第46話 響く音色(前編)
「お呼ばれに来ましたー!」
合宿六日目の夜。
久遠達が滞在する洋館に、
玄関に姿を見せた三人の女性は、UNITTE羽衣島研究所の中央研究室に所属する楠木、水瀬、柊だった。
「ようこそいらっしゃいました!」
出迎えた千鶴が三人に頭を下げる。
レセプション係の彼女は、長い髪を可愛らしくまとめ、オレンジ色のワンピースを身につけていた。
「こちらこそ。呼んでいただいて嬉しいわ。」
落ち着いた色合いのサマードレスを
「こないだはどうもね、御堂千鶴さん。」
楠木のアシスタントを務める柊は、日に焼けた顔を綻ばせて千鶴に声をかけた。
「はい! 先日は研究所を案内いただいて。とても勉強になりました!」
「いやあ、なんのなんの。それにしてもこんな凄いところで合宿してるんだね。いいなあー。」
茶色の髪を後ろにまとめ、オフショルダーにVネックのカラフルなワンピースを着た柊は、広い玄関から続く長い廊下を見渡した。
「では、会場にご案内しますね!」
千鶴は小さな手を奥の談話室の方に向けると、三人を伴って中へと進んでいった。
◇
「おおー、コンサート会場っぽくなってるねえ。」
談話室はいつもの長ソファーやテーブルが片付けられ、グランドピアノがある壁側の簡易ステージに向けて椅子が並べられている。
隣接しているキッチンでは、会場設営を終えた大進と一真がコンサート後のお茶会の準備をしていた。
ステージの正面にあたる席から、フォーマルなサマードレスを着た篠宮良子が手を振っている。
「お客様はこちらの席になります!」
千鶴が三人のゲストに、良子の隣の席を勧めた。
「千鶴ちゃん、私も何か手伝おうか?」
小声で声をかける良子に、彼女は可愛らしく首を振って答える。
「篠宮先生は今日はお客様ですから。開演まで御着席ください!」
千鶴はそう笑って答えると、キッチンへとぱたぱたと駆けていった。
「……というわけで、真美と私は今日はゲストなんだそうです。すみません、楠木副所長、水瀬さん、柊さん、急にお招きしちゃって……。」
「いいのよ、篠宮さん。所長は用事があって来れないんだけど、皆さんによろしくって。」
「あかりんやくおりんの演奏が聴けるっていうんで飛んできました。」
水瀬沙織は細身の身体をスリットの入ったタイトワンピースで包み、小脇には大きなカメラバッグを抱えていた。
「元々、あかりと久遠君がシークレットイベントとして企画してたみたいなんだけど、真美に話したらどんどん話が大きくなってしまったんですって。」
良子はそう言って苦笑してみせる。
二人でちょっとだけ演奏する予定だったところが、結局チームを上げてのイベントになってしまっていたのだ。
「なので、せっかくだからお世話になった中央研究室の楠木さん達もお招きしましょう、ということになって。」
「大鳥博士も実はこういうの好きですしね。」
「そうなのよ。お爺さまが音楽好きだったり、ご親族に演奏家がいたりしたので、昔はよくここでミニコンサートをやったんですって。」
「へえ、いいですねえ。」
「ええ。六年前にも……。」
良子はそう言いかけて口ごもると、横を通りかかった千鶴に声をかける。
「あかり達はどうしてるの?」
「ええ。奥の部屋で静香さんと大鳥博士がドレスの準備を……。」
「おお、あかりんのドレス!?」
沙織の目が輝き、布製のカメラバッグから慣れた
良子があかりから聞いたところよれば、沙織はずっと続けている趣味があり、撮るのも撮られるのも、着るのも着せるのも好きなのだそうだ。もっとも、それが何の趣味なのか、世事に疎い良子には検討がつかなかった。
「そろそろだと思うのですが……。」
千鶴がそう言うのと同じくらいに、奥の部屋のドアが少し開き、中からあかりの悲鳴のような声が聞こえてきた。
「ちょ、真美さん! 本当にこのカッコで弾くの!? 肩に羽織るものとかは……?」
「何言ってんだ、あかり。この肩のラインで魅せるんだよ。」
「わ、あかりちゃん、歩き方、歩き方。裾踏んじゃいますよ。」
奥の部屋から溢れてきた声に、良子は不安げな表情を見せる。
「もう、あの子大丈夫かしら……。」
「大丈夫よ。城戸さんのことになると、急に心配性になるんだから。」
良子の隣に座る楠木は、優しげに笑う。
「おお、あかりんが出てくるよ!」
水瀬はすかさず用意してきたNikonのカメラを構える。
彼女はゲスト兼撮影係という立ち位置だったのだ。
「あかりちゃん、ゆっくりね。」
先に出ていた静香がドアを大きく開け、あかりに手招きする。
フラッシュが連続して焚かれる中、廊下の奥から真っ赤なロングドレスを身につけた城戸あかりが姿を現した。
光沢のある深い赤色の生地はシャンデリアの光を浴びて輝き、細く絞られたウェストの下で大きく結ばれたリボン状の飾りから流れるようなドレープが上品に波打っている。
ビスチェはシンプルなデザインながらも、あかりの豊かな胸と白い肩を美しく演出していた。
いつもは自然に下ろしている柔らかなブラウンの髪は、今日は毛先に軽く動きをつけている。髪の片方は耳にかけ、白い真珠のついた耳飾りが小さく輝いていた。
「……あかりさん……!綺麗……!」
千鶴が目を輝かせる。
「おおー! やっぱりあかりんは赤が似合うねえ! 目線ください、目線!」
夢中でシャッターを切る水瀬に、あかりは思わず胸を隠すようにして縮こまる。
「やっぱ、恥ずかしいよ……! 私、伴奏なのに……。」
「あかりもソロで一曲弾くことになっただろ。それに、堂々としないともっと恥ずかしいぞ。」
真美は笑いながらあかりの背中を叩く。
「叔母のコンサートドレスがいくつか置いてあって良かったよ。思った通り、ぴったりだったな。」
「あかり、素敵よ。よく似合ってるわ。」
ゲスト席に座る良子が微笑んで言葉をかけると、あかりはようやく安堵の笑みを見せた。
「こんな凄いドレス着て弾くのなんて初めてだよ……。」
そう言って彼女は照れ笑いを見せる。
「ところで、久遠君は?」
「ああ。先に着替え終わって、別の部屋で待機しているよ。」
真美がそう答えると、廊下の突き当たりにある部屋のドアが開き、小さな足音が届いてきた。
あかりはドレスの裾をつまんで振り返る。
談話室にいる皆が静まり返る中、廊下の暗がりから久遠が姿を見せた。
「……!」
思わず息を呑む良子。
視線の先には、バイオリンと弓を手にゆっくりと歩いてくる久遠の姿があった。
彼は黒い燕尾服を身につけ、装飾のついた白いシャツに、同じく白い蝶ネクタイを結んでいる。
いつもは額にかかっている柔らかな黒髪は後方に撫で付けられ、深い蒼色の瞳がより印象的に見えた。
談話室のグランドピアノの横に立った彼は、いつもの優しげな表情ではなく少し緊張した面持ちをしていたが、その表情は元々端正な顔立ちをより引き立てていたようだった。
「久遠さん……格好いいです……!」
絞り出すように呟いた千鶴と、その隣で微笑んで頷く静香。
二人の姿を見て少し緊張がほぐれたのか、久遠は柔らかな笑みを見せた。
「良い……! 大鳥博士、どうしたんですか、あの衣装……!」
目を輝かせている柊は、興奮気味に真美に話しかける。
「祖父が昔着てた燕尾服が一着だけ残っててね。デザインはちょっと古いけど、これはこれでなかなかいいだろ。」
「よく似合ってるじゃない。まるで王子様みたいだよ、久遠君。」
柊が何気なく発した言葉に、良子は一瞬表情を固くする。
周りが久遠とあかりの姿に賑わっていた中で、隣にいた楠木だけが良子の表情の変化に気がついていた。
(篠宮さん……?)
彼女が声をかけようとした次の瞬間には、良子はいつもの表情を取り戻し、ステージの二人に笑顔で拍手を送っていた。
◇
談話室に作られた特設コンサート会場。
照明を落とした室内では、あかりが弾くピアノの音色が響いていた。
あかりと久遠が企画した「文化保存研究部主催ミニコンサート 真夏の夜の夢 in 羽衣島」と銘打たれたコンサートは、大鳥真美や他のメンバーの協力もあり、急に決まったとは思えないくらいに見事な形になっていた。
音楽好きだった真美の祖父の意向で、談話室は室内コンサートができるように設計されており、ピアノや照明、ゲスト用の椅子など必要なものが揃っていたのも幸運だった。
ステージでは真っ赤なコンサートドレスでベーゼンドルファーのグランドピアノを奏でるあかりの姿が、スポットライトで照らし出されている。
最初は久遠のバイオリンの伴奏だけだからと
城戸あかりが選んだ曲はベートーベンの「月光 第一楽章」だった。
ゆったりと月夜の波に
あかりは中学時代にリハビリを兼ねてピアノを習っており、中三の受験前に一度だけ発表会に出た時に弾いたのがこの曲なのだという。
柔らかな表情を見せながら最後の和音をしっかりと響かせると、彼女はゆっくりと立ち上がり、観客席に頭を下げた。
彼女を盛大な拍手が包む。
「あかりちゃん、素敵……!」
思わず静香が口にすると、横に座る千鶴は何度も頷き、大きな拍手を送っている。
司会席に立つ黒いジャケット姿に蝶ネクタイの大進がマイクを取る。
「城戸あかりの演奏による『月光 第一楽章』でした。美しい月夜を彩る演奏、素敵でしたね。城戸さん、ありがとうございました。」
「大進君、普通に司会上手いし、めっちゃ良い声……。あと、ござる無しでも喋れたんだ。」
隣の柊に小声で話しかける水瀬を、眉を
「それでは次は和泉久遠のバイオリン演奏をお楽しみください。伴奏は引き続き、城戸あかりでお届けします。」
談話室を包むような拍手の中、燕尾服を着た久遠はバイオリンを携えて立ち上がり、ステージへと向かう。
篠宮良子は拍手を送りながら、その背中から目を離すことなく見つめていた。
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