第47話 響く音色(後編)

 合宿六日目の夜。

あかりと久遠が企画したミニコンサートは、久遠のバイオリン演奏が始まろうとしていた。

グランドピアノの前に立つ久遠と、伴奏者のあかりが観客席に向かって一礼する。

拍手が止むと、あかりは鍵盤の前に座り、久遠はステージの中央に立った。

静けさに包まれる中、久遠はバイオリンを構え、あかりに目線を送る。

「……。」

あかりの緊張した表情に気がついた久遠は、鍵盤の前の彼女に小さな笑みを見せる。

彼女も小さな笑顔を返すと、譜面立てに置いた幾つもの書き込みがされた楽譜を少しだけ直し、再び鍵盤へと向き合った。

あかりは小さく深呼吸をすると、細い指先で最初の一音を鳴らす。

室内に彼女が奏でる柔らかなメロディが静かに伝わっていく。

久遠はゆっくりと弓を動かし、彼女が奏でるフレーズを追いかけるように、バイオリンの音を重ねていく。

(この曲は……)

良子は二人が紡ぎ出すメロディを聴き、優しげな笑顔を見せる。

バロック時代の作曲家であるヨハン・パッヘルベルの『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』前半のカノン。

その美しい曲は『パッヘルベルのカノン』として世に知られている。

繰り返される旋律を久遠のバイオリンが繊細に奏でる。

静かに語りかけるような彼の音色は、あかりの伴奏と絡み合いながら、少しずつ熱を帯びて後半部へと進んでいく。

(合わせるのが気持ちいい)

あかりは楽譜と鍵盤、そして久遠の旋律を追うことに集中していたあかりは、自分がいつの間にか久遠の奏でる音楽と一体になっていることに気がついた。

彼は慣れないあかりをリードしながら、彼女に寄り添うようにして演奏する。

あかりは放課後のC教室や研究所で見る彼のことを心に描きながら、鍵盤で旋律を奏でていった。


最後の長い一音が鳴り、弓を下ろした久遠がほっと息をついて笑うと、談話室に大きな拍手が響く。

久遠はヴァイオリンを下ろすと、静かに一礼した。

「凄い! 凄いです! 久遠さん、あかりさん!」

千鶴が思わず立ち上がって拍手をすると、周りのメンバーやゲストもそれに続く。

久遠は照れ笑いをしながら、鍵盤の前で放心しているあかりの元へと向かった。

「城戸さん。」

あかりは差し出された手を無意識に取ると、急に我に返って立ち上がった。

二人は拍手のやまない観客に深々と頭を下げる。

「和泉久遠と城戸あかりで『パッヘルベルのカノン』をお届けしました。……いやあ、素晴らしかったでござるな。」

「凄い。息がぴったりでした……!」

「いやあ、あれは久遠君がうまく合わせてくれるだけで……。」

あかりが照れ笑いをする。

「あかり。久遠君。とても素敵だったわ。ありがとう。」

良子が二人に声をかけると、あかりは満面の笑みを見せる。

「知ってた? 良子が好きな曲なんだよ、久遠君。」

あかりの言葉に久遠は微笑んで頷くと、良子に視線を向ける。

彼女の嬉しそうな顔に、久遠は柔らかな笑顔を見せた。


   ◇


「久遠君、城戸さん、アンコール!」

柊の声に、久遠とあかりは顔を見合わせる。

「……どうしよう、城戸さん。じゃあ、もう一曲……。」

遠慮がちに話す久遠に、あかりは力の抜けた笑顔を見せる。

「私、今日はもう限界。なんだかもう手に力が入らないし、膝が笑っちゃって……。」

彼女はそう言って笑顔を見せて続ける。

「それに、私も久遠君の演奏をゆっくり聴きたくなっちゃった。」

久遠は小さく頷いてバイオリンを持ち直す。

あかりはもう一度観客席に一礼をすると、空いていた静香の隣の席へと向かった。

「真美さん、バイオリン一台だとどんな曲があるの?」

「そうだな……。」

真美は燕尾服を着た久遠の横顔を見ながら呟く。

「よく弾かれるのは無伴奏曲かな。バイオリニストにはそれぞれ大事な無伴奏曲があったりするものさ……。」

あかりは感心したように頷くと、ステージの久遠を見つめる。

彼女は真美が見せた少し寂しげな表情までは気がついていなかった。


 ステージに立つ久遠はピアノを鳴らして再度丁寧にバイオリンの調律を行うと、バイオリンを構えて弓を持ち直す。

(とはいえ、どれを弾こう……。)

元々手持ちの曲が多い方ではなかったが、伴奏無しの曲となれば、彼の中で自ずと弾く曲は限られていた。

そのいくつかの選択肢の中で、彼は決めきれずにいた。

静まり返った観客席を見渡す彼に、中央の席に座る篠宮良子の姿が目に入った。

(……?)

彼女はいつになく固い表情を見せ、小さな手を膝に置いている。

さっきまで笑顔でいたはずの彼女の変化にも少し戸惑ったが、彼はどこかでその表情を見たことがあるような気がしていた。

だが、彼は心の中に去来した動揺を振り払うように目を閉じる。

そして彼の中では、次に弾く曲が定まっていた。


 久遠の右手に構えた弓が弦に触れ、最初の一音が響くと、良子は膝の上に乗せた手が僅かに震え、自分の表情がさらに強ばっていくのを感じていた。

久遠がバイオリンで奏でるその曲を、良子は知っていた。

『パルティータ第1番 ロ短調 Double』

ヨハン・セバスティアン・バッハのバイオリン無伴奏曲。

六年前のこの場所で聴いた曲だった。

切なげに歌い上げるような弦の響きを感じながら、良子はそっと目を閉じる。

いつの間にか彼女の心は、心の奥深くに閉じ込めていた記憶へと帰っていく。

十六歳の良子は、同じように椅子に座ってバイオリンの調べを聴いていた。

いつも仲間達と賑やかだった談話室も、その時は二人だけだった。

バイオリンを奏でるのは、古い燕尾服に身を包んだ少年だ。

柔らかな髪に、小さな顔。

そして、蒼く深い瞳。

その小さな身体にふたつの世界の命運を背負った異国の王子。

今はもういない比良坂彼方ひらさかかなたの姿が目に浮かぶ。

あの時と同じバイオリンの音色が、同じ室内を静かに満たしている。

良子の中で、過去と今の境界が曖昧になっていく。

それと同時に、心の中のどこかで凍りついていた何かが溶けていくのを感じていた。


 低い最後の一音がたなびいて消え、しんとした余韻の後に談話室は暖かな拍手で満たされていく。

久遠はバイオリンと弓を携えて静かに一礼した。

拍手が続く中、久遠は小さく息をついてゆっくりと頭を上げる。

正面の席に座る良子の姿を見た瞬間、久遠の表情は僅かに凍りついた。

彼が見た篠宮良子の頬には幾筋もの涙が伝い、小さな手は膝の上に置かれたまま震えていた。

それは、久遠が今まで一度も見たことの無い姿だった。

「……篠宮さん。」

様子に気がついた楠木が彼女の手にそっと手を触れる。

「……あ……。」

良子は夢から醒めたように涙を拭うと、楠木に照れ笑いをして見せる。

「なんだか感動しちゃって。凄く……素敵な曲……。」

「……。」

怪訝な顔と安堵が入り混じったような笑みを見せる楠木。

「やー、もうもらい泣きしちゃうー……。」

目を潤ませる柊の声を聞きながら、あかりが小さく呟く。

「良子……?」

あかりは良子のその姿を見ながら、心のどこかで小さな違和感を抱いていた。

篠宮良子はいつも明るく振る舞い、表情も豊かだ。

だが、自分の本当の感情を滅多に表に出さないことに、何となくではあるが気づいていた。

久遠のバイオリンが彼女の心の何かを動かしたことは想像に難くない。

だが、それが何なのかはあかりには検討がつかずにいた。


 ステージに立つ久遠は、すっかり元の表情を取り戻して満面の笑みで拍手を送る良子に、小さな笑みで応える。

だが、彼の心は別の思いに捉われていた。

それは自らの中に生まれていた、小さな問い。それは疑念と言っても誤りではなかった。

篠宮良子がさまざまな場面で久遠に見せる親愛の表情。

だが、時々それが自分自身に向けたものではないように思える瞬間があった。

今回バッハの無伴奏曲を選んだのは、無意識にそれを確かめたかったのかもしれない。

なぜならその曲は、パッヘルベルのカノンと同じように、記憶を失ったはずの自分が弾くことができる唯一の無伴奏曲だったからだ。

バイオリンを奏でている間、あかりをはじめ聴いてくれる人達の姿を感じていた。

だがなぜか、その場に篠宮良子と二人だけでいるようにも思えていた。

そして、その感覚は彼の中に混乱と新たな違和感を残していた。

彼女が涙を流したのは何故なのだろうか。

そして自分の疑念が正しいのならば……。

篠宮良子が自分を通して見ている人は、一体誰なのだろうか。

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