ここから

「滝沢君、今日もおうち寄ってっていい? 良いよね?」


 紫すみれは今日もうちにやってきた。

 それはまあ、慣れたなんて言えば紫すみれファンに刺されるかもしれないが、なんとか耐性がついた感じだ。


 しかし都合が悪いことに今日は母さんがいる。

 いつもなら二人っきりになりたくないので母さんがいることが助け舟だったのだけど。


「あらーすみれちゃんこんばんは」

「おばさまこんばんは。今日はビーフシチューですか?」

「よくわかったわね。この前すみれちゃんにレシピ聞いたから試してるのよ。でもちょっと不安だから味見してくれる?」

「ええ、もちろん。じゃあ滝沢君、私はお料理手伝ってるから先にお風呂でも入ってて」

「う、うん」


 まるで仲のいい嫁姑のように、並んでキッチンに戻る二人の背中を見ながら俺はそそくさと部屋に逃げた。


 もう、逃げられるはずがない。

 周りを固められ、俺の正体がバレ、キスまでしてしまった。


 この状況で紫すみれの好意を拒否すれば俺は多分……いや、ほぼ間違いなく刺される。

 もしくは監禁、それとも燃やされる?


 とにかく、引き返せないところまできたことは確かだ。

 あのキスが俺を縛る。

 縛り付ける。

 縄も鎖もなくたって。

 俺はもう動けない。


「はあ……」


 風呂に入り天井を見上げると、真っ白な天井にちょうどハートのような形をしたシミがあった。


 俺は幸せになれるのか。

 今が幸せなのか。

 それとも彼女がいる日常が幸せにしてくれるのか。

 

 彼女のことが頭から離れない。

 キスされたから、とかだけじゃなく。

 ずっと、紫すみれのことばかり考えている。


 この気持ちがなんなのか。

 もう一回キスしたらわかるのか。

 それとも既に彼女に堕ちているのか。


 何度顔を洗っても目が冴えない。

 ずっとぼーっとしている。


 のぼせたのかもしれない。

 俺はゆっくりと、湯船からあがった。



「ええ、そうなんですよおばさま。最近変質者が多くて怖くて」

「最近物騒よねー。でも、うちの颯なんかで大丈夫? あの子ひ弱だし」

「いえ、彼だから頼りになるんです。でもおばさまは寂しくないですか?」

「えー、いいわよ別に。すぐ近くだしいつまでも子離れできない親も今時痛いでしょ。それに、すみれちゃんみたいな子ならこっちからお願いしたいくらいよ」

「もう、おばさまったら。じゃあ、早速今日からお願いします」


 おばさまとお話。

 交渉成立。


 今日から私のアパートで同棲。

 ふふっ、何事も早い方がいいものね。

 

 

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