵐》のジュディスは、一階の談話室で彼女の帰りを待つことにした。そこに居合わせたのが、アビゲイル・〝チャビー〟・コンウェイそのひとというわけだ。アビゲイルは寮監の目を盗んでお菓子を食べるための隠れ家にパーチをよく使っていて、そのときも大量のクッキーを持ち込んでいた。話の最中にも、彼女はまるで密輸業者みたいに身体のいろいろなところからチョコチップがふんだんに練り込まれた焼き菓子を取り出してはみんなに配っていた。


 エルダー・シングス側と王立学院の間で交わされた長い議論(というには、一方的すぎる申し入れだったけれど)のさなか、わたしに出来ることはほとんどなかった。

 競技滑翔の大スター選手に対して社会を揺るがす連続通り魔犯の嫌疑が掛かっている際に、たかだか十五歳の小娘に発言権が回ってこないのは当たり前といえば当たり前の話で、むしろ大人相手に議事の中心に立っているエルトダウンのほうがおかしいのだ。


 だからわたしに出来ることといえば、ちらちらとナコト先輩の横顔を盗み見るくらいしかなくて、それだって特に意味のある行為とは言えなかった。


 会議の間じゅう、ナコト先輩はただ静かに自分のぶんのティーカップを見つめていた。なにか考え込んでいるようにも、あるいは全くそうで無いようにも見えた。微笑むように、かすかに口角が上がった唇からはなんの反論も釈明も出てはこず、代わりに水面のような沈黙だけがそこにあった。まるで凪いだ海が入り口のドアから部屋の中にするりと入ってきて、羊水のように彼女の身体だけをすっぽりと包んでいるようだった。


 普段の彼女であれば、喧々諤々の議論を鼻で笑い、王立学院や大人たちをこけにして、きっぱりと反論するはずの場面だった。それが、この世の中で最も自由で奔放な、ナコト先輩のあるべき姿なのだ。自らが拘束されて、望まぬ場所に連れ去られる場面にあって、その振る舞いは彼女らしくないように思えた。

 横目でのぞき込んだ鉄棺の魔女の宝石の瞳に映っているものがなんなのか、やはりわたしにはわからなかった。


「……しかし、ナコトに妹が居たなんてな。あいつ、そんなのひと言も言ってなかったぞ」


 クリス先輩が選手名鑑をめくりながら言った。学長の折檻の後遺症が未だに取れないのか、七月だというのにカウチの上で毛布にくるまっている。

 彼女が開いたページには、本来王立学院の代表として大釜に出場するはずだったハイディ・ヴィクトリア・ウィルソンの顔写真が記載されていた。アビゲイルのクッキーをかじりながら眺めるものだから、麗しきハイディの顔に食べかすが落ちてしまわないか気が気でない。


「《揺籃》の後釜に一年生の魔女、ね。そんなに強いのか? ナコトの妹――あのエルトダウンってのは」


「うむ」


 クリス先輩の述懐に、静寂の魔女が請け合った。

 ジュディス・ヘイワードはわたしの右隣に姿勢良く座っていて、クッキーを大事そうに両手で持っていた。髪を短く切りそろえた精悍な横顔や、すらりとした長身からは、その仕草は少しかけ離れて見える。


「〝書架〟は完全実力主義だ。貴族的配慮や年功序列は一切存在しない。彼女が一年生にして筆頭箒手を務めているという事実は、現状、彼女が他の〝書架〟よりも単箒での実力に優れている、という意味に他ならない」


「そりゃお前よりもってことか? 王立学院代表箒手、《嵐》のジュディスよりも?」


 ジュディスがうなずく。


「まさしく。《劔》の――」

 彼女はそこで言いよどんでから何やらうめき、朝食に食べたマーマレードつきのマフィンがせりあがってきたような顔で言葉を続けた。

「ク……ク、ク、クリス」


「普通に言えよ気持ちわりいな」


 端的に、ひどいと思った。ある種の人間にとって、初めて誰かをあだ名で呼ぶことは極めて勇気のいる作業なのだ。クリス先輩は決して邪悪な人格の持ち主ではないけれど、不幸なことに、ことそういう機微に関してはあまり理解のある方ではなかった。

 長身で鋭い顔つき、朴訥で硬質なもの言いから、当初わたしはジュディスのことを近寄りがたく感じていたのだけれど、どうも彼女は口下手で、単純に人づきあいが苦手なだけらしい。これはそのとき初めてわかったことだ。


「……すまない」


「なんで謝るんだよ気持ちわりいな」


 あまりにも理不尽な物言いに、ジュディスの切れ長の目が「じゃあどうしたら良いのだ?」といったふうに細められる。その表情はちょうど、忠実な大型の狩猟犬が持つたぐいのものだ。

 クリス先輩からすればジュディスの謝罪は本当に脈絡のないもので、ただ単に疑問を口に出しただけのことだったわけだけれど、その真意は人生に点在する無数の穴ぐらのどこかに転がり込んで消えてしまっていた。

 結果として、応接間に充満するのは《劔》と《嵐》双方の困惑だけで、わたしとアビゲイルに出来ることは心の中で同情することくらいしかない。結局、ジュディスがそこから自分を立て直すには、いささかの時間と咳払いがひとつ必要だった。


 彼女はごほん、と咳払いをして話を続ける。


「……エルトダウンが筆頭箒手に就任するにあたって、彼女は反対する六名の〝書架〟をすべて一騎打ちで下した。その六名のうちには私も含まれる」


 クリス先輩の眉が、意外そうに持ち上がる。ジュディスは複数の感情が入り交じった顔でうなずいた。


「名実ともに鉄棺の魔女の再来だよ、彼女は」


「……あんな迷惑な女が何人も居てたまるかよ」


「確かに」と、静寂の魔女は笑い、懐かしそうに目をすがめる。

 ジュディス・ヘイワード。王立学院時代の、ナコト先輩の同級生。きっと彼女も、我々と同じように鉄棺の魔女に振り回されてきたに違いなかった。

 そしてそれは、わたしの知りようのないナコト先輩の過去だ。


 不意に、「なるほど」と思った。

 どうしてわたしにはナコト先輩の考えていることがわからないのか。だってわたしはナコト先輩のことを、なにも知らないのだ。

 クリス先輩や《嵐》のジュディスのように、ともに過ごしてきた長い時間があるわけではなかった。わたしは彼女の好きな物や嫌いな物をほとんど知らないし、エルトダウンという妹がいることだって知らなかった。彼女が何をしたいか、何をしてほしいか、何をされたら嫌なのか。わたしはそのすべてを知らなかった。


 わたしが知っていることといえば、彼女の天才性や、おとぎ話の宝石のような瞳。それに朝が弱いこと。そのくらいだ。それらはほとんど全て外形的な情報に過ぎず、そんなものをかき集めたところで、彼女を理解する助けになるはずなんてなかった。


 アカンサ・クリサンセマムは誰かを理解しようとすることを「恋をするようなもの」だと言ったけれど――それだってよくわからない。わからないのだ。わたしには、ナコト先輩のことが、なにも。


 わたしは小刻みに首を振って、わたしをどこか暗いところに引きずり込もうとする思考の渦を振り払おうとした。その試みは特に何の成果も上げなかったけれど、そうせずにはいられなかったのだ。

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